二
外に出ると、熱風と蝉の声が体中を襲った。熱風が店内で冷えた体にまとわりついて、じわりと嫌な湿り気を生む。体が一瞬でまた熱に包まれた。
彼女は買ったばかりのオレンジジュースのキャップをひねると、口の中に流し込む。果汁百パーセントのそれがドロリと喉を通り抜けて胃の中に収まっていくのがわかる。それを最後の一滴までしっかりと飲み干すと、空になったペットボトルを店の外のゴミ箱に捨てた。ついでにアイスキャンディーの封もあけてゴミ箱に捨てる。縦向きに、少し雑に開けたせいでお馴染みの男の子の顔が大きく裂けたが、ゴミ箱の暗闇に飲み込まれるその時まで、その顔は笑っていた。
アイスキャンディーを口に運ぶ。最初の一口目は冷たさを覚悟して少し小さめに。だが思ったよりも衝撃は少なくて拍子抜けする。それからは普通に口の中に入れて、歯全体を使って咀嚼したり、舌の上で溶かしたりしながら食べ進めていく。中の棒が見えた時、アタリを探したが無かった。
コンビニの前に置かれた証明写真機から、眼鏡をかけた高校生くらいの女の子が出てきて彼女を一瞥したが、それでも食べ進める。
食べ終わったらその棒もゴミ箱に捨てた。先程までの嫌な感情はモヤモヤと思考全体を覆うものから小さなしこりくらいに変わっていて、少しは冷静になれたが、それでもゴミのように簡単に捨てることはできそうにない。
喉の渇きを潤して、咀嚼を繰り返したらお腹がすいた。悩んでいても腹は減るらしい。そういえば、朝も昼も食事をとっていなかった。
コンビニの外から店内を覗く。店内の冷房が強いせいか、窓は外の湿気で少し濡れていた。その隙間から先程の男の店員がまだレジ付近にいるのが見えて、時間を空けずに二度も買い物するのは恥ずかしいので諦めた。
どうしようかと考えながら、鞄から財布を取り出して中を見る。小銭はやたらと入っているのにお札のポケットはひどく寂しかった。収まっているのは千円札が二枚と先程のレシートが一枚。彼女はそのレシートを捨てようと一度取り出したが、なぜか捨てずにまた戻した。
彼女は親からの仕送りを中心に生活していた。もちろんバイトもしているが、学業を優先させたくてシフトをあまり入れていない。贅沢ができる身分では決してないということだ。
仕方なくスマートフォンを取り出して近くのコンビニを調べる。案外近くに別の店舗があったので、そこでおにぎりとお茶を買う。その店舗は人が多くて店の外で食べるのは気が引けた。とりあえず代々木公園まで戻る。
そもそも電車やバスを使えば、来たときよりも楽に家まで帰ることもできるのだが、あまり家に帰りたくなかった。
公園に向かう途中のベーカリーからいい匂いがしていて、パンにすればよかったとも思ったが買い直す余裕はない。歩きながら思いきり息を吸って香りだけを目いっぱい堪能した。余計にお腹が空いた。
公園に着くと、中は程よい人の数だった。中央広場のあたりまで歩けば、木陰に包まれたベンチがいくつかあったのでその一つに腰を下ろす。隣のベンチには花柄のシャツを羽織ったお婆さんが一人、本を読んでいた。こんな暑い日に外で読まなくても、と思ったが、「これが私の日常なのよ」と言わんばかりに平然としている。隣に置いているシルバーの大きな水筒には、きっと冷たい飲み物がたっぷり入っているんだろう。
彼女はそんなお婆さんを横目に見ながらおにぎりをぺろりと平らげた。
食べ終わったおにぎりのゴミは、ひとまず鞄にしまう。普段はもう少し食べるが、暑さと疲れからか一つ食べたら満足だった。
頭の上から降ってくるみたいに、蝉の声は鳴り続けている。ジュワジュワと公園中を包む音の中で、ミーン、ミンミン…という音だけがやけに耳に残った。
『あなたくらいの力は、この世界には数えきれないほどいるわ。早めに先のことを考えておいたほうがいいわよ』
あの言葉が頭の中でまた聞こえる。あの人がどんな表情で、どんな仕草で、どんな声色だったかも、鮮明に覚えている。あのとき自分は、どんな表情で聞いていただろうか。
この言葉を口にした時、あの人の顔は普段と何も変わらなかった。嫌味を言ってやろうとか、嫌がらせしてやろうとか、そんなものは一切ない。また怒っているとも、呆れているとも違った。それはただ、事実を伝えているだけ、だった。
いっそのこと嫌悪感や怒りに任せて放たれた言葉の方が、割り切れたかもしれないし、反論だってできたかもしれない。淡々と伝えられた言葉には、『はい』と返すのが精一杯だった。
もしもあの時『嫌です』とか『諦めません』とか、返していれば何か変わっただろうか。もちろんそんな、たらればの話に意味はない。そして彼女にはそう返すだけの自信もない。
正直、あの人からそう言われた時も、納得してしまった自分がいた。ただそう簡単に諦められない自分もいる。諦めないか、諦めるか、正解はどちらだ。
隣から、ゴトンと鈍い音がして、思考が止まる。
聞こえたほうへ顔を向けると、隣のお婆さんの水筒が、ベンチの上にゴロンと転がっていた。
「ごめんなさいね」
彼女の視線に気づいたお婆さんが言う。まったりとした声だった。お婆さんは、その倒れた水筒と、先程まで読んでいた本を麻色のトートバッグにしまっていく。
「ずっと前からね、晴れた日はここで本を読むのが日課なの。前はこんなに暑くなかったのに。今は一時間で限界ね」
手元に視線を向けたまま、お婆さんは話す。蝉の声にかき消されそうな声だったので、彼女は自分に向けられた言葉なのか、独り言なのか少し迷って
「そうですね」
とだけ返した。それはきっと、お婆さんに聞こえるギリギリの声だった。お婆さんはにっこりと笑顔を返す。今度はしっかりと彼女を見ていた。可愛らしい顔をしたお婆さんだった。
お婆さんはトートバッグを肩にかけ、日傘を手にとるとベンチから立ち上がる。彼女の前を通り抜ける時、「お先に」ともう一度にっこり笑った。背筋がピンと伸びたその姿は、座っていたときよりも少し若く見える。肩にかけたトートバッグは、荷物の重みでピンと伸びて、黒く太いゴシック体で大きく書かれた「correct!!!」という柄がよく見えるようになった。麻色のシンプルな背景にこんなにも堂々と「正しい!!!」と書かれていると諦めるか、諦めないか、どちらを選択しても「正しい」気がした。
彼女はベンチに背中を預けると、ぐいっと背伸びをする。速乾性のあるインナーを着ていたおかげか、背中を預けても汗の不快感は無かった。そのまま夏のこの空気に身を任せて、頭の中を空っぽにする。
蝉の声に混じって、遠くで鳥の甲高い声がした。子どもが笑う声が響く。遠くで鳴らされた大型車のクラクションの音がここまで届いた。ドッグランが近くにあるけど、夏の暑い時間のせいか犬の声はあまりしなかった。風に公園中の木の葉がなる。ぼうっとしていると、なんとかなるような気もしてきた。
今度は近くで「あの…」と言う声がした。
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