二十
「生きていくにはお金がかかる。お金を得るのには時間がかかる。でも、俺たちの時間には限りがある。だからたしかに難しいね、好きなことをして生きていくのって」
三井曰く、バンドをやっている殆どの人間はお金がないらしい。楽器は高いし、使えば消耗品の買い替えが必須だ。やりたいことや出したい音が増えれば必要な機材だって増える。ライブハウスの借用費だって大きな出費で、お金はどんどん手元から離れていく。それなのに練習時間やライブの時間の確保を考えると、定職に就くことも難しい。そんな話を、恥ずかしそうに、どこか悔しそうな顔をしながら話てくれた。
「バイトにたくさん時間使って、たくさんお金を稼いで、いい楽器を買っても練習できないんじゃ意味がないですよね」
「そうなんだ。だから俺、ずっとナオの叔父さんに甘えてた。でも最近ようやくライブの動員も安定してきて余裕が出てきたんだ。だから自分の楽器を買えた。これからはもっと頑張らないとね」
随分前に、よくしてくれた三つ歳上のバンド仲間が、楽器ローンの返済に追われて音楽から離れたのだと三井は言った。すごくかっこいい人だったが、先立つものがなければ立ち行かなくなるのだと、そう言った。
「私はこれから、どうするんだろう」
美紗子の中の、先程かたく閉じたはずの蓋がぱかりと音を立てて開いた。その拍子に言葉が漏れる。居酒屋の騒がしさにかき消されそうな小さな声がこぼれ落ちて、頭の中に抱え込んでいた不安が初めて音となって世界に飛び出た。
しかし三井にはその音が届かなかったのか、美紗子の呟きに応えることなく「もう一杯、ビールをもらおうかな。ミサちゃんはどうする?」と問いかけてきた。不安をかき消すために、もう一杯ほしいなと思っていた美紗子は「私もそうします」と返して、ちょうど通りかかった小柄な男の店員を呼び止めた。そのままビールを二杯頼むと、小柄な店員はその身体に不釣り合いなほど大きな手で、空になったジョッキを掴んでからテーブルを後にした。
それから二人はそれぞれ二杯、ビールを飲んだ。飲みながら「今日のライブはすごかった」と何度も褒めた。三井はそのたびに「ありがとう」と照れたように笑った。そうやって笑って「これからどうするのか」は考えないようにする。
ビールと程よい疲労が体に回り始めたころ、二人は店を出た。以前と同じように三井が少しだけ多くお金を払ってくれる。楽しいライブに招待してくれたのだから、とお金を三井の手に戻そうとしたのだが彼の綺麗な手はそれを拒んだ。だから「代わりに」と言ってコンビニで買った炭酸飲料を三井に手渡す。それを口にしながら二人はフラフラと公園を散歩した。
夜の空気はまだ、夏のにおいが強かった。でもどこかに少し、秋の気配も漂っていた。
*
「ねぇ、ほんとにここでギター弾いていいの?」
「うん。たぶん大丈夫だよ」
「ほんとに?」
「私もミシン使うから、引っ越しの時にみんなに挨拶したんだ。そしたらみんな日中は家にいないって言ってたし、隣の人もギターを弾くって言ってたから大丈夫。それにこの部屋、結構壁が厚いんだ」
そう言って美紗子は得意げに壁をコンコンコンと三度鳴らした。
「じゃあ、本当に弾いちゃうね」
「うん。私も少しうるさくするね」
こーっと控えめに鳴る暖房の音を掻き消すように、狭い美紗子の城の中でジャカジャカとギターが響き出した。その隣ではカタカタと、いつもと変わらない美紗子のミシンがリズムを刻んでいる。それはどこか異様で不思議な光景だったが、なぜか心地いい空気だった。
「やっぱりギター、うるさくない?」
「ねぇ、ミシンの音、邪魔じゃない?」
しばらく互いがリズムを奏でたあと、二人は同じタイミングで声を掛け合った。ぴたりとハマった声に、吹き出して笑う。
「俺、ミサのミシンの音、好きだよ」
「私も、ミツイくんのギターの音、好きだよ」
ひとしきり笑ってからそう答えると、今度はクスクスと笑い合う。
「なら、なんにも問題ないね」
「うん。問題ない。ところで今日の夜ご飯、何が食べたい?後で作るよ」
「味噌汁がいい。あのミサの家の甘いやつ」
「わかった」
ライブを終えて、お酒を共にして、公園を散歩した二人は中野区の家に帰った。途中、何があったわけでもないけれど、何もなかったから二人は自然とそうした。
二人で眠って、朝になって、あり合わせの具材でご飯を作って、美紗子は三井に振舞った。三井は「美味しい」と目を細めて、優しそうな笑顔でそれを食べてくれた。
三井はお金と時間のために、食事を削ることが少なくない。それを心配した美紗子は頻繁に食事を振舞った。何より美紗子は美味しそうに食べてくれる三井の顔が好きだったし、一人より二人の食事の方が楽しかった。
「ミツイくんってさ、なんだか猫みたいだね」
自分の部屋の中で、ギターを抱えて床に座る三井を眺めていた美紗子が呟く。
「俺が?」
「うん。ご飯あげてたら、懐いてくれた」
手を伸ばして、猫を撫でるように三井の頭を撫でる。共に過ごす時間が長くなってから、少し長いボサボサのこの髪が触れると案外柔らかいのだと美紗子は知った。この手触りが、美紗子は好きだった。
「可愛くもないデカいだけの猫が住み着いちゃって悪かったね。それに今日はギターなんかも持ってきちゃってさ」
むっと唇を尖らせながらも、三井は美紗子の手をじっと動かず受け入れる。
「ううん。猫に懐かれて嫌な人間は少ないよ。それに多少大きくても、猫は可愛いよ」
「俺はただのデカい人間だよ」
「うん。そうだった。みっくんは人間だった」
そうやってクスクス笑いながら、今度は両手でぐしゃぐしゃとかき混ぜるように頭を撫でる。それでも三井はされるがままだった。
「あ、そうだ!今日ね、夕日を見に行きたい」
しばらく頭をかき混ぜた後、美紗子は突然手を止めて言った。
「夕日?」
「うん。夕日。おっきいやつ」
そう言ってガタガタと盛大な音を立ててスマートフォンを手に取ると、地図アプリを開きながら河川敷の方に行った方がいいかな、と調べ始める。
「ミサは子犬みたいだ。ちっこい子犬。興味もったらなんでもすぐ飛びつくやつ」
「なんで?私、案外慎重派だよ」
「慣れてない場所だとね。でも慣れた空間だと、思考も行動もぴょんぴょん跳ねる子犬だよ」
「そうかな」
「そうだよ」
三井は「こいぬ〜、こいぬ〜」と適当な音程とリズムをつけて、ギターと一緒に口ずさんだ。それを美紗子はふざけててもいい声だなと耳を傾ける。
「まぁ、子犬なら可愛からいいよ。でもほんとにさ、今日は夕日を見に行きたい」
「いいけど、なんで?」
「ミツイくんのライブ初めて見た日に描いたデザインを形にしたいんだけど、夕日とか空のイメージがあるから本物が見たくなったの」
オレンジのスポットライトを浴びて歌う、ステージ上の三井を見て思い描いたデザインは、いまだに実現できずにいた。イメージに手がついてこないのだ。
「わかった。じゃあ、もう少ししたら行こうか」
美紗子は最近、思いついたことはすぐさま行動に移すようになった。どんどん冷たくなる空気が、時間の流れを体に教え込んでくるような気がした。
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