第4話 見えない表情

 島でサイクリングをした数日後、僕は彼女が働いている旅館に至る坂道を上っていた。久々の雨に打たれ、生垣に咲く鮮やかな紫陽花が小刻みに揺れていた。重厚な木造旅館が立つ丘の上からは、晴れていれば遠くの島々まで一望できるのだろうが、今日は灰色に霞んだ海が茫洋と広がるだけだ。


「すみません、どなたかいませんか?」


 広々としたロビーに人の気配は無かったが、しばらくして奥から柔和な笑みを浮かべた中年女性が現れた。この旅館の女将だろう。


「お待たせしました。ご宿泊の予約は…」


「いえ、こちらで働いている知り合いを訪ねてきたのですが」


 そう告げると、女将はああと納得した顔になり、僕に上がるよう手招きした。そのまま回廊を奥へ進んでゆく。


「あの子から話は聞いていますよ。とても仲の良いお友達がいらっしゃると…ただ、てっきり女の方かと思っていたもので、失礼しました」


「いえいえ、本日はお仕事中に無理を言ってしまい、こちらこそ申し訳ないです…」


 回廊の突き当り、「事務室」と書かれたプレートの掛る扉を開けると、小さくも趣きのある中庭に面した六畳ほどの小部屋があった。庭に面して、小さな縁側が張り出している。


「呼んできますので、こちらで少々お待ちください。この時期はあまりお客様も来られませんし、ゆっくり話されて結構ですよ。それと…」


 女将はしばらく言葉に詰まったように沈黙していたが、おもむろに僕の方に向き直って言った。


「あの子は、仲居として本当によく働いてくれています。この旅館の歴史にも興味津々で私を質問攻めにしたりして、まだ短い付き合いですが我が娘のように可愛いです」


「昔から優秀で何でもできるんです、彼女」


「はぁ、やっぱり。ですけど、ひとつだけ気がかりなことがありまして、こんなこと外の方にご相談するのもおかしな話ですけど…」


 眉尻を下げ、女将は言葉を継ぐ。


「あの子は仕事中、たまに思い詰めたような顔をすることがあるんです。私も見かけた時はそんな顔お客様にお見せしてはいけませんと注意するのですが、その度に笑顔で強がるように誤魔化しているようで…私も女将として、従業員の私事には必要以上に立ち入らないようにしているのですが、とにかく心配で…」


「何か、気安く話せない悩みを抱えている…」


「ええ。だから学生さん、あの子の親友として何か心当たりがあれば、あの子が抱えている苦しみを少しでも軽くしてあげてください。これは私自身からのお願いです」


 そう言うと、女将は深々と頭を下げ、部屋を出ていった。


                 ◇


 縁側に座り、雨音を聞きながら足をぶらぶらさせていると、山吹色の着物を着て、髪を結んだ彼女が部屋に入ってきた。見慣れない和服にどぎまぎしながら、空いたスペースを手で示す。


「和服姿も素敵ですね」


「わー嬉しい!雨なのに来てくれてありがとう」


 彼女は僕の隣に腰掛けると、懐から最中を二つ取り出した。


「お友達と一緒にって女将にもらったの。一緒に食べよ!」


 最中を齧りながら、この時間がいつまでも続けばいいのに、と思った。


「ヒスイは、いつまでこっちにいるの?」


「んー来月までかな。パパがお盆休みに来る予定だから」


 彼女の通う大学のある町は大災害を免れ、今でも多くの観光客で賑わっている。


「島も旅館も行ったし、この町でヒスイと一緒にできることは満喫したかな」


「やること無くても、喫茶店で話せばいいよ。わたしたち、いくら時間があっても話が終わらないじゃない」


「たしかに、そうだね」


 雨は止まず、中庭に置かれた石灯篭からは細かい水滴が散っている。


「ヒスイ、実は女将から聞いたんだけど、その…何か困ったことでもあるの?」


 彼女は一瞬はっとした表情を浮かべたが、すぐに明るい声で答えた。


「女将もお節介だなぁ。5時起きが辛くて翌朝のこと考えて沈んでることはあるかな、なんちゃって」


「そっか…まぁ俺でよければ、何かあったらいつでも相談してよ」


「うん、ありがとう師匠!」


 それから僕たちは女将の許可をもらって老舗旅館の中を探検して回った。彼女は建築専攻らしく、ここの梁の渡し方は素晴らしいだとか、この部分は何と何の折衷様式だとか楽しそうに講釈していた。そうして30分ほどが過ぎると、どこからともなく女将が現れ、彼女は笑顔で手を振って仕事に戻っていった。


                 ◇


 家に帰り、祖母と夕食を作っていると、彼女からメッセージが来た。


「明日非番にしてもらったから、いつもの喫茶店行こうよ」


 やや変則的な誘いではあったが、僕は特に気に留めることなく、いつものように彼女との定例会をセットした。雨は、夜に入ってひっそりと止んだ。

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