十二

 それからも二人は、呼吸をする様に他愛もない話を続けた。例えばギターを弾くナオが、音楽とは全く縁のなかった三井をバンドに誘ったときナオ以外にはメンバーがいなかったという話、高校に入学してからドラムとベースが加入してRicになったという話、それからそのドラムとベースは既に脱退していて今は別の人がメンバーであると言う話。その話に美紗子は聴けば聴くほどナオは行動的で不思議な人だと笑って返した。

 美紗子もついこのあいだ地元に帰った話や友人が結婚する話、その結婚相手が知り合いの兄である話をした。すると三井は「結婚か…」と噛み締めるように言葉を繰り返した。


「ミサちゃんの周りはもう結婚してるんだ。早いね」


「まあ、少数ですけど。既に子どもがいる人だっていますよ」


美紗子はふと「三井さんは結婚についてどう考えていますか」と尋ねそうになる口を塞いだ。これは不毛な質問だ。


「結婚に子ども…、俺の周りだと木場さんくらいかな…」


そんな三井の言葉はほとんど独り言のようだった。それでも二人の空間で言葉が聞こえれば、美紗子は反射的に言葉を返す。


「キバさん?」


「そう、木場さん。よく一緒にライブやってるthe suitsってバンドの人なんだ。その人は結婚してて子どももいるよ」


「キバさんって強そうな名前だけど、キバタンみたいで可愛いくもありますね」


美紗子の酒が回ったぐずぐずの思考回路が、意味のない冗談めいた返しを紡いだ。しかしそれを三井は素直に受け取る。


「キバタン?」


「そう、キバタン。ペットでも見かけるオーストラリアのオウムです。可愛い鶏冠がついてるんですよ」


「へえ。ミサちゃんは物知りだ」


そうして軽いテンポの会話はつつがなく進む。

 ちょうどその時「ラストオーダーになります」と男が二人に声をかけた。もうそんな時間かと時計を確認した美紗子は少しだけ悩む。もう一杯くらい、と心が揺れたのだ。しかしそういえば欲しい素材があったのだと思い出して「私はもう十分です」と答える。三井も「あ、俺も大丈夫です」と口にしていた。


 美紗子の中でたった数時間前の合コンが、遠い記憶のものへと移り変わっていた。あの男女がその後どうなったのか少しだけ気にはなったが、今度会ったときにでも聞けばいいかと思考を放棄する。


「今日は遅くまでありがとう。すごく、楽しかったよ」


ぼうっと考えていた美紗子に、三井は締めの言葉をかけた。


「こちらこそ。すごく楽しかったです」


「よかった」


「そう言えば私、ミサじゃなくて、本当は美紗子なんです」


これだけ会話をしておいて今更名乗るのも恥ずかしいと思った美紗子は、少し照れながら言った。


「そうだったんだ。でも慣れちゃったし、これからも『ミサちゃん』でいい?」


「はい。私もそっちに慣れちゃいましたし」


お世辞ではなく本心で、美紗子はミサと呼ばれることを気に入っていた。


「そういえば俺も下の名前言ってなかったよね。俺、」


「瑞希さん、ですよね?」


被せるように、美紗子は三井の名前を口にした。


「あれ、知ってた?俺、名乗ったっけ?」


「RicのSNSで見たんです。私、立派なRicファンですから」


美紗子が胸を張るようにして答えれば、三井は照れたように笑って鼻の頭を指先で撫でた。


「ありがとう。でも俺『瑞希』って名前気に入ってるけど、俺には勿体ない気がしてて呼ばれるの恥ずかしいんだ。だから今まで通り三井でいいよ」


そう言ってまた、三井は照れたように笑った。『瑞』には『めでたい』という意味があり、『希』には『のぞむ』という意味がある。そんな名前が自分には勿体ないらしい。それに女の子のような響きがこの野暮ったい自分にはくすぐったい、そう三井は言っていた。美紗子はそんなことはないと否定したが、三井は照れたように笑うだけだった。


「今日は本当に楽しかったです」


美紗子は「お会計お願いします」と運ばれてきた伝票を確認して、トレーにお金を乗せながら言った。


「うん。本当に楽しかった。ライブ、楽しみにしててね」


美紗子が乗せたお金の一部を、三井は美紗子に返しながら言った。そのあと三井は自分の財布から取り出したお金をトレーに乗せる。三井の方が少しだけ多く出してくれた。「全部俺が出すよ」と言われるよりも、心地の良い気遣いだった。


「ミサちゃんの初ライブは、良いものにしなきゃ。絶対に気に入ってもらえるように」


「大丈夫。私はもう、Ricのファンですから。どんなライブでも気に入ります」


そう言って美紗子が笑えば、三井も「心強いね」と言って笑った。


 そうして二人は店を後にした。ちょうど近くの店も閉店が近づいたのか、店の扉からアルコールで上気した顔の若者たちがどっと流れ出てくる。気の置けない仲間同士なのだろうか、若者たちは大声でゲラゲラと笑い合っていた。


「俺、こういう夜の雰囲気が好きだよ。ああやって酒に酔った人たちが、これから何を考えて、どこに帰るんだろう、とかいつも色々考えてみるんだ」


「たしかに気になりますね。私も好きなんですよ、こういう夜。でも私は、匂いが好きなんです。お酒の匂いから解放された、この空気の匂いが好きなんです」


美紗子の言葉を聞いた三井は、鼻からすうっと息を大きく吸った。そして


「なんかわかるかも、それ。今すごく良い曲が書けそう」


とつぶやいた。


「曲、いつも三井さんが作ってるんですか?」


「半分くらいはナオで、半分は俺、かな」


「曲が作れるなんて、かっこいい」


「ありがとう。さっきミサちゃんが好きって言ってくれた曲に、俺が作った曲があって嬉しかったんだ」


そう言って三井が鼻に触れながら照れたように笑うので、美紗子もつられて照れたように笑った。そうやって二人で笑い合った後で「そろそろ帰ろうか」と二人は駅に向かって足を進める。


「家、どの辺なの?」


「中野の辺りです」


あの日の公園では言わなかった答えを今日は口にした。


「そっか。じゃあ少し方向が違うね」


「そうですね。ライブ、楽しみにしてますね」


また今度、一緒に食事でもどうですか、と問いたかった美紗子の口は、酒の力を借りても別の言葉を落とした。


「うん。絶対にいいものにするよ」


今夜、もう何度も繰り返された会話がまた繋がる。


「じゃあ、また。気をつけて帰ってね」


「はい、また」


そうして二人は次を意味する言葉を口にしながら、次の約束を交わすことなくそれぞれの家に向かって足を進めはじめた。

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