第8話

 


 諦めて帰ると、行弘はすでに帰っていた。行き違いになったようだ。


「何やってんだ、鍵もしないで」


 飲みかけの順子のコーヒーカップに口をつけると、上目で見た。


「遅いから心配になって」


「バス停まで送ってきた」


「……何、話してたの?」


「別に。世間話」


「……彼、松田羽留子さんの旦那さん」


「ぷっ!」


 飲もうとしたコーヒーを吹き出した。


「えー?」


 目を丸くしていた。


「同窓会の返事、私が代筆したでしょ? それでやって来たのよ。筆跡で私だと思って」


「あの羽留ちゃんの旦那さんとはな。思いもしなかったよ」


「と言うわけ。ジャンジャン」


「しかし、偶然だよな。俺の同級生の旦那が、お前の昔の男だったなんて。確率的にはどのぐらいだ?」


「ほんとに。偶然てあるんだね」


「けど、お前と彼が関係があるのは分かってたよ」


 煙草を吸った。


「えー? いつから」


「最初から変だと思ったけど、確信したのは麦茶だ」


「……麦茶?」


「夏ならまだしも、この時期に麦茶なんか出さないだろ? 二日酔いの翌日、彼に麦茶を出した。二日酔いに彼が麦茶を飲むことを知っていたからだ。無意識のうちにボロを出してたってわけ」


「……なんだ、バレバレだったのね」


「どうだ、名探偵だろ?」


「ええ。迷惑の迷の迷探偵」


「好きか?」


「何を?」


「ガクッ。何をって、俺をだよ」


「ううん」


「えっ! 好きじゃないの?」


「うん、好きじゃない」


「……なんでー?」


 小学生並みに口を尖らせた。


「だって、好きじゃなくて、だ~い好きだもん」


「……こいつ」


 煙草を消すと、順子の横に座った。


「ちょっと、何よ」


「キス」


 行弘が目を閉じて、唇を突き出した。


「もう、バッカじゃないの? いい歳こいて」


 行弘から逃れると、厨房に立った。


「チェッ」


「今日は二組の予約よ。そろそろ買い出しに行ったら?」


「まだ、早いもんねー」


 小学生並みは続いていた。


「キスしてくれたら行く」


「もう、ガキなんだから。ほら、チュー」


 早足で行弘の元に行くと、唇を突き出した。行弘は順子の顔を押さえると、優しく接吻せっぷんをした。やがて、力をなくした順子の体は、腰を上げた行弘に支えられていた。――



 それから一年近くが過ぎた。〈郁清荘〉は大して忙しくもなかったが、家庭的な雰囲気が好まれ、安定した売上が見込める固定客がついていた。


「あれから、もう一年近くなるな」


 朝食を終えた行弘がぽつりと言った。


「ん?」


 皿を洗いながら、順子が流しから顔を向けた。


「松田さん……」


「ええ。年賀状出しても返事来なかったね」


「ああ。もう、俺達と関わりたくないのかもな」


「そんなふうに決めつけることもないでしょ? 忙しいのよ、きっと」


「羽留ちゃんと上手うまくやってくれてるといいがな」


「そうね。……あっ、そうだ。ね? 二人をうちの宿に招待したら? 同窓会も兼ねて」


 エプロンで手を拭いながら、行弘に正面を向けた。


「……だな。いい考えかも」


 煙草の煙に、行弘が目を細めた。


「ね? じゃ、早速、手紙書こう」



拝啓

 春雨も名残なごりなく晴れて 下萌したもえの雑草も青々となり 馥郁ふくいくたる梅の香や ひねもす雲雀ひばりの歌声が爽やかな今日この頃です

 如何お過ごしでいらっしゃいますか

 お元気の事と存じます

 昨年は同窓会に出席できず申し訳ございませんでした そのお詫びと申しては何ですが 如何でしょう 当宿にご夫婦で遊びにいらっしゃいませんか

 一泊で申し訳ございませんが ご招待させて頂きます

 是非 ご主人といらしてください お会い出来るのを楽しみにしています

       敬具





 だが、数日後に届いた羽留子からの手紙には、想像すらしなかったことが綴られていた。



前略

 お手紙ありがとうございます

 折角のお誘いですが 辞退させていただきます

 詳しいお話はできませんが 実は 主人が一年ほど前から行方知れずで 一年経った今でも不安ばかりが募り 立ち直ることができません

 警察に捜索願を出しているのですが いまだに消息が分かりません

 折角のお誘いですが どうかお察しくださいませ

      かしこ




「……あなた、どうしたの?」


 目を見開いたまま凝然ぎょうぜんとしている行弘の手から便箋を取り上げた。


「えっ! どう言うこと?」


 文字を追いながら、順子も驚愕きょうがくした。


「……行方不明って」


 順子は独り言の呟くと、わけの分からない顔を行弘に向けた。


「……」


 行弘は心配そうな顔で腕組みをしていた。


「一年前って、ここを出た後よ。家に帰らずどこに行ったのかしら……」


「……まさか」


 行弘は不意に腰を上げた。


「何よ?」


「……自殺」


「嘘よ! そんなこと……」


 順子の中に、魑魅魍魎ちみもうりょうという得体の知れない物が居座った。


「まさかと思うが、とにかく、その辺を捜してみる。もしそうなら、雪も解けたし、容易に見付かるはずだ」


 行弘は思い立つと、慌ただしく腰を上げた。順子は不安の中で、もう一度手紙を読み返した。


 ……一年前、行弘が送ると言って、一緒に出ていった。あの時、バス停まで送ったと言った。……まさか。


 順子の中に突如、行弘への疑惑が芽生えた。居ても立っても居られず、急いで腰を上げた。



 例の崖まで来た時だった。崖下を覗く行弘の背中があった。順子は咄嗟に杉の木に身を隠すと、行弘の様子を窺った。この時、何かしら、見てはいけない物を見てしまったような罪悪感が生じた。

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