二十一
それから二人はおやつにプリンを分けて食べた。使ったスプーンは「後ででいいや」とキッチンのシンクに放って外に出る。美紗子の足を覆う、出会った日に履いていたスニーカーは以前よりも少しだけくたびれていた。乾いたアスファルトに並んだ二人の影は、背丈よりも少しだけ長く伸びている。冷たい風が吹いて、側溝の隙間から伸びた名前も知らない細い草が揺れた。
「寒くなってくると余計に感じるんだけどさ、東京の時間って福岡よりもずっと早いんだよ」
歩きながら、空を見つめていた美紗子はそう呟くと「ミツイくん、知ってた?」と隣を歩く三井に続けて尋ねた。
「人が急いで生きてるってこと?」
「ううん、感覚的な話じゃなくて本当の話。日が沈むのがね、東京は随分早いんだ」
「あぁ、なるほどね」
デザインを気に入って「貸して」と言ったっきり借りたままにしている三井のパーカーの、長い袖で指先までをすっぽりと覆った美紗子は歩いた。借りて、着て、洗濯して、を三度繰り返したら美紗子の部屋の匂いに変わってしまったそれを、美紗子はなんとなく残念だと思った。
「だからさ、感覚がずれちゃうんだ。もう夕方だな、夜ご飯準備しなくちゃって思ってもまだ昼過ぎだったりするの。東京にきてもう三回目の冬なのに、ぜんぜん慣れないよ」
「そういうものなんだね。俺は東京以外を知らないから、あんまりピンとこないけど」
「そういうものなんだよ」
そう返してから、美紗子はスマートフォンで東京と福岡の日の出と日の入りの時刻を調べて見せた。三井は「結構違うね、今まであんまり気にしたことがなかったよ」と返した。
「じゃあさ、ミサの感覚的に今は何時ごろなの?」
「五時前…いや、四時過ぎくらい、かな。そろそろ夜ご飯は何にしようかなって時間。小学生ならもう家に帰る時間」
「まだ三時すぎだよ。晩御飯よりおやつの時間だし、子どもだってもうひと遊びしたい時間」
三井は驚いたように笑って言った。
太陽が沈む方に向かって二人は歩いている。目的地はなく、ただなんとなく歩いている。空の色、風や空気の匂い、すれ違う人々はなんとなく創造の糧になる気がするから、美紗子はこういう当てのない散歩も好きだった。たしか以前二人で歩いたときに、三井も同じようなことを言っていたと思う。
「ねぇ、ミツイくんにとって夕方って何時ごろ?」
「どうだろう。三時過ぎから六時ぐらいかな」
「あ、一緒だ。七時が近づくと、もう確実に夜だよね」
「それは言えてる。ちなみに二時はまだまだ昼寄りだね。所謂、昼過ぎ、だ」
「うん、わかるわかる。こういうさ、感覚がピタッとハマるのって大事だよね。なのに私の時計と東京の姿はミスマッチなんだよ」
「それは困ったね」
「そうだよ。困るよ」
大して困った顔もせずに美紗子は言った。それに三井は呑気なリズムに乗せて「どうしたもんかねえ」と返す。別に、本気で困っているわけではなかった。
「あ、見て。おせちの予約開始だって。クリスマスも街のイルミネーションもまだなのにね」
通りかかったスーパーの窓に、おせち料理の写真がたくさん並んだポスターが貼られていた。隣にはクリスマスケーキの宣伝ポスターも並んでいる。
「まだ年末って感覚もないのに。これはミサと東京よりも大きなズレだよ。困ったね」
そんなことを真剣な顔で三井は言った。でも別に、本気で困ってなどいないことくらい、美紗子も理解している。だから
「そうだね。それに今頼んだら、食べる頃には何を頼んだのか忘れちゃいそうだよ」
と簡単に同調して言葉を返した。それから美紗子はなんとなく立ち止まって、ポスターの上に並んだおせちを吟味する。三井が「予約するの?」と訊けば「しないよ」と返した。
「ミサの家ではおせち食べる?」
「食べるよ。でも買ったやつじゃなくて、家で作ったやつ。ミツイくんは?」
「うちも食べるよ。買ったやつ」
「へぇ。ミツイくん、おせち好き?」
「あんまり。ミサは?」
