酒と煙草と油のにおい、中身の空っぽな猥談と地響きのような笑い声、居酒屋独特のトグロを巻いたような熱気が二人を包んでいた。


「ふふ、よかった。じゃあ終わったら連絡してね」


そんな熱を含む空気の中でも、三井の声はやけに優しく響く。


「はい」と返事をした美紗子もふふっと小さく笑みをこぼす。そうして「また後で」と別れて席に戻る。

 カランとスリッパを脱いで戻ったそこは、随分と長いこと席を外していたはずだが、そんなことには誰も気が付いていないような空気が流れていた。友人は赤いシャツを着た男と二人、小さなスマートフォンの画面を顔を寄せ合って覗き込んでいる。その隣で髪を緩く巻いた友人が「すごぉい」とやたらと母音を強調した言い方で黒いシャツの男に同調する。それに白いシャツの男が「俺もさ」と次の話題を持ちかける。


 美紗子はそれをぼうっと眺めながら、ひどく水滴を纏ったグラスを手に取るとちびちびと口をつけた。


「あ、そうそう、さっきもう一軒行こうよって話ししてたんだけど、美紗子はどうする?」


と、美紗子がテーブルにグラスを戻した時に友人が尋ねた。尋ねながら傾げた頭が、赤いシャツにこつりと触れる。


「明日、バイト早番なんだ。ごめんね」


それを眺めながらと言葉を返した。「ごめん」が何に対する謝罪なのかは正直美紗子にもわからないが、友人は「そっか」とあっさり返す。先程の謝罪は「引き止められもしない、つまらない人間でごめんね」ということかもしれない。


 そのとき明るい金色の髪をしっかりと束ねた女の子が「すみません。間も無くお席のお時間になりますー」と伝票を置いていったので、美紗子は鞄から濃紺の財布を取り出す。ふと、あの日のコンビニでの出来事をなぜか思い出した。お札のポケットにはレシートが未だに居座っている。


 友人もそれぞれ財布を出したが「あ、いいよいいよ、俺らが出すから」と黒いシャツの男が言えば「悪いよぉ」と言いながらもすぐにそれを仕舞う。それに倣って美紗子も仕舞った。その時、スマートフォンが震える。『出てすぐのコンビニにいます』と画面に浮かんだメッセージに、美紗子の心がふわっと震えた。


 「じゃあ、次は私たちも出しますねぇ」と言いながら巻髪の友人が荷物をまとめる。「おすすめのお店が近くにあるんだけど、そこでもいい?夜でもパフェ食べれるお店なんだけど」白いシャツの男が続ける。美紗子はそれを聞きながら『もうすぐ出ますね!』とこっそりと返信を打った。


 店の外に出ると、夏の夜の蒸した熱気が体を包む。飲み屋が立ち並ぶ通りでは、店の外に出ても飲み屋特有の熱気が渦巻いている。時刻は夜九時を少しすぎたあたり。夜はまだまだこれからよ、と酔った人達がシフトチェンジする音が聞こえた気がした。


 友人たちは次の店に向かって歩き出す。「気をつけてねー」と手を振って、キャッキャッと笑いながら夜に溶けていく。美紗子もコンビニに向かう。心臓がどっどっと跳ねた気がする。きっとさっき飲んだお酒の所為だろう。手動の扉を押すと、軽快な来店のベルが鳴る。流行りの曲と空調が体を包む。雑誌コーナーにあの無造作な頭を見つけた。やはり心臓はどっどっと跳ねていた。


「あ、お待たせしました」


綺麗な指で捲っていたページを閉じると、三井が顔を上げる。


「全然。ちょうどよく、酔いが覚めたよ」


言いながら笑顔を向ける。笑うと切れ長の目が細くなった。あ、可愛い、なんて美紗子は思う。


「さっき、ご飯とか食べた? 行きたいお店とかある?」


「少し、食べ足りないかも…です」


 美紗子は「ちゃんと食べました」と答えたかったが、正直に答える。三井は「じゃあ、ご飯が美味しそうなお店にしようか」と笑った。


 そうして二人は、少し歩いたところにあったバルに入る。ハイテーブルが並ぶ店内は案外静かで落ち着いていて「今日、びっくりしたよ」と三井が口を開けば、美紗子も「私もです」と言ってくすくすと笑った。


「三井さん、この辺りでよく飲むんですか?」


「ううん。ほとんど来ないよ。実は今、別のバンドの子から掛け持ちでいいから一緒にやりませんかって誘われてて、その子と話すために来たんだ。断るつもりだったから、高田馬場駅の辺りでバイトしてるその子に合わせてここまで来た」


 言い終わった頃に、背の高い男の店員が注文をとりにくる。とりあえず、とフライドポテトを頼んだ。三井はメニューを見ることなく生ビールを頼む。美紗子は一通りメニューに目を通してから「カンパリソーダを一つお願いします」と声をかけた。


「お酒、よく飲むの?」


「うーん。案外飲むのは嫌いじゃないです。でも、飲み会はちょっと苦手かも。三井さんは?」


「人並み、かな。俺も飲み会はあんまり得意じゃないよ」


三井との会話のテンポは心地がいいと美紗子は感じた。


「バンドのお誘いって、結構あるんですか?」


「初めてだよ。俺の声を気に入ってくれて、どうしても一緒にって熱心に誘ってくれた。すごく嬉しいけど、今はRicでいっぱいいっぱい。俺、ギター下手くそだし」


三井は照れたように笑う。癖なのか、鼻先を人差し指の側面で何度か撫でた。


「私、Ricの曲聴きました。すごくよかった」


「ほんと?よかった。そう言ってもらえるとうれしい」


また、鼻先を撫でる。綺麗な指が動く様に、美紗子はどこかくすぐったさを感じた。


 それから美紗子は色々と伝える。ライブは気になったけど行ったことが無いから連絡しなかったこと。バイト先のバーは大人っぽすぎで行けそうに無いこと。一番好きな曲のこと。歌詞のこと。三井はどれも、うんうんと頷きながら聴いてくれた。それがすごく心地いいことだけは、言わなかった。

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