十三

 朝、目が覚めるとアルコールの余韻が微かに美紗子の頭の中を泳いでいた。目を閉じればふわふわと浮遊するような感覚があり、それがぼんやりと美紗子の思考にモヤをかけている。そのモヤを振り払うように、美紗子はベッドに横たえていた身体をゴソゴソと持ち上げた。


 時計の短針は十を少し超えたあたりを指していて、日はもう随分と高いところまで昇っている。カーテンを開けてそれを確した美紗子は、弱めに設定していた空調のせいで少し汗ばむ身体に冷蔵庫の中で冷えた水を流し込んだ。アルコールによって不足していた水分が、身体に染みわる。


 冷蔵庫を閉めると、ぶうんとモーターの音が部屋に響いて思考が徐々に巡りだす。昨日の出来事を頭の中で辿りながら、あっそうだ、とカバンの中から財布を引っ張り出した。カバンには昨夜の店の匂いが色濃く残っている。外に干した方が良さそうだ。


 お札のポケットには、三井から貰ったライブのチケットが挟まれている。開催日は来月の十六日、今日から数えて二十三日後。バイトの休みは問題なく取れるはずだ。この時間なら学校も問題ない。美紗子はテーブルに置きっぱなしにしていた手帳に『Ric ライブ!』と赤いペンで書き込んで、自然と緩んだ頬を冷たい水で洗って引き締めた。


 昨晩「明日、バイトが早番だから」と言って合コンを抜け出した美紗子だったが、当然そんな予定はなく特にやることもない。もちろん学校の課題も終わっていて、部屋もそれなりに片付いている。さて、今日は何をやろうかと考え始めた美紗子は、ふと昨日の三井との会話を思い出していた。


「個性…か」


昨日の店の匂いを染みつけたトートバッグは、トートバッグでしかない。個性などどこかに置いてきてしまったそれは、きっと誰の目にも止まらないのだろう。


 ガサガサとテーブルの上にノートを広げる。今なら個性的なカタチも生み出せる気がした。ノートの上でペンを走らせる。そもそも絵を描くことから始まったこのデザイナーという夢。こうしてデザイン画を描くことが、美紗子は案外好きだった。


 時計のカチカチという秒針の音とサッサッと紙の上をペンが走る音、ぶうんと時折響く単身者用の小さな冷蔵庫のモータ音に、ごーっというエアコンの音。静かな部屋の中で、美紗子はデザインの海に溺れた。できる限りの個性をイメージする。だがなかなかうまくいかなくて、少し描いてはザザッとそれを塗りつぶす。それを幾度となく繰り返す。


 どのくらいそうしていただろうか。遠くで響いているパトカーのサイレンで、ゆっくりと現実に意識が引き戻される。首が少し痛む。ぐっと身体を伸ばせばパキパキと関節がなった。腹は空腹を訴えている。そういえば、実家を出る時に母がくれたレトルトの何かがあった筈だと立ち上がる。膝をぶつけたテーブルがガタンと音を立てた時、ベッドの上からスマートフォンが何かを知らせる軽快な音を立てた。


《昨日は楽しかった。ありがとう。ライブ、予定が合わなかったら無理しなくてもいいからね》


 画面に浮かんだメッセージにまた、頬がゆるゆると緩んでいくのを感じる。この人は、何を心配しているのだろうか。そう思いながら美紗子は、先程赤いペンで書き込んだ手帳をカメラで撮影する。それを三井に送信して、続けて「そわそわ」と書かれたウサギのスタンプを送った。


 送ってから美紗子は、三井はこれをどんな顔で見るのだろうかと想像する。昨晩のように指先で鼻の頭を撫でながら、照れたように笑う顔が鮮明に浮かんだ。


《ありがとう、今日もバイトと練習がんばります!》


しばらくしてスマートフォンがまた震える。


《私も頑張ります!》


今度は文字を打つ。あえて美紗子は「何を」頑張るかは書かなかった。それでもいいと思った。それっきりスマートフォンが震えることはなかった。ただ、美紗子の心はどこかあたたかい。


 それから美紗子は日々課題をこなし、個性的なナニカを生み出すために時間を使って十六日を待った。ナニカを生み出すために二十三日という時間は少し短かったが、楽しみにしているものを待つにはとても長かった。


 前回のトートバッグとは雰囲気の全く違う、ミントグリーンのフェイクレザーでキューブ型のショルダーバッグを作ってサイトにアップする。閲覧数やは格段に増えたけど、注文は入らなかった。

 

 そういえばあの日の合コンは、あの後一人の男が強引に手を出そうとしたらしく「まじありえない」と不満の捌け口になっていた。


 そうやって注文が入るのを待ちながら、ライブの日を待つ。RicのSNSに「ライブに向けて、練習頑張ってます。byミツイ」というメッセージがアップされれば、何故だかまた心が震える。そこにを押そうとして、やめる。少しだけ、照れ臭かった。


 そして結局、注文は入らなかったけど、ライブの日はちゃんとやってきた。

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