第5話 未来へ

 待ち合わせの時間に喫茶店に着くと、彼女はテラス席に座って海を見ていた。再会した時と同じ白いワンピースを着た彼女の表情は、麦わら帽子に隠れて見えない。


「ティータイムはいかがでしょうか、ヒスイお嬢様」


 僕が声をかけると、彼女は我に返ったかのように振り向き、帽子を取って優しく微笑んだ。


「アイスティー、ふたつ頼んでおいたから」


「光栄に存じます」


「やめてよ、もう」


 彼女は恥ずかしそうに顔を伏せ、運ばれてきたアイスティーを一口飲んだ。


「女将がね、とってもいい彼氏さんだから大事にしなさいとか言うの。あはは!」


 反撃に転じた彼女は、それでも心なしか、いつもより元気がないように見えた。


「あの女将、俺にはお友達とか言っといて裏でニヤニヤしてたのか、趣味悪いぞ」


「女将はいい人だよ。それに、わたしは悪い気はしなかったけど」


 挑発をやめない彼女を、苦笑いを浮かべて見返す。昨日の雨から一転、盛夏の日差しが辺りを眩しく照らしている。


「それにしても、改めてヒスイはすごいよな。第一志望に入って、ちゃんと建築の研究も積み重ねてて…俺なんか今から進路考えるところだよ」


「そんなことないよ。建築は競争が激しい分野だからみんな頑張らなきゃいけないだけで…それに師匠、なんだかんだ芯が強いから将来やりたいことできると思う」


「なんだかんだとは失礼な。たとえ本当のことでも言っていいことと悪いことがな…」


「ふふ、冗談冗談。あぁ師匠と話すのやっぱり楽しいな」


 正直に言うと、僕はもう気持ちを押し殺すのが限界になっていた。この町で彼女と過ごした日々は夢のようで、その非日常が心の奥底の淀みを洗い去っていくように感じていた。今は、彼女と再び別れることが単純に耐えられなかった。偶然がもたらした、二度と戻らないこの時間を、ただ過ぎゆくままに任せることなどできなかった。


「ヒスイ、あの…今更だけど…」


 しかし、僕が意を決して口を開こうとした刹那、彼女の両眼から涙が零れ落ちた。


「ママがね…見つからないの…」


 絶句する僕を前に、彼女は涙を流しながら途切れ途切れに言葉を継ぐ。


「あの日、ママは都心に買い物に行ってて…ちょうどその場所が津波で水没したって…」


 数知れぬ人々が、あの大災害で命を散らした。その多くが海に飲み込まれたことを、僕も知っている。


「パパと一生懸命探したの。帰ってきた行方不明者もいるから、絶対ママのことは諦めたくなくて…でも…もう半年だよ…」


 何も言えないまま、僕はただ彼女を見ている。感情を迸らせる彼女は、非現実的なほど美しかった。


「ごめんね…師匠。こんなこと言われてもって思うよね…でもこんなこと、師匠にしか言えないよ」


 燦々たる日差しと、穏やかな海と、溶けかけの氷が入ったアイスティーと、目の前で泣いている彼女を、僕は一生忘れないだろう。そう思ったとき、胸の中に残る最後の重しが、ふっと外れた。


「ヒスイ、君にとってどれほどの慰めになるか分からないけど、俺はこれからもずっと、君の傍にいて君の話を聞く。だからお母さんのことも、何もかも、辛かったら言ってほしい。俺はずっと…ずっと、笑ってるヒスイを見るのが好きだったんだ。だから…」


 彼女は顔を上げ、泣き笑いのような表情で小さく頷いた。それから僕たちは、輝く海を眺め、波音に耳を澄ませた。


                 ◇


 一羽のかもめが、はるか上空でゆっくり円を描いて飛んでいる。


 僕と彼女は、喫茶店からの帰り道、海沿いの道路を歩いていた。彼女は頬に涙の跡を残しながらも、穏やかな表情を取り戻していた。


「そういえば師匠、わたしがママの話をする前、何か言いかけてなかった?「あの…今更だけど…」って」


 自分の物真似をされたのが恥ずかしくて、僕は少し赤くなりながら彼女に向き直る。


「話を聞いてもらったから、わたしも聞くよ。師匠の話」


 心なしか悪戯っぽい光を宿した彼女の目から、僕は視線を逸らすことができない。彼女が、ヒスイが、自分にとってかけがえのない人だと、僕は気付いてしまった。それは世の中のどんな物事よりも確かで、どんな感情よりも強いものだ。


                 ◇


 ヒスイを見つめたまま、僕は長いこと伝えられなかった言葉を口にする。頭の中で何度も思い描いていたその瞬間は、凪のように穏やかで、あっけなかった。


 はっとした表情から、目を細めて笑ったヒスイは、ゆっくりと頷いた。

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友達以上恋人未満の女友達と、片田舎の港町で奇跡の再会を果たしたけど自分に素直になれない ユーリカ @eureka512

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