十六
スマートフォンを眺める美紗子の胸は、どくどくと強く脈を打っていた。先程までのライブの余韻に浸った体の火照りとは明らかに異なる熱が体を柔らかく包んでいく。
『ごめん、でももう少しやらなきゃいけないことがあって、少し待たせるかも』
また、スマートフォンが震える。この熱に侵された体のまま会うのは避けたくて、ちょうどよかったと思う。
『全然大丈夫ですよ。近くで待ってますね』
『ありがとう』
それきりスマートフォンは静かになった。手の中のアルコールは既に氷も溶け、薄く、ぬるくなっている。
「今日まじでヤバかったんだけど! みっくんたち今日どっかで打ち上げとかやんのかな?」
近くで騒ぐ女の声がした。声の持ち主である女の、後で雑に束ねられた黒髪が汗を滲ませ跳ねている。隣の女が「どうだろうね」と当たり障りのない答えを返すのを美紗子はぼうっと眺めながら、ぬるいアルコールを喉の奥に流し込んだ。
「あ、suitsの間野くんもSNS更新してるよ。うわ、今日のライブ来てたっぽい。まじで会いたかったんだけどぉ」
「あんた、ほんとギタリスト好きだね」
騒ぐ女の隣で、友人らしき女は呆れたように笑っていた。suitsって確か、あの晩三井が話していたキバさんのバンドだよな、と美紗子はんぼんやりと思い出す。
「だってかっこいいじゃん。あたしは夢を諦めた側の人間だからさ」
「あんたはたった三ヶ月で、ギターなんて無理って匙を投げただけでしょ」
「でもイケメンじゃん。二人とも」
「結局顔じゃん」
ケラケラと笑い合って、二人の会話は続いていく。たぶん、多くの人が一度くらい「将来の夢」を見るだろう。でもそのために、本気で努力する人はどのくらいいるのだろうか。美紗子はふと考えてみる。自分はどうだろうか。もしも本気で頑張っていたとしたら、夢はいつか叶うのだろうか。
無意識に握りしめていた、ミントグリーンのフェイクレザーで仕立てられたキューブ型の鞄の持ち手が汗で湿った。
美紗子はイヤホンを耳につける。改めてRicの曲に体を委ねる。燻りだしていた熱が、改めて体に火を灯す。そのままフラフラと足を進め、近くのコーヒーショップに潜り込む。甘いアルコールの後のブラックコーヒーはあまり美味しいとは言えなかったが悪い気はしなかった。
彼はどのくらいでくるのだろうか。ライブで汗をかいてしまったけど、一度家に帰ってシャワーを浴びるべきだろうか。いや、何を期待しているのだろうか。美紗子の頭でぐるぐる思考が巡る。楽しみなことを待っているとどうにも思考が浮ついてしまうようで、美紗子は小さく頭を振った。
その時、美紗子の耳にあの日はじめて聴いたRicの曲が流れ始めた。「宇宙船に乗って」と、三井の歌声が紡いでいく。激しくも優しいような、暖かくも切ないような、そんな気持ちにさせられる。宇宙の孤独と星の明るさを歌うこの曲が、美紗子は好きだった。
「あ…」
ふと声が漏れる。ステージ上でオレンジの光に背を照らされ、黒い塊のような姿になった三井の姿が頭にこびりついて離れなくなる。
美紗子は慌てて席を立つと、紙ナプキンを数枚持ってきた。偶然鞄に入っていたボールペンを握って、描き心地の悪いナプキンにデザインを描いていく。鞄、アウター、それぞれ一つを描き上げた。
「ふう…」
一通り眺めて出来映えを確認する。案外悪くないと思った。こんなことなら、ノートもペンも持ってくればよかったとも思った。
オレンジの夕日と夜空のグラデーションを表現したい。黒い影の孤独と、星の輝きを見せたい。紙ナプキンの空いたスペースに少しだけ文字のメモを刻む。
テーブルに乗せていた半分だけ飲まれたコーヒーは、既に汗で濡れてテーブルにその雫を滴らせていた。長い時間集中していたような、ほんの一瞬だったような、妙な時間の感覚が体を包んでいる。既に流れる曲は全く別のものになっていた。
『ごめん、お待たせ』
その曲の隙間で、メッセージの受信が知らされる。
結局、一時間ほど経っていた。
『大丈夫ですよ。すぐライブハウスに戻りますね』
紙ナプキンを丁寧に鞄にしまいながら、受信するメッセージに返答する。雫にまみれてぬるくなったコーヒーも胃の中に流し込む。
「ごめんね、お待たせ」
その時、美紗子の背中に優しい声が降ってきた。
「え、あれ?」
三井が立っている。驚いた美紗子は言葉が続かなかった。
「ライブハウスの近くで待ってくれてるなら、ここにいるかなって覗いてみたんだ。そしたら見つけた」
照れ臭そうに鼻の頭を撫でる三井に、美紗子は陸に上がった魚のように数回口を開閉させてから笑って見せた。未だに驚いた思考が言葉をうまく紡げない。
「見つけたらさ、なんか真剣に描き込んでたから少し見てたんだ。だから顔を上げたタイミングでメッセージしてみた。大丈夫だった?」
そう言った三井の手には、コーヒーが握られている。少し減った中身を見るに嘘ではなさそうだった。
「あ、私が待たせちゃいました。ごめんなさい」
状況を把握して、ようやく美紗子は口を開く。
「待たせたの俺だよ。ごめんね。ちなみに今、何描いてたの?」
「あ、服と鞄のデザインです。ライブを見てたらインスピレーション湧いちゃって」
「うわあ、なんか嬉しいね、それ」
また、三井が照れたように笑った。そのまま「とりあえず外に出ようか」と歩き出す。
「あの、ところで打ち上げとか色々大丈夫なんですか?」
ライブ直後にあの女が口にしていた言葉を思い出して訊いてみる。
「うん。今日はどうしてもってお願いして抜けてきた。機材の撤収とかも車に積むとこまではやってきたけど、後は任せてきちゃった」
ライブ終わりで少しふわふわしているのか、今日の三井は初めて会った姿とも、二度目に会った姿とも、ステージ上で見つめた姿とも異なっていた。
「大丈夫でした?また別の日でもよかったのに」
少し申し訳なくなって、美紗子は口にする。
「うん。大丈夫。今日は、特別」
そう言って笑う三井は、このれまでのどの姿よりも近くて、遠くに感じた。
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