十九
あのインターンの日から、美紗子の頭の中には黒い
だから美紗子は気づかないふりをする。忘れたふりをして、考えることをやめる。だけどこうして、同じように夢を描きながら生きている三井の話を聞けば、思い出したように靄が広がって不安の色は濃くなった。
「今度、木場さん達の、suitsの曲も聴いてみますね」
美紗子は当たり障りのない言葉を口にしながら、チョレギサラダを口にする。ごま油の香りにコーティングされた野菜を、頭に渦巻く不安と一緒に臼歯ですり潰して噛み砕く。喉のを鳴らして身体の奥にしまい込んだら仕上げにビールを流し込んで蓋をした。
「今日は素直にビールなんだね」と、重たいジョッキを傾ける美紗子に三井が優しく笑った。「今日は気取らない日なんです」と美紗子も笑って返した。不安の靄は徐々にアルコールに溶けてぼんやりと滲んでいく。代わりに熱がふわふわと渦巻き、鼻の頭を撫でる指先や、大きくないのにやけに響く優しい声を素敵だと思うくすぐったい感情が心を撫でた。
店内のざわめきの奥で、がちゃんと食器が落ちる音がした。次いで「すみません」と大きな声がする。よく響く音だったが、三井の声のように美紗子の心に響くことはないなと美紗子は思った。美紗子が唐揚げを口に運んで、三井がサラダを口にする。咀嚼に勤しむ二人の間に柔らかな沈黙が流れる。美紗子がジョッキを傾ければ、三井も同じようにビールを手にする。ごくりと嚥下して、ごとりと重たい音を立ててジョッキをテーブルに戻す。そのとき二人の視線がぴたりと交わった。
視線の先で三井は「アサヒだね」と笑った。一瞬迷った美紗子も「アサヒですね」とすぐに笑った。テーブルの上で結露の汗をかいたジョッキには見慣れたロゴが印字されている。「好みの銘柄ある?」と三井は聞いた。「気にしません」と美紗子は返した。「俺もないよ」と三井は言った。それから「違いがわかるほど、大人じゃないからね」と加えて笑った。その少し子どものような笑顔が可愛くて「私も同じです」と美紗子も笑った。
音楽のようにテンポよく、言葉のリズムはつながっていく。魅力的な音楽に乗せられた体が無意識に踊ったように、すらすらと言葉が口をつく。この心地いい時間を満喫したくて美紗子はジョッキに残ったビールを全て口の中に流しこんだ。そして「不安よ、もう出てきてくれるな」と念を押しながら胃に落とし込んで、渦巻く熱に体を預ける。先のことは今日も、また今度考えることにした。
「そういえばあのギター、素敵でしたね」
熱に躍る思考は、思いついた言葉をぽろりと口にする。テーマは突然ちがう方向を向いたが、三井はきちんと反応を示してくれる。
「ありがとう。今日初めてライブで使ってみたんだけど、使いやすくてすごくいいギターだった」
表情はあまり変わらなかったが、その声はどこか嬉しそうな音が鳴っていた。
「へぇ。じゃあテレキャスターは、三井さんによく馴染むいい子なんですね」
人を褒めるようにギターを褒める言葉が気に入ったのか、ふっと頬を緩めた三井は「うん。すごくいい子だ」と美紗子の言葉を繰り返す。
「なんだかね、新しい武器を手に入れた気分なんだ。今すごくワクワクしてる」
「あ!すっごいわかるかも。私もミシンを買ったとき、そんな気持ちになりました。あれこれいろんなことをやってみたくなる」
美紗子も数年前の、自分のミシンを手に入れた時の感情を思い起こした。
「そうなんだよね。いろいろ遊んで、いろいろ試したくなる。でも、その性能に俺自身がついていけなくてヤキモキもする」
そう言う三井はギターのことを考えているのか、どこか遠くの方に輝く目線を向けていた。
「そうそう、そうなんです。すっごくよくわかる」
まるでオモチャを買い与えられた日の子どもだ。新しい道具への魅力はどんな世界でも共通らしい。そしてどんなにいい道具を使っても、自分の腕が上がるわけではないということも同じらしい。そうやって考え始めると、先程閉めたはずの蓋が微かに開く気配がした。
