第7話

 


 静かに廊下を歩くと、ドアの前で立ち止まった。部屋からは話し声すらなかった。重苦しい空気の中、ノックをすると、


「入れ」


 短い返事があった。その、冷ややかな行弘の言い方は、親に叱られる時の子供の気持ちにさせた。


 ドアを開けると、横顔を向けた行弘の背中と、ビールを飲み干す高志の仕草が同時に見えた。座る場所に迷っていると、“ここに座れ”と言わんばかりに、行弘が腕を引っ張った。行弘の横に正座したものの、適当な言葉が見付からなかった順子は黙って、どっちかが口を開くのを待っていた。


「……ご主人に君とのことを話したから」


 口火を切ったのは高志のほうだった。


「……ええ、聞きました」


 順子は俯いたままで小さく返事をした。


「で、君の気持ちはどうなんだ」


 自分のグラスに注ぎながら、高志が直球を投げた。煙草をくゆらしている行弘の顔がわずかに順子のほうに動いた。


「……この人について行きます」


 順子は高志を見ずに、行弘の横顔を見詰めていた。


「……そうか。……そう言えばこんなシーンが昔もあったな? 俺がお前の男のとこに話し合いに行った時だ。あの時、お前は今のように、“この人と一緒に暮らします”そう言った。俺は諦めて、“……そうか、幸せにな”そう言って別れたよな? なのに何だと? その男とはすぐに別れただと? あの時、俺の気持ちがどんなだったか分かるか? あー? お前はそうやって俺の気持ちをずたずたにしてきたんだ」


「だから、そんな私のことは忘れてって言ってるじゃない」


 高志を睨んだ。


「俺の子をろした女を忘れろと言うのか」


 途端、煙草を口にしようとした行弘の手が止まった。


「やめてーっ!」


 順子は耳を塞いだ。


「病院のベッドで、“堕ろしたくない”って、泣きながら譫言うわごとを言ってたお前を忘れろと言うのか?」


「そうよ。お陰で二度と子供が産めない体になったわ」


「えっ?」


 高志が目を丸くした。


「私だってできれば産みたかった。でも、定職に就いてないあなたと結婚して子供を育てる自信はなかった。不安だった。……結婚を諦め、人生を諦め、死のうとした私をこの人が助けてくれて、生きる喜びを与えてくれた。少しぐらい幸せになっちゃいけないの?」


 気持ちが高ぶった順子は、嗚咽おえつを漏らした。


「……すまなかった。……すいません、一人にしてくれませんか」


 懸命に笑い顔を作った高志が行弘を見た。


「……ええ」


 行弘は煙草を消すと、涙を拭っている順子の腕を掴んだ。高志を見ると、神妙な面持ちで目を伏せていた。


「……たか――」


 高志に声をかけようとした順子の腕を行弘が引っ張った。――




「……ごめんなさい。……子供が産めないこと言わないで」


 ポットの湯を急須に注ぎながら、行弘に謝った。


「そんなことは気にしなくていいさ。子がなくても十分幸せなんだから」


「……あなた」


 行弘のその言葉に、順子は救われた思いだった。


「それより、増田さんのことが心配だな」


「……ええ」


 順子も同感だった。高志は喜怒哀楽を表に出すタイプではない。その高志が、見ているのが辛くなるほどに落ち込んでいた。


(……高志、ごめんなさい。こんな薄情な女は忘れて、今の奥さんとの生活を守って。お願い)


 順子は心の中で祈った。



 翌朝、食事に下りてきた高志は、昨夜のことが嘘のように、いつもの穏やかな表情をしていた。


「お早うございます。あ、奥さん。昨夜は失礼しました」


 何かを払拭したかのように、高志は明朗闊達めいろうかったつだった。


「あ、いいえ」


 急いで、冷蔵庫から麦茶を出した。


「ご主人、申し訳ないですね、悪酔いしてしまって」


「気にしないでください。呑めば誰だってそうです。私なんかしょっちゅうですよ。ハハハ……」


 行弘が言葉を選んでいた。


「朝食を済ませたら帰りますので」


 その言葉に行弘と順子は目を合わせた。



 食堂のテレビを観ながら食事を済ませた高志は、慌ただしく腰を上げた。


「どうも、ごちそうさまです」


 そう言って二階に上がった。


 行弘と順子に会話はなかった。互いの気持ちは、その表情で察知できた。


『お前のこと諦めて帰るみたいだな』


『ええ、そうみたいね』


『このまま帰していいのか? 後悔しないか?』


『ええ。私はあなたの妻ですもの、あなたについて行くわ』


 そんな無言劇の台詞せりふを交わしていた。



 ボストンバッグを提げて下りてきた高志は、車で送ると言う行弘に、


「ぶらぶら歩きたいので」


 そう言って断ると、順子が揃えた靴を履いた。


「……幸せにな」


 高志が瞬きのない目を向けた。


「……ええ。あなたも」


 順子も目を合わせた。高志は行弘に頭を下げると、背を向けた。


「そこまで送ってくる」


 行弘は、厨房のテーブルに置いた煙草を取ってくると急いで後を追った。先を行く高志の背中が寂しそうだった。


 ……ごめんね、高志。順子は心で詫びながら、橋を渡ってならこずえに二人の姿が消えるまで、食堂の窓から見送っていた。――



 コーヒーを飲みながら、食堂で編み物の続きをしていた。ふと、掛け時計に目をやると、一時間が過ぎていた。窓を覗いたが、若葉がそよ風に揺れているだけだった。


 ……どこまで送ってるの? 急に不安が過った順子は、急いで腰を上げた。




 行弘がお気に入りの、山並みが眺望できる崖の所まで行ったが、二人の姿はなかった。

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