十八

「そういえば私、ライブに行ってみて初めて知ったことがたくさんあったんですよ」


美紗子は話題を切り替えるように口にした。ライブの余韻からか、遠足の日の出来事を話す子どものような明るさが言葉に乗っている。


「どんなこと?知れてよかったこと?」


そう聞き返した三井の表情はひどく優しい。


「もちろん。例えば爆音の空間に立つと鼓膜だけじゃなくて服も皮膚も髪の毛も、体中が残さず揺れるってこととか、音の海に溺れたらしばらく耳がきーんとして余韻が消えないってこととか、踊りは苦手なのに好きな曲を聴いたら体が勝手に揺れちゃうこととか、いろんなことを知りました」


「楽しそうなことばっかりだ。よかった」


美紗子の言葉に優しくも嬉しそうな表情を作った三井は、少し照れたように机のお通しの箸で弄りはじめた。掴まれては離されてを繰り返し、お通しの和物は力なく形を変える。反対側の手はいつものように鼻の頭を撫でていた。


「それから三井さんのギターがテレキャスターだってことも知りました」


「お、正解だ。どうやって知ったの?」


箸を止めて目線を美紗子に向け直した三井が訊く。


「ライブハウスって近くにたくさん人がいて、それぞれが色々な話をしてるから聞こえてきました」


「なるほどね。たしかに俺も、びっくりするような話をライブハウスで聞いちゃったことあるな。ライブに行く時は何を話すか考えてから行かなくちゃね」


そう言った三井は、ようやくお通しの和物を口に運んだ。それを見ていた美紗子がジョッキを傾ければ、胃の中で甘いアルコールとブラックコーヒー、それからビールが混ざり合う。胃が形あるものを欲したのを感じて、美紗子は机の端に立てられていたメニューを開くと三井にも見えるようにテーブルに乗せた。「お腹空いてますか?」と尋ねれば「少しだけ」と三井は答えた。


「あ、それからsuitsってバンドのギタリストも今日のライブに来てたみたいって、誰かが言ってました」


美紗子は目線をメニューに向けながら口にする。焼き鳥に唐揚げ、チョレギサラダも美味しそうだ。


「うん。ギタリストの間野さん、来てくれてたよ」


「そのお客さんが、三井さんも間野さんもイケメンだって言ってました」


三井がどんな反応をするのか気になって、メニューから顔を上げてから美紗子は言う。


「俺はわかんないけど、確かに間野さんはイケメンだよ」


ボサボサの頭を撫でる三井は、少し照れた顔をしていた。それから「きっとステージ補正がかかってるよ。でもそう言ってくれる人がいるなら、親に感謝しなきゃ」と小さな声で呟いた。それをふふっと笑みを溢しながら見ていた美紗子は「何か食べたいものありました?」と訊く。「唐揚げはどう?」と訊かれたので、嬉しくなって「アリですね」と返した。チョレギサラダ、ビールと共に注文する。


「そのthe suitsってバンドさ、めちゃくちゃかっこいいよ。曲もステージも。それに何よりみんないい人」


「the suitsってこの間言ってた、木場さんって方のバンドですよね」


「正解」


美紗子はスマートフォンの検索エンジンにバンド名を入れてみた。すると幾つかのバンドがヒットしたので「どれですか?」と三井に画面を向ける。三井が画面に並んだうちの一つをタップすればSNSが起動して写真や文字が画面に並んだ。


「わあ、たしかにTHE スーツ! って感じでかっこいい。でも私、なんとなく三井さんと同い年くらいの方のバンドなのかと思ってました」


写真には、ステージ上で楽器を演奏する三人の男が写っている。男たちはスーツに身を包み、激しいライブパフォーマンスのせいか、明々と光る照明のせいか大粒の汗を輝かせていた。美紗子には、その汗の輝く男の顔が三井よりも随分と歳上に見えて少しだけ驚いた。


「ボーカルの木場さんとドラムの桑原さんは、俺の倍くらいの歳だよ。木場さんの声が渋くてかっこいいんだ。大人の男の魅力満載って感じ。ちなみにさっき言ってたギターの間野さんだけは俺の二つ上」


画面の中を順番に指差しながら三井は説明する。俯いてギターを弾いているせいですぐには気がつかなかったが、よく見れればたしかにギターの男だけは若かった。


「へぇ。なんだか不思議なメンバー構成ですね。でもスーツでライブってかっこいい」


「木場さんたち普段は会社員だから、ライブは戦闘服のスーツで臨むんだって。だから名前もthe suits。木場さんと桑原さんは高校生の頃から一緒にやってて、高校の時にライブイベントで最優秀賞取ったりしてるんだよ」


ジョッキに残ったビールを全て流し込んだ三井が「その大会、ちょうどあのバンドがデビューするきっかけになった大会だよ」と誇らしげに言った。そのバンド名は美紗子も耳にしたことがあるくらいには有名だった。


「そんなに凄いのに、今は会社員をやられてるんですね」


「売れるバンドと凄いバンドって、たぶんイコールじゃないんだろうね」


何気なく言ったのだろうが、なぜだか美紗子の胸に三井の言葉が突き刺さった。「たしかにですね」と呟いて、誤魔化すようにビールを体に注ぐ。


「それで結局デビューできなくて、大学卒業と一緒に前のバンドは解散したんだって」


美紗子がほとんど空になったジョッキをテーブルに戻すと、ゴトッとジョッキ特有の重たいガラスの音がした。


「え、じゃあどうして今になって?」


「解散から十年くらい経って、木場さんの結婚式の余興にやろうって集まったらしい。解散してからはお互いがなんとなくバンドの話は避けてたらしいんだけど、結局みんな辞められなかったんだって。だから久しぶりに集まって楽器を合わせたら、みんな昔より上手くなってて笑ったって言ってた。それからすぐに余興のお遊びじゃなく、本気でまたやろうって再結成を決めたらしい」


ちょうど追加のビールが運ばれてきた。美紗子は僅かに残ったビールも飲み込んで、小柄な男の店員に空のジョッキを渡してから言葉を返す。


「なんだか素敵な話ですね」


「でも再結成しても最初は子どものこととか生活のこととかで、本格的な活動は難しかったんだって。ライブ活動がやれるようになるまでは結構長かったみたい」


大変でも、素直に素敵な年齢の重ね方だと思った。そして好きなこと一つで食べていくことだけが正解ではないのかもしれないと考えさせられた。


「じゃあ間野さんはどういう経緯でメンバーになったんですか?」


「ちょっと前にメンバーの平田さんって人がアメリカに転勤になっちゃって、代わりにって部下の間野さんを置いていったんだ。間野さんギターうまいし可愛がられるタイプだから、すごく馴染んでるよ。俺たち歳下にもよくしてくれるし」


言ってから、三井は唐揚げに箸を伸ばす。それを見ながら美紗子は、器用に生きられるのなら好きなこととの関わり方も人それぞれなのかもしれないと、そう静かに思った。ただし今はまだ、美紗子自身がその生き方を受け入れてしまうことはできそうにない。

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