五
あの後もぼんやりと眺めていたが、結局あの男女の手が解けることはなかった。
新宿駅で乗り換えて、中野駅で降りる。外の熱気に触れるたびに、美紗子は冷蔵庫とテーブルを行ったり来たりする調味料にでもなった気分になる。自分を包む空気の温度が上下するたび、歩き続けるよりも疲れる気がした。
美紗子は駅から徒歩十分、と契約をする時には言われていたが、実際には十三分かかる自宅のアパートに向かう。その十三分の道のりの中で、安いピーマンとトマトを買った。パスタはまだ、残っていたはずだ。
リノベーションされた美紗子と同い年のワンルームの扉を、フェイクレザーの扱いに慣れたくて作ったクマのマスコットがついた鍵で開ける。閉じ込められていた空気がどっと溢れて美紗子を包んだ。勝手知る家の匂いが肺を満たすと疲労の色が濃くなる。
目を瞑っても歩けるほどに慣れ親しんだ短い廊下の先にある美紗子だけの城。雑多な裁縫道具と素材で溢れたその部屋は、美紗子の努力の証だった。数日前までは。
狭い部屋の中で唯一寛げるベッドの上に体を投げ出す。枕元に置かれたエアコンのスイッチを入れると心地よい冷気が髪を揺らした。その前髪の隙間から、小さめのトートバッグが視界に映る。キャンバスの生地に赤い持ち手がついたシンプルなそれは、持ち手の部分に赤いフェイクレザーで作られた「R」の形がぶら下がっている。ネット販売しているサイトから注文が入ったものだった。
注文を受けた時は、知らない相手の顔を想像しながらワクワクして作った。しかしそのワクワクも「すみません。以前注文したしたやつ、キャンセルってできますか?」なんて〈今更言うなよ〉な連絡を受ければすぐに萎む。材料費で赤字になるからキャンセルは受け付けていなかったが、愛情込めて作ったこれが要らないものとして受け入れられるのが怖くて、「承知しました。」と受領した。
「ごめんね…」
なんとなくバック言ってみた。でも、何が「ごめん」なのだろう。言ったはいいものの、美紗子はぼんやり考えた。
ゴロリと転がって天井を眺める。コーッという控えめなエアコンの音、チッチッというお気に入りの壁掛け時計の音、ガランガランッという上の階でスプーンを落とす音、人の生活する音が静かに部屋を満たしている。ここ最近はミシンの音にハサミが布を切る音、図案を捲る紙の音ばかりが響いていた部屋。美紗子は久しぶりに静かだと思った。
美紗子はぼんやりと、今の自分を表す言葉を考えてみる。悲しい?寂しい?いや違う。多分、虚しい、だ。ふうっと漏れ出た小さな溜息の音が、静かな部屋ではやけに響いた。
「大文字のR、小文字のiとc…」
ぽつりと、三井の言葉を繰り返してみた。優しい声のあの男はどんな声で歌うのだろうか。少しだけ、気になった。スマートフォンを取り出して、動画投稿サイトに打ち込んでみる。「大文字のR、小文字のiとc」ともう一度つぶやきながら。
打ち込んで検索ボタンを押すと、画質の荒いサムネイルがいくつか並んだ。ライブハウスの映像らしい。とりあえず、一番上のを再生してみる。
黒い床に黒い壁、そこをブルーのライトが照らしていた。その中心に今日見たあのボサボサ頭が立っている。何色だろうか、青に照らされて本来の色を失った丸みを帯びたギターが、肩から垂らされている。荒い画質でよく見えないが、きっとそれを握る指はあのレジ打ちの時みたいに官能的に動くのだろう。
「ワン、ツー、スリー、フォー」とカウントするドラムの声が微かに鳴る。その瞬間に色んな楽器の音がダァンと響く。音楽には詳しくないけれど、その重なる音に美紗子は「普通に上手い」と思った。ふと『平凡じゃないけど、非凡じゃない』と今日自分が口にした言葉を思い出す。彼らの音楽はどちらだろうか。
イントロが終わって、三井がマイクに近づいた。スウッと息を吸った音が聞こえたかと思うと、ライブハウスの音を直接録音したガザガザの楽器の音に、声が重なる。
その時美紗子は「この人は多分非凡な人だ」とただ静かに感じた。
動画の下に並んだ数字を見てみる。決して多くはないが、何故か美紗子はそう思った。
それから二度、同じ曲を再生した。
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