「ちなみにこれまでは、どんなギターを使ってたんですか?」
だから蓋が開ききる前に、美紗子はくるりと話題の向きをまた変える。
「フェンダーのムスタングっていうギターを使ってたよ」
そう言いながら三井は、一枚の画像を表示させたスマートフォンを美紗子に向けた。画面の中にはライブ中の三井の写真が広がっていて、その肩にかけられたギターこそがムスタングと呼ばれるギターだと丁寧に教えてくれた。
「動画サイトで見たライブ映像も、たしかにこの形のギターでした」
そう言いながら、荒い画質のライブ映像を美紗子は頭の中で再生する。青いライトに照らされたせいで色まではわからなかったが、たしかに映像の中の三井はこのギター手にしていた。あの映像ではわからなかった色が、写真の中ではよくわかる。クリーム色のボディーとベッコウ柄のピックガードが、可愛らしくもシックなギターだった。
「テレキャスター買うまでは、このギターがメインだったんだ」
「このムスタングってギターは、テレキャスターとかリッケンバッカーと違って、私がよく知ってるギターのカタチって感じがしますね」
ムスタングのボディーは、二本の角と女性のくびれのような曲線で描かれていた。その形はまさに美紗子がイメージするエレキギターの形だ。
「多分、ミサちゃんが言ってるギターってこれだね」
今度は検索エンジンで見つけてきたらしい画像を美紗子に見せてくれた。そこには美紗子がイメージしたまんまのギターが映し出されている。
「ストラトキャスターっていう定番のモデルで、もともとはフェンダーが生み出した形なんだ。だからムスタングとも雰囲気が似ているんだと思う」
「へぇ、ギターって奥が深いんですね。私ぜんぜん知らなかった。ちなみにテレキャスターはどんなギターなんですか?」
ライブハウスで調べてはみたものの、内容などほとんど覚えていなくて美紗子は訊いた。
「同じフェンダー製のギターだよ。ストラトほどじゃないけど、結構定番のモデルなんだ。特に俺みたいな、立って歌う人に人気のギターだよ」
「なろほど。ギターはそれぞれに個性があるんですね。でも定番のモデルって、前に言ってた個性っていうイメージとは少し違う感じがして、なんだか意外です」
「たしかにね。でも結局ナオも今は、ギブソンのレスポールっていうストラトと同じくらいメジャーなギター使ってるんだ。なんだか見た目も使ってる物も、普通になってきちゃった」
そう話す三井は、いつものように鼻の頭を指先で撫でていた。それから「見た目も大事だけど、使い勝手とか音が自分たちに馴染むかどうかも大事だから」と付け足して、すこし照れたように笑った。美紗子は「服やアクセサリーと同じですね」と口から出かかった言葉をあえて飲み込んだ。
「ムスタング、ずっと使ってたんですよね。どうして変えたんですか?」
それから代わりに別の質問を三井に投げかける。すると三井は、恥ずかしさを顔に滲ませて鼻の頭を二度撫でてから口を開いた。
「実は、ナオの叔父さんからの借り物だったんだ。恥ずかしい話、バンドマンってそんなに稼ぎがないし、使い勝手も良かったからずっと借りっぱなしにしちゃってたんだ」
三井の少し骨張った形の綺麗な手は、いつの間にかボサボサの頭の方に伸びていて、長い指が伸びた髪に埋まっていた。恥ずかしさを隠すように髪をかき混ぜるせいで、長い髪がふわふわと乱れて空気を含んだ。
「好きなことでご飯を食べていくのって、簡単なことじゃないですよね」
美紗子は三井の言葉を、責めるでもなく馬鹿にするでもなく受け止めて、自身の心に浮かんだ言葉を呟いた。
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