BON.

石橋めい

 今年の夏も酷暑だというのに、東京の街は今日も人で溢れていた。


 八月の正午過ぎ、ほとんど真上に登った太陽がじりじりと照らす人混みの中を彼女はひたすら歩いていた。中野区の自宅を出てから一時間以上は経っただろうか、肩口のあたりで切りそろえられた黒い髪にはやや汗の色が滲んでいる。


 人混みを覆うようになり響く蝉の声は、湿気と熱気をふくんだ夏特有の空気を揺らして、彼女の表層から脳の奥まで暑さを浸透させていく。それに充てられた彼女の背中に汗が滲んで、つうと一筋流れ落ちた。彼女には特別に急ぐ理由も、予定も、ましてや目的地もない。だがそれでも足は止めなかった。


 彼女はただ腕を振る。そうしたら自然と足が前に出た。それに従ってあてもなくただ前へ進む。春先に買った淡いブルーのエナメルレザーの小さな鞄が握りしめた手のひらの中で少し湿った。


『あなたくらいの力は、この世界には数えきれないほどいるわ。早めに先のことを考えておいたほうがいいわよ』


昨日言われた言葉が何度も何度も頭の中で繰り返される。それは噛みしめれば噛みしめるほど味が出る干物のように、繰り返せば繰り返すほど嫌な感覚として頭の中に広がっていく。


 まるでなまくらの包丁だ。切れ味の悪い刃は、じわじわと、ゆっくりと、しかし確実に彼女に傷をつけていく。スパッと切れ味よく切り裂いて、呻き声を上げる間もなく終わらせてくれれば楽だと思った。たった一言で傷を負った彼女の努力から痛みが漂う。それを振り払うように彼女はただひたすらに歩いた。立ち止まったら、もう二度と前には進めない気がした。


 その彼女の行手を、突然出てきた黄色いベストの若い男が塞ぐ。


「駅前に新しくオープンしたカラオケ店です」


額には汗を、顔には暑苦しい笑顔を張り付けてポケットティッシュを差し出してくる。


「お姉さん、大学生?うち、学割もありますよ」


二、三歩追いかけながら、ティッシュに言葉が付け加えられた。たしかに彼女は大学生ではあるが、今は誰とも話したくなかったし、関わりたくもなかったので無視をする。何より今は立ち止まりたくない。


 後ろから「チッ」と舌を打つ音が聞こえた。


 都会の人混みは、まるで一体の生き物のようでもあった。それぞれが別の意思を持って歩いているのにもかかわらず、するすると上手いこと交差してはすれ違い、歩いていく。彼女はそんな押し寄せる人の波の中を歩き続けた。


 一際大きな蝉の声が聞こえた。それはいろいろな音が重なりあい、まるで見えない錘のように人を押し潰そうとしている。気がつけば視界は大きな緑で満たされていた。歩いているうちに、代々木公園の近くまで来ていたらしい。


 緑が多いここは蝉の溜まり場と化していて、この緑の森の中でそれぞれが必死に声をあげている。その声だけが頭の中で繰り返されるあの言葉を少しだけ掻き消してくれた。


 彼女はふうっと息を吐く。汗ばんだ体は気持ちが悪いし、喉も渇いている。視界の端で捉えた電柱にコンビニを示す看板を見つければ、自然と足が向かった。


 やっと明確な目的地ができた。


 大通りを曲がって少し歩いた先の、細い路地に佇んでいたコンビニは、彼女の汗ばんだ体をすぐに冷やしていく。白髪混じりの髪を短く揃えた小柄な男がおにぎりを並べているだけの店内は、やけに静かで来店を知らせるベルと流行りの曲が妙に耳に残る。小柄な男はおにぎりから目を離すことなく「いらっしゃいませ」とつぶやいた。


 窓辺に並べられた雑誌を眺めながら彼女は奥のドリンクコーナーに向かう。ガラス戸の前で商品を眺めれば、大きくはないけれど形の綺麗な一重瞼の自身と目が合った。全てをぼんやりと反射する戸を開けて、オレンジジュースを手に取る。レジに向かうと途中でキンキンに冷えたアイスが美味しそうに見えて、お馴染みの男の子が描かれたアイスキャンディーも一緒に手に取った。

