十四

 会場は吉祥寺駅から五分ほど歩いた場所にあった。立体駐車場や店舗からなるビルに地下へとつながる穴が空いていて、この先にライブハウスがあるらしい。


 どのくらいの時間に会場に着けばいいのか見当がつかなかった美紗子は、開場時間を少し過ぎたあたりにここに来た。既にその異空間への扉は開放されていて、イヤホンをつけた高校生くらいの女の子が美紗子の脇をすり抜けて地下へと吸い込まれていく。彼女の緑色に染められた襟足が歩みに乗せられぴょこぴょこと揺れていた。


 彼女に続いて、美紗子も階段を降っていく。初めて足を踏み入れる空間に、そわそわと胸は沸き立っていた。スニーカーのソールがビルの地面に擦れてキュッと鳴く。「ライブ 服装」と検索エンジンに入力したら「動きやすい服装で」と書いてあったので履いてきたスニーカー。そういえば、三井と初めて会ったあの日もこの靴を履いていた。


 地下の空間にたどり着くと、金とも赤ともピンクとも表現し難い、綺麗なグラデーションで髪を染め上げた女の人が「チケットとドリンク代お願いします」と声をかける。伸ばされた白い腕の先には、シルバーのアクセサリーがゴツゴツと輝いていた。その差し出された手に、ミントグリーンのフェイクレザーで作ったキューブ型の鞄から取り出したそれらを乗せる。さあ、いよいよか、と美紗子の気持ちがもう一度大きく跳ねた。


 防音機能を備た分厚くて重い扉を抜ける。薄暗い空間に漂う効きすぎなくらいに冷えた空気、焚かれたスモークの香り、流れる知らない曲、人々のざわざわとした話し声。美紗子の知らない空気が美紗子を包んだ。緊張とか興奮とか、少しの怖さとか、いろんな感情を込めて鼓動が鳴る。美紗子は一度、鼻から大きく息を吸い込んだ。


 ステージの前は既に人だかりになっている。後方の壁に背を預けて談笑している人もいる。ドリンクを引き換えるカウンターもあったが、いつ引き換えるべきなのか迷う。とりあえずここだったらステージを見えるかな、と真ん中よりも少しだけ後よりのフロアにポツンと立ってみた。こんなふうに一人で人の中に立つことなんかなくて、少しだけ心がむず痒い。


 美紗子はぐるりと会場を見渡した。ステージ上には既に楽器が並んでいるが、三井がこの間見せてくれたリッケンバッカーの形はなかった。代わりに動画投稿サイトで眺めた動画に写っていたものとも違う、肌色の木目が綺麗なギターがステージの真ん中あたりに置いてある。左側は曲線を描いた山の形で、反対は柔らかいカーブを描いた角が伸びている。あれはなんというギターなのだろうか。ぼんやり美紗子は考えてみるが、美紗子の知識の中にその答えはない。


「Ricもだいぶデカいハコでやるようになってきたね」

「確かに」

「見て見て、ミツイくん楽器変えたみたいだよ」

「あ、ほんとだ」

「テレキャスかー。ちょっと意外だったかも」

「それわかる」


美紗子の目の前で、男女が話をしている。ぴょんと背伸びをしてステージ上を覗いて言った彼女の言葉で、美紗子の中に今までなかった知識が付け加えられた。彼女がステージ上を覗くたび、首元で襟足が揺れている。あの緑色は、さっきのあの子だ。


 ミントグリーンのキューブからスマートフォンを取り出した美紗子は「テレキャス」と入れて検索してみた。正式には「テレキャスター」というらしいそれは、かなり定番の形だと説明されていた。


 会場の中は男性が多いが、女性も少なくない。遠くから「こないだ出待ちした時に一緒に写真撮ってもらったんだけど、このみっくん、まじでかっこよくない?」という女性の声がした。美紗子はあの「みっくんかっこよかったよーーーー!」というSNSの書き込みも彼女なのだろうか、とか不毛なことを考えてみたりした。


 効きすぎた空調が半袖のシャツから伸びた美紗子の腕にまとわりつく。「早く始まんないかな。」と呟きながら、動画サイトで何度も繰り返し聞いたあの曲を頭の中で自動再生する。


 四曲目が終盤に差し掛かったころ、会場の照明がふっと暗くなった。BGMのように会場を満たしていた知らない曲が止んだかと思うと、大きな音のリズムが流れ始める。合わせて手拍子が響いて歓声が湧く。後方からステージに向かって人がどっと流れ込んできて、美紗子の肩にぶつかる。反射的に「すみません」と口にしそうになったが、その言葉は音に鳴ることはない。


 声を上げそうになった口をぽかんと開けたまま、美紗子はその光景に見惚れていた。


 頭の上に伸ばされた腕達が、一体の生き物のように合わせて拍を刻んでいる。その先にある薄暗いステージの上をあのボサボサの頭が歩いている。ステージ中央で、そのボサボサの頭をストラップが通り抜けてテレキャスターが肩に掛けられる。ガギッとネックを掴んだ衝撃でギターの鳴いた。その音一つで美紗子の身体が揺れる。


 ステージの右側に立ている男が右手を上げる。爆音で流れていた音がピタリと止んで、一瞬の静寂が空気を止めた。

 今度は音としてのギターが掻き鳴らされる。一つのコードがギャーンと鳴り響いたかと思うと、ステージ上が橙色に照らされた。三井のギターとベース、ドラムの音が重なる。


 美紗子の鼓膜だけでなく、身につけた衣服まで音に揺らされた。効きすぎなくらいに冷えた空調が心地く身体を包んだ。

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