十七

 遊園地に連れて行ってもらったり、おまけ付きのお菓子を買ってもらったりした時の「今日は特別ね」という優しい響きが美紗子は好きだった。三井が口にした「特別」もそんなむず痒い優しさを含んでいて、少しくすぐったい。


「特別って言葉、いいですよね」


だから美紗子はそう答えた。でもそう口にしながらも心のどこかでは、最近たまに感じる「あの人は特別だから」という諦め似た「特別」は嫌いだとこっそり考えていた。


「俺も特別って好きだよ。でも使いすぎるのはダメだ。特別の使い道は見極めなきゃ」


しかし三井は、美紗子のふと湧いた感情には気づくことなく真剣な表情で答える。その真剣さが、美紗子は少し可笑しかった。


「確かに。一生のお願い、と同じだ」


そう答えてくすりと笑みを溢せば、美紗子の心に湧いていたモヤは緩く溶ける。


「でも今日は特別を適用したよ。ミサちゃんが来てくれたら直接感想を聞きたくて、前から今日は早く抜けさせてってメンバーにお願いしてたんだ。それに…」


と言ってその先をなぜか言い淀む。


「それに?」


なかなか続かない言葉の先を、美紗子は探った。


「えと、それに、今日はさ、結構ミスしたから、打ち上げに出たらナオの怒りが降ってくるんだ。たぶんライブハウスの店長にも小言を言われる。だから、今日は前から約束してたのを理由にして、特別に、逃げてきた」


恥ずかしそうに俯いてモゴモゴと話す、自らよりも背の高い歳上の男が美紗子の目に可愛らしく映った。その感情を悟られないように、美紗子は目線を逸らす。その目に大衆居酒屋の灯りが映った。それを見た三井が「あそこにする?」と問うので、そんなつもりはなかったが「はい」と頷いた。既に時計の短い針は十を間近に控えていて、店の選択肢もそう多くない。


 見慣れた看板を横目に店内に足を進めれば、居酒屋の騒がしさが肌に絡まった。この騒がしさは、先程飲まれた歓声の騒がしさとはまた違った熱を持っている。


「私、三井さんが間違えたのなんて全然気が付かなかった。すごくカッコよかったです」


案内された席に着き、冷たいおしぼりで手を拭くと美紗子は口にした。嘘も偽りもないけれど、このガヤガヤとうるさい居酒屋特有の熱に乗せて伝えればどこか安っぽい言葉に変わった気がした。


「よかった」


しかしそんな美紗子の心配を他所に、拭かれたばかりで湿り気を帯びたテーブルに頬杖をついた三井は嬉しそうに言う。切れ長の細い目は優しい曲線を描いていた。


「ミサちゃんが楽しそうに歌って跳ねてるのが見えて、俺も今日は楽しかったんだ」


先程までの三井に変わって、今度は美紗子の顔に熱が灯る。恥ずかしさで美紗子は目を逸らした。

 フロアとステージの関係は暗い水の底と陸のようで、こちらからは向こうが見えているのに、向こうからはこちらが見えていない、そんなもんだと思っていた。


「誰からも観られてないと思ってた。私すごく間抜けな顔してたかも」


「案外よく見えてるよ。すごく楽しそうな顔してた。俺はその楽しそうな顔が嬉しい」


「喜んでもらえたなら、よかった、です」


もう常温に戻りかけたおしぼりでまた、手を拭いた。背の低い男の店員が注文を取りに来たので生ビールを二つ頼んだ。


「ステージからの景色ってどんな感じなんですか?」


少し空いた間で熱が下がると、浮かんだ疑問を美紗子は口にする。


「人の頭と手がたくさん見える、って感じかな。なんだか表現が難しい。たくさんの顔がこっちを向いてて、いろんな色に照らされてるんだ。それでたくさんの手がわっと揺れてて、たくさんの目線が集まってくる。人の波より熱の波って感じ?」


思い出すように、少し遠くに視線を這わせた三井が言った。テーブルに乗せられた右手の指は、ピアノを弾くようにカツカツと爪を鳴らしながら動いている。細く骨張ったそれは、変わらず綺麗だった。


「ライブをやり始めた頃はさ、フロアにいるほとんどの人が携帯を触ってたり、話してたり、お酒飲んでたりで、見向きもしなかったんだ。だから今は、たくさんの顔がこっちを向いて踊ってくれるのがすごく嬉しい。きっともっと人気が出れば、見える景色も変わるんだと思う。いつかは俺も、後ろも見えないようなおっきなステージで歌ってみたい」


三井は言った。ちょうど生ビールと安っぽいお通しが運ばれてきたところだった。二人はほとんど無言でジョッキを合わせてから口をつける。少し緩めの泡が唇を覆った。


 「好きこそものの上手なれ」なんて言葉があるが「上手」と「認められる」はイコールではない。美紗子はそれをよく知っている。だからこそ無責任に「三井さんならいつかそんなステージに立てますよ」なんてセリフは口にできなかった。


「今日の三井さんはすごくカッコよかったですよ」


代わりに先程と同じセリフを口にした。


「ありがとう。でもステージの上からミサちゃんを見つけた時、今日は終わったら早く抜けさせてもらおう。終わったらすぐに連絡しようって思ったんだ。そしたらギターの音を外した。そんで次にミサちゃん見たら楽しそうに歌ってて、よかったって安心した。そしたら少し歌詞を忘れた。だから実は今日の俺、すごくカッコわるかった」


三井はビールを半分ほどまで体に流し込むと、真剣な顔で言った。この人はいつも妙なタイミングで真剣な顔をするよな、と思った美紗子は「じゃあ今日の失敗は私のせいですね」と笑いながら返した。そうしたらまだ真剣な表情のまま「あ、そういうことか」と口を開くので「そこは少し否定してくださいよ」とまた笑った。すると釣られた三井がふふっと笑った。

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