 嫌な感覚は未だにモヤモヤと渦巻いていたが「美味しそう」という感情は芽生えるのだと思うと、悩み自体がどこか少し馬鹿らしいように思えた。


 アイスキャンディーとオレンジジュースをレジに置くと、裏から大学生くらいの男が出てくる。色白で切長の目が印象的な、整った顔立ちの男だった。しかし飾り気もない黒の少し長い無造作な頭が、野暮ったくてどこか陰鬱なイメージを与える。


 ただ慣れた動作でバーコードを読み込んでいく少し骨張った長い指先には無造作な髪型とは反対の綺麗な爪がついていて、それが男を繊細そうにも見せた。野暮ったさと繊細さが同居する不思議な雰囲気に包まれたその男に、少しだけ目が離せなくなる。


「二百十円です」


 男は商品に購入したことを示すテープを貼りながら言った。彼女は濃紺の二つ折り財布からお金を探すがうまく見つからなくて、ちゃり、ちゃりと二度指で小銭を掻き回す。そうしてようやく見つけたちょうどいい硬貨をトレーに乗せると、ちゃりんと軽快な音がした。


 ふと、男の胸元に目がいく。正しく着こなしたストライプ柄の制服には、『三井』と書かれた名札が少し斜めを向いて付いていた。『ミツイ』と言う濁りのないその音は、男の繊細そうな指先にとても似合う気がしたし、明るい色を放つ『イ』の音が、暗くて無造作なこの頭にはなんとなく似合わない気にもさせた。そんなことを考えながら、ぼうっと精算が終わるのを待つ。暑い中歩き回ったせいか、少し疲れていた。


「あの…」


すると男が少し気まずそうに声をかける。


「え?」


名札や指先を見ていたことがバレたのだろうかと、彼女は少し慌てて声を出した。それは彼女が思っているよりもずっと、間抜けな声でさらに慌てる。


「あの…、すみません、百円、足りないです」


男は少し気まずそうに伝えた。トレーの上をよく見ると、百円が一枚と十円が一枚、それから一円が一枚乗っているだけだった。たしかに百円、正確には九十九円足りない。彼女はちょうどの金額をトレーに載せたつもりだったが、百円を取り損ねて一円を手にしたらしい。


「あ、すみません」


彼女は慌ててもう一枚、百円を手に取ろうとしたがなかなか取れなくて、小銭をがちゃがちゃと鳴らした。


「すみません。あるので、ちょっと待っててください」


取れないことで、さらに慌てる。変な人だと思われたのでは、と恥ずかしさも込み上げて、冷房の効いた店内で体温が上がった。


「あ、いや、全然、大丈夫ですよ」


男の声は優しくて、声量は大きくないのによく響く。


「すみません。お待たせしました」


彼女は百円ををトレーに載せてから、いらない一円をすぐに財布に戻す。トレーには、ちょうど二百十円だけが残った。


「二百十円ちょうど、ですね」


男の綺麗な指先が硬貨をレジにしまっていく。しなやかに動くその指は、官能的にさえ見えた。彼女はその指をちらりと眺めながら、レジを通したアイスキャンディーとオレンジジュースを手に取る。


「お姉さん、大丈夫ですか?」


「え?」


「体調、悪いのかなって思って。違ってたら、すみません」


男は少し聞きづらそうに、控えめに問いかけた。


「あ、ありがとございます。でも大丈夫です」


今度は落ち着いて言葉を返す。


「ただ、ちょっと疲れちゃいましたね」


大丈夫、だけではそっけない気がして付け加えた。


「よかったです。外、暑いので気をつけてくださいね。あ、レシート、いりますか?」


あまり表情は変わらないが、柔らかい物言いがとても優しくて心地がいい。


「もらいます」


普段は手にした途端にゴミ箱に入れるレシートを、今日はなぜか丁寧に受け取った。


「ありがとうございました」


男の声は、最後まで柔らかくて優しかった。


 レシートを財布のお札入れにしまうと、アイスキャンディーとオレンジジュースを手に持ってレジを後にする。白髪混じりの小柄な男の店員は、既におにぎりからパンの品出しへと移っていた。

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