「私もあんまり。でもおせちってさ、具材の語呂合わせを思い出しながら食べるじゃん。一年に一回しか考えないから毎年ほとんど忘れてて『あれ、これはなんだっけ?』って考えながら食べるのは楽しいから好き」
「そんなことしないよ」
美紗子の答えに、三井はふっと頬を緩めて返した。そして少しだけ赤くなった鼻の頭を人差し指で撫でる。そんな三井に美紗子は「例えば昆布巻きは、喜ぶのこぶだよ」と得意気に教えた。三井が感心したようにも、関心がないようにも聞こえる「へぇ」という音をこぼして、二人してまた歩き出す。
「ミツイくんの家ではさ、おせち食べる時どんなお箸使ってる?」
「普通の割り箸だよ。頼んだら付いてくるやつ」
「うちはね、栗の木の枝で食べるんだよ。お箸の長さに枝を切ってさ、先だけ削ってお箸にするの。おじいちゃんが作ってくれるんだけど、枝ってゴツゴツしてるから食べづらい」
「新年早々、食べにくい箸で食事するの?」
「そうだよ。巡りが良くなるとか、家計のやり繰りが上手くいくとか、そういう意味があるんだって」
「好きだね、語呂合わせ」
「私が考えたんじゃないよ、昔からの風習だよ」
話しながらもぶらぶらと足を進めていると、公園にたどり着いた。ここで夕日を眺めようかと二人は足を踏み入れ、落ち葉に囲まれたベンチに腰を据える。
「ミサ、お正月はどうするの?」
「実家に帰る。ミツイくんは?」
「こっちに残るつもり」
「実家近いのに帰らないの? お正月くらい、帰ったらいいのに」
日も傾きはじめて、外の空気は少しずつ冷え込みが強くなってきた。それでも小さな女の子たちは、足をクネクネと動かして横に進む、スケートボードにも似た乗り物に乗って楽しそうに遊んでいる。
それを見ていた三井が「あれなに?」と聞いたが美紗子も知らなかったので「クネクネ移動する乗り物 おもちゃ」と検索した。意外にもすぐにヒットしたので「ブレイブボードって言うんだって」と答えてみせた。
それから三井はしばらく女の子たちを見ながら黙っていた。そして突然「弟が、四月に就職したんだ」と口を開く。美紗子はなんの話かわからず一瞬戸惑ったが、すぐに先程の実家に帰る、帰らないの話の続きだと察した。
「なんだか気まずいから、帰らないことにした。お前はどうするんだって訊かれても、答えられないし」
夏、実家に帰ったとき、就職はどうするのだと散々問われたことを美紗子も思い出した。それが思考を邪魔するせいで上手く返事が見つからず、美紗子は「そっか」とだけ口を開く。自分が三井と同じ歳を迎えた時、自分は何と訊かれて、何と答えるのだそうか。
二人の間に流れた沈黙の隙間を縫うように、乾いた風が落ち葉を転がした。カサカサと乾いた音がした。
「空、きれいだね」
沈黙の後に、三井が言葉を落とす。美紗子も空を見上げた。水色からオレンジに染まり始めた空と薄く伸びたグレーの雲が、確かに美しかった。
「きれいだね。これからだんだん茜色に染まっていくよ」
「なんだか茜色っていい響きだね。赤や橙って表現するよりも、空の赤って感じがする。でもさ、夕焼けってなんで赤いんだろ」
空を見つめたまま、三井が口にする。またしずかに、風が吹き抜けた。
「太陽の光ってさ、本当は赤とか紫とかいろんな色の光が混ざってるんだって。それがここに来るまでに混ざりに混ざって、私たちの目には白い光として降ってくるの。でも太陽が傾く朝とか夕方は、塵に邪魔されて紫や青っぽい光はここに届くまでに見えなくなる。だから残った赤だけを私たちは見てるんだよ」
美紗子が見つめた三井の横顔は、真剣に空を見つめていた。その横顔に美紗子は
「でもそんな理屈より、きれいなものはきれいだって思って、そのまま受け止めた方が神秘的に見えるよね」
と言葉を続けた。公園のベンチに座る二人を、徐々に都会のマジックアワーが包んでいった。
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