第3話 海と空と

 氷で冷やされたアイスティーのグラスから、きらめく水滴が滴っている。


 僕と彼女は、再会の日に訪れた海辺の喫茶店で、テラス席に座って海を眺めていた。丘の上の旅館で仲居業を体験している彼女とは、非番の日にこうして会うようになった。外見上は、中学時代にカフェで延々話し込んでいた頃と何も変わらない。


「そしたらね、女将が昔の構造計算書を持ってきて見せてくれたの!感動したなぁ」


 建築学を専攻する彼女にとって、昭和前期に高名な建築家によって建てられた和洋折衷様式の旅館は、格好の実物教材なのだという。


「東京は壊滅的なことになっちゃったけど、昔だって関東大震災を機に大胆な都市計画をやって近代都市に生まれ変わったじゃない。この状況は、これまで過小評価されてきた日本の近代建築を再評価して復興に役立てるチャンスでもあると思うんだ」


 建築家としての未来を熱く語る彼女にひそかに見惚れながら、僕はアイスティーを啜る。


 ひとりで本を読んでいるタイプだった中学時代に比べ、今の彼女は良い意味で柔らかい性格になった。それでも、油断すると吸い込まれてしまいそうな透明感は何も変わらない。彼女の美貌に我を忘れるほど惹かれるのは、僕だけなのだろうか。彼女と過ごした時間の長さが、僕にだけ彼女の美しさを一層際立たせているような気もする。


「ヒスイってアウトドア好きだっけ?」


「高校は弓道部だったけど、外を散歩するのは好きだよ。どうして?」


「ここからフェリーですぐ行けるあの島、自転車で周れるらしいんだ。こうしてずっと話すのもいいけど、たまには鈍った体を動かすのもいいかと」


「体鈍ってるのは師匠だけでしょ。わたしは日々仲居として忙しく動き回ってるんだから。でもサイクリング楽しそう!行ってみたい」


                 ◇


 そんなわけで次の非番の日、僕と彼女はフェリーに乗って島に渡った。片道10分ほどの短い船旅だったが、今まで船に乗ったことがないという彼女は子供のようにはしゃいでいた。


 島は小さいながら起伏に富んでおり、序盤の上り坂で僕はすでに息を切らしていた。


「ほらほら、アニメばっかり見る生活してると現実が疎かになりますよ、師匠!」


 前方を軽々と走る彼女が振り返って悪戯っぽく笑う。僕が悔しそうな顔をしてみせると、また楽しそうに笑った。


 坂を上りきると、あとは海沿いの周回道路に向けて一気に下り坂となる。空から海に飛び込んでいくようなダウンヒルに、彼女は歓声を上げた。


「こんなに楽しいの、いつぶりだろ!天国にいるみたい」


「天国行っちゃだめだろ。現世に集中しろ現世」


 海沿いの道路脇で、僕たちは休憩をとった。用意の良い彼女は持参したおにぎりを頬張っている。


「半分いる?」


「昼持ってくるの忘れたからありがたく頂くわ」


「そういえば師匠、いま付き合ってる人とかいるの?」


 唐突に放たれたジャブに、僕は貰ったばかりのおにぎりを落としそうになる。


「と、特にいないけど。残念ながら」


「ふぅん。わたしも大学入ってから特にご縁ないんだよね。お互い寂しいのう」


 誰の真似をしているか分からない彼女は、笑っているようで笑っていない、不思議な表情でこちらを見ていた。そのまま5秒ほど無言の時間が続いたのち、彼女は「まぁいいけど」と言ってお茶を飲んだ。


「そうだ、今度旅館に遊びに来てよ!女将にも紹介してあげられるかも」


「お、それはありがたい。俺はいつでも大丈夫だから、予定決まったら声掛けてくれ」


 彼女との初めての外デートは、こうして過ぎていった。

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