十五

 美紗子は肩にかけた鞄の紐をぎゅっと握りしめて、見惚れていた。身体中が音に飲まれるのは初めての感覚で、ドンドンと震えるこの体が、響くベースのせいなのか、興奮した自身の鼓動のせいなのかすらわからない。


 スポットライトに照らされた三井は美しかった。ボサボサの頭のせいでその目線はよくわからないが、薄い唇はマイクを飲み込むようにうねっている。すうっとたまに聞こえる呼吸の音が鼓膜を撫でて、あのSNSで「みっくんかっこよかったよーーーーー!!!」と叫ぶように打ち込んでいた見知らぬ女の気持ちが少しだけわかった気がした。そして何より、この爆音で聴いても三井の声は心地がいい。


 歌詞の間に、三井が一瞬だけマイクから体を離した。激しくギターを掻き鳴らすナオの方に目線を向けて、合わせるようにギターを鳴らす。人に飲まれて見えないが、多分この人波の先であの官能的な指先が動いているはずだ。


 ゾクゾクと鼓膜と心を撫で上げられた美紗子は、ぎゅっと握りしめていた手を解くと頭の上に運ぶ。音に合わせてぴょんぴょんと跳ねてみた。周囲の人たちが口ずさんでいるのに合わせて、美紗子も何度も聞いた曲の歌詞を口ずさんでみる。


 そうしたら美紗子は、自分の体すらも先程見た巨大な一体の生き物の一部になったような気がした。そしてどこか、巨大な膜にでも包まれた気がした。あの夜、一緒にグラスを傾けて話を弾ませた三井の姿と、今目の前で歌っている三井の姿が、同じなようで同じに見えなくなった。なぜだろう、たった数メートル先にいるあの男が、動画投稿サイトを開いて見た、画面の中の姿よりも遠く感じる。


 ステージを照らす照明が曲に合わせて変化する。オレンジの光が、Ricを後ろから照らす。メンバーの姿は黒い影のようになって、反対にフロアにいる美紗子たちが照らされた。三井が長い前髪を払うように頭を振ったのが黒い影の動きでわかったが、オレンジの光が作った影のせいで、その表情は見えなかった。


 マイクに顔を寄せて、すうっと息を吸った三井が音を吐く。どこまでも飛んでいきそうな、よく伸びる歌声が響いてまた照明が変化した。白のライトで上から照らされた三井の顔がよく見える。その瞬間、美紗子はなぜが三井と目が合った、ような気がした。どきりと鼓動が跳ねる。だがすぐに、わっと上がった感性と拍手で思い違いだと気づかされた。邪念を捨てて、ただひたすらに響く音に身を任せる。そしてただ、音の海に溺れる時を過ごした。






 ざわざわと未だに音がなっている。ただ先程まで自身の体を包んでいた衝撃は違う。これは動く人々の体が放つ音と、各々喋り続ける口から放つ音の集合体だ。普段ならうるさいとすら感じるこの音さえも、美紗子の心を興奮させる。


 いつの間にかライブは終わっていた。だが体は興奮が冷めることなく熱に侵されている。人が移動しやすいように、上映前の映画館くらい優しい灯りで照らされた空間で、美紗子はぼうっとステージを眺めていた。そうしたらなぜか、先程までの時間が幻だったような気にもなってくる。


「すいません。だいじょぶっすか?」


そんな美紗子に、一人の青年が話かける。男が身につけている少し大きめのTシャツには、ほのかに汗が滲んでいた。


「あ、大丈夫です。なんか凄かったなって思って、ぼうっとしてました」


男の声で現実に意識を連れ戻された美紗子は、はっとしながら返す。


「今日のライブ、めちゃくちゃよかったっすもんね。セトリとかもここ最近じゃダントツでしたね」


美紗子の言葉に、男も興奮したように口を開いた。ついでに「ドリンク交換まだだったら一緒行きます?」と問いかけてきたので、連れ立ってカウンターに行くことにした。


「私、ライブは今日が初めてで、すっごく興奮しました」


「初ライブがRicって、なんかツウっぽいっすね」


男がニカっと笑うと、ラフにセットされて少し汗の滲んだ髪が揺れた。そしてそのまま「酒でいいっすか」と美紗子の返事を聞かぬまま、混み合うカウンターに消えた。美紗子がしばらくその場で待っていると、氷と共にカップに注がれたアルコールを二つ抱えた男が戻ってきた。


「勝手に話すすめちゃったすけど、ツレの人とかいました?」


カップを手渡しながら、男が美紗子の顔を覗き込む。


「え、あ、いや、一人です」


「一人で初ライブがRicって、尚更ツウ感あるっすね。なんで来ようと思ったんすか?」


男が口をカップに運んだので、美紗子も釣られてアルコールに口をつけた。よく瓶で売られている、甘いアルコールの味がした。


「ちょっと縁があって」


三井から直接誘われたのだとは、なぜか言えなかった。「とりあえず外行きますか」と連れ立ってこの異空間から外の世界を目指す。途中で「お願いします」とチラシを渡された。ライブハウスやバンドの宣伝の類のようだった。

 

 夏も終わりが近いというのに、外は未だにベタつく熱気に包まれている。冷えたアルコールを口にする。


「いやぁ、でも今日のライブはまじでよかったっすよ。お姉さん、今日来て正解っす」


隣を並んで歩く見知らぬこの青年は、さっきほど受け取ったチラシをゴミ箱に捨てた。その様子を見ながら、美紗子はミントグリーンの鞄をぎゅっと握る。


「この後ってなんか予定あるんすか? もしよかったら一杯行きません?」


美紗子の様子など気にも留めていなかった男が声をかける。


「あー、一応予定があって…」


「そうなんすね。残念。またRicのライブで会いましょうね」


どうやって断ろうかと、少し悩みながら返した美紗子だったが、男は思いの外あっさりとどこかに消えていった。やはりこういうことには慣れないなと、美紗子は息をつく。ふっとアルコールが回る感覚がして、少し心地が良かった。


 男の姿が見えなくなったのを確認して、美紗子はスマートフォンとイヤホンを取り出した。今日の余韻を楽しみながら、帰路につく。


 その時だった。手の中のスマートフォンが震える。


『今日、来てくれてありがとう。楽しかった?』


スマートフォンが光って、メッセージを表示する。どきりと胸が跳ねた。


『楽しかった』と打ち込もうとした時、また震える。


『この後、予定ある? もしよかったらご飯でもどう?』


先程、隣を歩く見知らぬ男と同じ質問が外面越しに飛んできた。美紗子は画面の上で素早く指を走らせる。


『ぜひ!』

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