第2話 はじまりと挫折
中学に入学したその日、僕は彼女に一目惚れした。
窓際の席で片肘をつき、物憂げな顔で窓外を見やる美少女に、僕はノックアウトされた。春の柔らかい陽光に照らされた彼女の横顔を、今でもはっきりと思い浮かべられる。
席の遠い彼女とはしばらく話すきっかけがなかった。しかし、ある土曜日に駅前の書店をぶらついていると、熱心な顔で何やら分厚い本を立ち読みする彼女を見かけた。僕は勇気を振り絞って話しかけてみた。
「あの、君…同じクラスの…」
彼女は本から目を上げ、鋭い視線をこちらに投げた。僕はすっかり怖気づいてしまった。
「ほ、本読んでるとこ邪魔してごめんね」
「…いいよ、別に。ここにはよく来るの?」
「たまに来るよ。ほとんど漫画買うためだけど。…何を読んでるの?」
彼女は無言で、本をひっくり返して表紙を僕に見せた。「フランスの現代建築100選」というタイトルの下に、何やら読めない外国語が書いてあった。翻訳された建築学の洋書らしい。
「すごいね、俺こんな難しい本読めないよ」
「建築家になりたいの。狭き門だから、今のうちから勉強しておかないと」
「へぇ!たしか成績も良さそうだったし、本当になれそうだね」
そのまま、僕らは本棚の前で話をした。彼女は父親の仕事で幼少期を海外で過ごし、現代建築の魅力に目覚めたのだという。僕はといえば、好きな連載漫画の話や最近あったクラスの出来事について取り留めもなく喋ったが、好きな女の子と一対一で話している状況にすっかり舞い上がってしまい、話の内容は二の次だった。
「そういえば、駅前通りに新しくできたカフェ、ラテアートがすっごくお洒落だってママが言ってた」
「そうなんだ。…もし良ければだけど、これから一緒に行ってみようか」
女の子をお茶に誘うのにこれほど心臓が高鳴ったことは、以来無い。口の中が乾いて、言葉を発するのがやっとだった。
彼女は一瞬驚きを浮かべた後、上目遣いに僕を見ながらにやりと笑った。
「いいよ。行こうか」
◇
その日から、僕と彼女は定期的に駅前通りのカフェに集い、四方山話に明け暮れるようになった。大抵は僕が金曜日に彼女を誘い、彼女の都合がつけば休日の半分をカフェで過ごすという流れだ。同級生のこと、先生のこと、勉強や部活、進路のこと…。話題は無尽蔵にあった。彼女の意外な特技、物真似を見出したのもここだ。怜悧な外見とは裏腹に、彼女の物真似はコミカルで純粋に面白く、僕はいつも大声で笑っては店員に睨まれたりした。
帰国子女だからなのか、彼女は日本のアニメに疎く、ギブリすら観たことがないと言った。
「それは勿体ないって!ギブリ作品はお洒落建築の宝庫だよ。たとえば…」
彼女の気を引こうと、ギブリ作品に登場するいい感じの建物を知る限り列挙すると、彼女は感心した表情で僕の話を聞いていた。
「こんなにスラスラ出てくるなんてすごい!他にもアニメのこと色々教えてよ。あと師匠って呼んでいい?」
翌週のカフェ会までに持ち前の集中力で主要なギブリ映画を一気見し、興奮気味に感想を述べ立てる彼女に、僕はヒスイと勝手に渾名を付けた。彼女は素直に、自分の新しい呼び名を気に入っていた。こうして彼女は「ヒスイ」に、僕は「師匠」になった。
◇
転機が訪れたのは、高校受験を控えた3年生の夏だった。僕は優秀な彼女と同じ高校を目指し、日夜勉強に勤しんでいた。
「あのね、わたし彼氏ができたの」
カフェでの定例会で唐突に告げられた時、僕は文字通り心臓が止まりそうになった。
「えっ…全然気がつかなかった…お、おめでとう」
狼狽する心を悟られまいと必死に笑顔を作ろうとしたが、顔が引きつっただけだった。
「同じ塾の人で、いつも勉強教えてもらったりしてて、先月告白されたの。志望校も一緒。師匠に伝えるの、遅くなってごめんね…」
失恋、という言葉は知っていたが、世界が崩れ去る感覚に抗う術はなかった。その後はほとんど話さないまま別れ、僕はそれから彼女をカフェに誘うのをやめた。
◇
抜け殻のようになりながらも勉強だけは淡々と続け、僕は何とか彼女と同じ高校に入ることができた。ただ、高校での彼女との関係は、中学時代に比べれば遥かに疎遠なものだった。
僕は運動部に入り、胸の痛みを紛らわすように厳しい練習に日々明け暮れた。たまに廊下ですれ違って挨拶する程度となった彼女は相変わらず成績優秀で、世界的に評価の高い建築学科があるという、関西の国立大学を志望しているとの噂だった。
◇
彼女から久々に連絡があったのは、大学の合格発表の翌日だった。僕は彼女とは異なる、関東の大学に進むことにしていた。
「久しぶりに、あのカフェで話せないかな」
そっけないメッセージの文面からは、彼女の思惑は分からなかったが、僕は未練を断ち切るためにも、彼女に今一度会うことにした。
定刻にカフェに着くと、涙を浮かべた彼女が待っていた。
「わたし…振られちゃった」
何も言えずにただ彼女を見つめていると、彼女はたどたどしく事の経緯を語り始めた。彼女が付き合っていた相手は東京の国立大学に合格したのだが、遠距離恋愛を続けることはできないと、別れを切り出されたのだという。
「師匠…ごめんね…最後まで愚痴に付き合わせちゃって」
さめざめと涙を流す彼女の肩を抱いて、優しい言葉の一つもかけてやれたかもしれない。ヒスイは悪くない、自分の心のままに生きればいいと、励ましてやれたかもしれない。
ただ、僕は結局、彼女に何も言うことができなかった。中学3年の失恋以来、自分は彼女に見合わない人間だという卑下が、深く心の奥底に根を下ろしていた。
帰り際、彼女は潤んだ目で僕を見つめ、僕の手を握って最後の言葉をかけた。
「しばらくお別れだね。またいつか、昔みたいに話せるといいね」
僕はあいまいな笑顔を浮かべ、「そうだね」と答えた。
これが、彼女との最後の別れになるはずだった。
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