「たしかに、ライブに初めて行くのって緊張するよね。俺も初めては緊張したもん。というか怖かった」


 美紗子の話を聴き終えた三井は、切れ長の目を細めて柔らかい表情をすると言った。ちょうどその時「お待たせしました」と、男が運んできたグラスを丁寧にテーブルに乗せる。冷えたグラスを手に取って「乾杯」と二人が腕を伸ばせばチンッとガラスの音が響いて、カランと氷が軽やかに鳴った。


「三井さんの初めて行ったライブは、いつだったんですか?」


冷えたカンパリソーダをコクコクと嚥下して、美紗子は尋ねた。妙に上気した体に氷の冷たさと、独特な苦味が広がる。


「中学生の時。ナオに、この間言ってたバンドのギターで俺を音楽に誘ったあいつに、ほとんど無理矢理連れて行かれたんだ」


「無理矢理、ですか?」


「うん。連れて行かれた」


状況がうまく想像できなくて、美紗子は思わずふふっと笑った。そんな美紗子につられて一度頬を緩めた三井だったが、すぐに真剣な顔を作って言う。


「俺は文字通り、あいつに連行されたんだ」


至って真剣に話す三井に、美紗子の肩はくすくすと揺れた。


「どう言うことですか?」


「放課後、あいつが突然行くぞって言いだして、本当に俺の腕を引っ張って行ったんだ。どうしたの、何するのって訊いても教えてくれないし、お前の人生が変わるから来いって、それだけ言ってあいつは俺を引っ張ったんだよ」


「それで、ライブに行ったんですか?」


「うん。気づいたら窓もなくて薄暗い、人がわんさかいる空間に連れて行かれてて、正直怖かった」


懐かしむように、三井は目を細める。


「でも焚かれたスモークの独特な匂いとか、ビリビリ空気を揺らすような音とか、何もかも初めての空間は衝撃で、本当に人生が変わったよ」


過去を見つめる優しい三井の顔に、心がふわりとくすぐられるのを美紗子は感じた。


「それから二人はバンドを始めたんですね」


「うん」


そう言って微笑んだ三井はグイとグラスを傾けて、琥珀色の液体の体に流し込んだ。やわらかな曲線を描くグラスの半分ほどまで、薄くなった泡が沈む。つられるように美紗子は水滴を纏ったグラスに唇を寄せた。


「ギターのナオさんと三井さんって昔から仲が良かったんですか?」


「それが、そうじゃないんだよね」


ふふっと笑って三井はまた、鼻の頭に触れた。


「ライブに連れて行かれるまで、同じクラスの奴ってくらいにしか認識してなくて、ほとんど話したこともなかったよ」


「え、それがどうしてライブに行くことになったんですか?」


美紗子は少しだけ、目を丸くした。その反応が気に入ったのか、三井はふっと吹き出すように笑う。そして自身の口元を覆うように、鼻先に触れるように手を顔に近づける。そのスラリした手を、やはり美紗子は好きだと思った。


「あいつ、学校の合唱コンクールの練習で俺の声を気に入ったんだってさ。だからバンドに誘いたくて、俺をライブに連れて行ったんだって」


あの頃を思い出しているのか、三井は遠くを見るような目でふわりと笑っている。


「ナオさん、すごい行動力」


「でしょ。あいつ、頭いいのに突然馬鹿みたいなことするんだ。でもそのお陰で今の俺がいる。たぶん俺、あの日のライブ見てなかったらバンドなんてやってないと思うよ」


「すごく衝撃的な出会いだったんですね。ナオさんとも、音楽とも」


「うん。本当にそう思う。帰りが遅くなって、親に散々怒られたところまで含めて、今ではいい思い出だよ」


そう言って、三井はガラスの中身を全て飲み干した。


「なんだかライブに行ってみたくなりました」


美紗子もグラスを傾けて、三分の二程を空にする。


「もしよかったら、来月のライブ来てみる? 十六日にやるんだけど、チケットはあげるから」


「え、本当ですか?」


美紗子は少しだけ考えた。それはほんの一瞬の間で、またすぐに口を開く。


「行って、みようかな」


普段だったら「行く」なんて言わなかっただろう。しかしお酒のふわふわとした余韻からか、淡く揺れる三井への興味からか、美紗子は「行く」と口を動かしていた。


「よかった。二枚くらい渡そうか? もし誰かと一緒にいくなら」


ほっとしたように三井は笑う。目がくしゃりと細くなった。


「ううん。一枚で大丈夫です。私、今からすごくワクワクしてる」


美紗子はタダでチケットを貰うことに気が引けた。そして何より、三井のことを誰にも知られたくない、独り占めしたい、そんな気持ちが浮かんだ。美紗子よりも前から三井たちを応援する人は沢山いた筈だが、なぜだか美紗子はそんなことを思った。だからこそ「一枚だけでいい」そんなことを口にした。


「俺も、いつも以上に楽しみだ」


そう言った三井は財布から一枚のチケットを取り出す。受け取った美紗子は鞄からあの日のレシートを包む財布を取り出して、レシートの隣にそっと並べた。


 優しく閉じて鞄にしまった頃、ポテトがテーブルに運ばれてきた。「飲み物のおかわりいかがですか?」と尋ねられれば「同じものを」と二人の声が重なる。視線が絡めばふふっと笑みが溢れた。


「バッグ、可愛いね」


ひとしきり顔を緩めた後、三井は言った。今日の美紗子の鞄は、キャンバスの生地に赤い持ち手がついた小さめのトートバッグ。赤いフェイクレザーのRの文字が揺れるそれ。美紗子が作って、顔も知らぬ誰かに要らないと言われたそれ。美紗子の部屋の片隅で鞄としての役目を果たせず居座るそれが可哀想で、美紗子が外に連れ出したものだった。


「嬉しい。これ、私が作ったんです」


「え、本当? すごい」


三井の切れ長の綺麗な目が、驚いたようにじっと鞄を見つめた。


「本当に売り物みたいだ」


「でしょう? 頑張って作ったんです」


美紗子は売れ残りのそれを得意げに掲げて、胸を張ってみせた。


「でも、どうしてRなの?」


掲げられた鞄の持ち手で揺れる、Rを見て三井は尋ねた。当然の疑問だろう。


「えーと、実はこれ、売れ残りなんです」


その疑問に、少し照れたようにしながら美紗子は正直に答えた。しかし三井は、その答えを馬鹿にすることなく聴いていた。そして


「でも、RicのRだね」


そう言って笑った。


「そっか、RicのRですね」


つられて美紗子も笑った。


「私、もうRicのファンなんです。だからなんだか嬉しいかも」


「それは、俺も嬉しいね」


そして二人はまた笑った。そこに静かにグラスが運ばれた。

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