十
「ありがとうございます」と受け取った二人はそれぞれ新たなグラスに口をつける。
「あの、どうしてRicって名前なんですか?」
炭酸の泡を含んだ朱色の液体を、ひとしきり体に注いだ美紗子はふと頭に浮かんだ疑問を口にした。同じようにグラスを傾けて喉仏をこくこくと上下させていた三井は、それに一つの質問で答える。
「リッケンバッカーって知ってる?」
「リッケンバッカー?」
美紗子は言葉を繰り返すと、知らないと頭を左右に振った。
「こんな形のギターを作ってるメーカーなんだけど」
そう言って三井はスマートフォンの画面を美紗子に向ける。美紗子の瞳にカンパリの朱に似たグラデーションの美しいギターが映った。
「初めて見ました。綺麗なギターですね」
長いネックが続くボディは、女性の身体が持つ優美な曲線に似ていた。濃い朱色から中心に向かって木の色に近い橙に変化するその色合いは、あたたかな焔にも見えた。それをまじまじと見つめて、美紗子はぽつりと言葉を落とす。
「あれ? これ、穴が空いてるんですか?」
覗き込んだ画面の中のギターは、ボディにぽっかりと穴が空いていた。それは獣の爪の痕に似た少し湾曲した三角で、焔のようなボディに一つ刻まれている。リッケンバッカーというブランドの300シリーズのモデルらしい。
「うん。空いてる。一般的なエレキギターは中に空洞なんてないんだけど、コイツにはあるんだ。勿論コイツ以外にもこういうギターはあるんだけど、ナオがこの見た目を凄く気に入っててさ」
「たしかに綺麗で、個性的なギターですもんね。ナオさんが気に入るのもわかるかも」
美紗子の言葉に「うん」と相槌を打って、ビールを一口飲んでから三井は言葉を続けた。
「ナオがさ、昔言ったんだ。『どんなにいいものでも、誰の目にも留まらなかったら埋もれるだけだ。聴いてもらうためには個性もいる。』って」
三井の言葉に美紗子の心がざわりと揺れた。さっき三井が言った言葉を思い出す。美紗子が作った鞄を三井は確かに「売り物みたい」そう言った。
曲も食も服も、なにもかも有り余る程に溢れたこの時代に「良いものだったら認められる」なんてそう上手くはいかない。何もかもが溢れてしまえば、ユーザーは「大きな選ぶ権利」を持つ。彼らが選ばれるためには、目を引かなければならないのだ。
「…個性」
美紗子は三井の言葉を、三井の口を借りたナオの言葉を繰り返した。
「だから俺を音楽に誘った時に『中学生が生意気にリッケンバッカー持って、いい曲歌えば個性的だろ?』ってナオが言ってさ、ナオの叔父さんのギターコレクションからリッケンバッカーを取ってきて二人で練習してたんだ」
「叔父さんって、あのバーをやってる?」
以前覗いた、大人のシックな雰囲気漂う店のホームページを美紗子は頭に想い描く。
「うん、その人。生意気言うなって怒鳴られたけど、無理矢理借りたんだ。これだけ音楽が溢れた時代だからこそ、何とかして個性を出したかったんだよね。今思い返すと、もっと良い方法はあったと思うけど」
そう言って三井は鼻の頭に触れながら、照れ臭そうにわらった。
「でも確かに個性って大事ですね。私のこのトートバッグと一緒です。私がどんなに良いと思っていても、誰の目にも留まらなくて、手にして貰えなければその良さも知って貰えない」
美紗子が言い終わると、どちらが言うでもなく二人は同時にグラスに手を伸ばした。美紗子の傾けたグラスの中で、カランと氷が勢いよく揺れる。
「つまりRicは、リッケンバッカーのRとiとcなんですね」
本題から随分と逸れたことを思い出して、美紗子はもう一度尋ねてみた。
「そう言うこと。ナオは『リッケンバッカーブラザーズ』にするとか言ってたけど流石にダサすぎたから止めたんだ。それでRicになった。結局、没個性な名前になっちゃったよ」
「でも、素敵な名前ですよ。覚えやすくて、何より発音すると口が気持ちいい」
三井は「なにそれ」とくすくす笑った後に「ありがとう」と呟きながらポテトに手を伸ばした。それに倣って美紗子もそれを口に放る。カンパリソーダの苦味と、ポテトの油分と塩味はよくあった。
「あの、」
ポテトを飲み込んで、また美紗子は口を開く。「うん?」と三井が反応した。
「三井さんの、夢ってなんですか?」
美紗子は我ながら、唐突な質問だと思った。三井は少しだけ考える顔をする。カンパリソーダの中で、溶けた氷が涼しげな音を立てた。
「うーん、夢か」
それだけ言って三井はまた、ポテトを口に運んでもそもそと咀嚼した。
「昔はさ、メジャーデビューしたいって思ってた。でも今はインディーズでもすごいバンドがいっぱいいるし、メジャーデビューがゴールじゃないと思ってる。だから少し、難しい質問だね」
「私も昔は自分のショップとかランウェイとか色々夢があった気がするけど、ネットで簡単にお店も開けちゃうようになって、なんだか夢の形がぼんやりしてきました」
美紗子の話に、三井は「わかるよ」と同意した。そして
「でも俺には一つだけ言えることがある。俺はこの先も絶対に音楽を辞めない。俺にはこれしかないから、音楽を手放しちゃいけない。たぶんもう辞め方もわからないんだ。だから俺は一生歌っていたい」
三井はそう、力強く言った。
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