そんなに大きな声ではなかったが、近くで発せられた声に彼女は思わずそちらを向いてしまう。目線の先には先程のコンビニの店員が立っていた。


「さっきのお客さんですよね?大丈夫すか?」


名札のついたストライプの制服は、くすんだクリーム色の大きめのシャツに変わっていた。


「あ、さっきの…。大丈夫ですよ。ちょっと休憩してただけです」


男は何も言わずに、先程までお婆さんが座っていたベンチに腰を下ろした。会ったばかりの男が突然近くに来たので、彼女は顔には出さなかったが少しだけ驚く。


 コンビニの外に出ても、男は不思議な雰囲気を放ちつづけていた。


「失礼かもしれないすけど、さっきお店に来たとき、なんかぼうっとしてる感じで熱中症とか心配したんです。そしたら今度はベンチでぐったりしてるから、焦りました」


男は右手でボサボサの頭を触りながら、少し照れ臭そうに言った。相変わらず、優しくてよく響く声だった。


「すみません、ありがとうございます。ちょっと考え事してて、みっともない格好してましたね」


彼女も照れ臭そうに笑いながら、ベンチに預けた背中を起こす。


「こちらこそすみません。余計なお世話でしたね」


今度は左手で鼻の頭を触りながら言った。そのまま一度、会話が途切れる。


 蝉の声が響いた。ツクツクボウシが近くにきたのか、ツクツクボウシツクツクボウシという独特な音が鮮明に聞こえる。そしてそれはひとしきり鳴いたあと、ジーっと鳴いて静かになった。


「あの、家この辺なんですか?」


男が静かに尋ねた。


「あ、いや、ちがいます」


彼女は答える。「中野の辺りです」と言いそうになったが、会ったばかりの男には言うべきではないと思い、ぎりぎりのところで飲み込んだ。


「そうなんですね。俺も家は三鷹の方なんです」


「へぇ。でも、バイトはここなんですね」


彼女は少し気になって聞いた。


「夜、この近くのバーでバイトしてて、それだけだとお金足りないから、バーに行くまでの時間はそこのコンビニのバイト始めて」


「なるほど」と相槌をうつ。


「でも失敗でした。家から遠すぎる」


彼は笑う。切長の目がくにゃりと曲がって、声と同じように優しそうな顔をした。


「コンビニ終わってバー行くまで、よくこの辺りで時間潰してるんです。もうちょいここ、座ってていいですか?」


「もちろんです」


このベンチは彼女のものではないので、もちろん断る権利はもっていない。


「お名前、三井さん、でしたっけ?」


もう少しここにいると言う男に、なんとなく形式的に聞いた。


「うん。そうです。名札とか、よく見てますね」


三井は楽しそうに笑った。


「なんか、気になっちゃって」


誤解をされそうな返答であることには言ってから気が付いたが、言い直すと余計におかしくなりそうだったのでそのまま言葉を続ける。


「私、ミサです」


本当は美紗子だが、なんとなくそう名乗った。

 それから二人は、少しだけお互いの話をした。三井は美紗子の三つ上の二四歳であること。福岡の田舎から上京してきた美紗子とは違って生まれも育ちも東京だと言うこと。お互い時間を潰すように、なんとなく、会話をした。


「ミサさんは大学生?」


「はい、服飾系の」


美紗子は笑顔で答えたが、瞼を伏せたせいで長い睫毛が影をつくった。


 美紗子は幼い頃から絵を描くことが好きだった。小さい女の子らしく、お姫さまをたくさん描いていた。そのうち、ドレスや可愛い服を描くことが楽しくなり、それを見た母が「美紗子ちゃんは将来、デザイナーさんかもね」そう言った。その時はデザイナーが何かをよく知りはしなかったが、なぜかその言葉はずっと思い出の中にあって、小学校高学年になる頃には、本当にデザイナーになりたいと思うようになっていた。


 美紗子は裁縫やミシンのやり方を習うと、家で小さくなった服を作り変えて遊んだ。それを家の外に来て行こうとして、母や祖母に止められた。今思えば、あんな歪な服を着て外に出ては恥さらしもいいとこだったが、当時の美紗子はその服たちがどんなドレスよりも素敵に思えたのだ。


 美紗子はそれなりに成績がよかった。塾に通ったことはなかったが、学校の授業をきちんと受けて、テスト前にきちんと勉強をすれば、たいていのテストは常に上から数えた方が早かった。

 それは大学に入ってからも同じで、要領の良かった美紗子は習ったことをすぐにものにした。家でもきちんと課題をこなし、復習をしておけば、たいていのことは問題なくやれた。


 だからこそ、先日美紗子は大型コンテストへ出展することになった。

 だがここで、美紗子は初めて世界を知る。「トップも狙えるかも」なんて、夢を見ていた自分が恥ずかしかなるほどに。ここは実力がなければ淘汰される世界だった。並んだ作品の中で、美紗子の作品は色をなくした。どこが悪いとか、なにが悪いではなく、ただただ埋もれて見つからなかった。悔しくて悔しくて、初めて寝る間を惜しんで勉強した。今日こそは何かを得ようと必死になって学校へ行った。


 美紗子は生まれて初めて、こんなにも努力をしたのに、それでも上手くはいかなかった。隣の人の手先や頭の中が妬ましくて、自分の持つものが情けなくなった。

 そして結局、告げられた言葉が美紗子の努力を打ち砕く。


『あなたくらいの力は、この世界には数えきれないほどいるわ。早めに先のことを考えておいたほうがいいわよ』


つい先日のことだった。

 さらに美紗子は、今の時代は大手ブランドに入らなくても自分でブランドを立ち上げられる時代だと、前々からハンドメイド作品をインターネットで販売していた。しかしこの売れ上げも思わしくない。


 そこに追い討ちをかけるように『美紗子が教えてくれたアプリのハンドメイド販売、いい感じに売れてるよー!ほんと、ありがとう!!』と言う友人からのメッセージがスマートフォンに表示される。美紗子は力いっぱいスマートフォンをベッドに投げつけた。


 「人の気も知らないで!」と怒りに任せたメッセージを返そうかとも思ったがやめた。美紗子はこの友人よりも成績は常に良かったから。

 美紗子は、自分が大した努力もせず、ただ狭い世界に満足していただけだったのだと思い知った。


 だから今は、あまり自分の話をしたくない。他に話を向けたくて、三井に聞く。


「あの、三井さんは、いつも、その、バイト以外の時間とか、何してるんですか?」


しかし昼夜バイトをしていると言う二四歳の男性に、なんと尋ねていいか分からなかった。懸命に言葉を探して繋いだが、言ってから「やっぱりまずかったかな」と三井から目を逸らす。


「一応、バンドやってるよ」


不安は杞憂に終わったらしい。三井は答える。


「すごい、どんなバンドですか?」


美紗子は美容師、バンドマン、バーテンダーからなる単語を思い浮かべた。別に、この人と付き合いたい、とかそう思ったわけではないが、なんとなく頭に浮かんだ。


「うーんと、まあ、普通のロックバンド?」

「なんで三井さんが『?』つけるんですか?」


美紗子は笑う。それにつられて三井も笑った。

 

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