28.シャバの「普通」は難しい(3)

 普通とはなんだろう、というのは、エルマのここ最近の疑問だった。


 みんなと同じことが普通。

 あるいは、平均であることが普通。


 けれどだとすれば、普通というのはつかみどころのない雲のような存在だ。

 だって、エルマは彼女の「家族」と同じこと、監獄内では当然だったことをしているだけなのに、シャバの人たちには驚かれてばかりなのだから。


 かつてはエルマだって、あまりに厳しい鍛錬に、「本当にこれは普通なの?」と「家族」に尋ねたものだった。

 しかし彼らが実に堂々と、「これくらいできなくてどうする」と返すので、てっきりそれが正しいのだろうと信じていたのだが。


 【怠惰】の父モーガンからは、人の表情を読むことと、おいしい紅茶の淹れ方を教わった。

 【暴食】の父イザークからは、調理と狩りを教わった。

 【貪欲】の兄ホルストからは人体の神秘を、【嫉妬】の姉――本人は母と主張しているけれど――リーゼルからは女性としての嗜みを。


 エルマが一番大好きな父、ギルベルトからは、実はなにか特別な技術を受け継いだわけではない。

 ただし彼は、いつも穏やかにエルマのことを見守り、微笑みを向け、頭を撫でて褒めてくれた。

 たぶん彼からは、「父親」というものを一番多く教わった。

 だからエルマはギルベルトのことを、ただ「お父様」とだけ呼ぶ。


 そして、彼女がただ「お母様」とだけ呼ぶ、エルマの生みの母――ハイデマリー。


 あの美貌の女性が、いったいなにを考えているのかというのは、実はエルマにもよくわかっていない。

 微表情を読み取ってさえも、だ。


 彼女はエルマが「家族」からの教えを器用にこなすと、ひどく複雑な顔をする。

 それは、驚いたような、不安がるような、いや、ほっとするような、面白がるような。


 けれど、気まぐれで冷酷にも見える彼女が、本当は驚くほど愛情深いことをエルマは肌で理解しているので、彼女が言うことを、できるならば守りたいと思っていた。


 ――「普通の女の子」がどういうものか、世界を見ていらっしゃい。

   それがわかるまでは、おうちに帰ってきちゃだめよ。


 監獄からの「解放」を言い渡されたとき、ハイデマリーはエルマにそう告げた。

 そしてエルマは、そんなの簡単なことだ、と思った。思っていた。


 が、蓋を開けてみれば、それは予想をはるかに上回り困難なことだった。


 勤務初日だからと、少々張り切って紅茶を淹れれば驚かれた。

 あまり凝った料理を作りすぎないようにと、あえてラフな料理を振舞ってみせたら――しかも勝ちは相手に譲ったのに!――その調理法に慄かれた。

 なにごとも一人でやっては驚かれるからと、聖医導師に仕上げをお願いしつつ「手当て」をしたら、それでもやっぱりショックを与えてしまったらしい。


 この辺りでいよいよ自分の非常識さを猛省し、常識人と評判のディルクから教本を借りなおしまでしたのに、「王道」通りライバルに勝負を挑んだら、ルーカス王子から「それ以上人を追い詰めるな」といった具合にたしなめられた。

 彼から叱られたのは二回目だった。


 あげく、舞踏会で踊るだけならまだしも、流れで陰謀まで明らかにしてしまった。

 自分なりの正義感に基づいて告発したわけだし、後悔はしていないが――これまでに読んできた百冊近い「教本」のどれにも、出会って三秒で犯人を言い当てる主人公は出てこなかった。

 やはり、自分は、「普通の女の子」の能力が著しく欠如した人間なのだろう。


(普通というのは、なんて難しい……)


 舌に苦味を感じるかのようだった。

 何度やっても、うまくいかない。

 努力したり、自分なりに考えれば考えるほど空回りする。

 外見上は平然を装っていたが、本当は周囲からドン引きされるたびに、顔から火が出る思いだった。

 穴を掘って埋まりたかった。


 人生で初めて味わう挫折だった。


「お願いでございます。私を、監獄送りにしてくださいませ」


 お縄頂戴、のポーズで神妙に両手を差し出す。

 もうおうちに帰ろう、と思った。


(申し訳ありません、お母様……)


 本当なら、普通の女の子というものを理解して、大手を振って監獄に帰りたかったが、自分が上げるのは錦ではなく白旗だ。


 だが――それでも監獄では、「あの人」が自分を待ってくれている。

 負け犬でも、きっと温かく受け入れてくれるあの人が。


 だから、自分は帰らなくてはならない。

 普通になんてなれないと痛感した自分は、母の命令さえ無視して、どんな手を使ってでも――。


 エルマの脳裏に、彼女のものでない言葉が混ざりだす。

 しかし、それに気付くこともなく手を差し出しつづけていると、


「……ええと」


 フェリクスが、微妙な表情で口を開いた。


「ちょっと、君の主張を確認させてもらうけど」

「はい」

「獄内で娼婦から生まれたって――ああ、そう。うん。たしか十五年くらい前に監獄送りになった傾国の娼婦がいたよね。ってことは、君の主張のうち経歴の部分は事実だとして……わあお、ってことは君、かのヴァルツァー監獄で育ったってこと? まじ?」

「まじです。先ほどからそう申しております」


 エルマが真顔で頷くと、フェリクスは興味深げな表情でとんとんと顎を叩いた。


「一度君の経歴を浚ったときは、侍女長の遠縁の娘ってことになってたけど――ははあ、なるほどねえ。ああそうか、さてはルーカスのやつ……ふうん。僕の情報網にも気取らせないで保護するなんて、やるじゃない」


 ぶつぶつ呟きながら、すさまじい勢いで情報を照合しているようである。

 視線を宙の一点に固定して素早く思考を巡らせる姿は、【貪欲】のホルストにも通ずるものがある。

 おそらく彼と同様、ものすごく情報処理能力が高いのだろうと、エルマは内心でそんなことを思った。


「――で」


 だが彼は、顎に当てていた手をほどくと、それを困惑したようにひらりと翻した。


「君が監獄育ちだっていうところまでは信じるとして、以降の主張がさっぱり理解できないんだけど――」


 フェリクスとエルマが、クレメンスをそっちのけにして会話を進めようとしたとき、それは起こった。


「なにがあった!」


 鋭い声とともに、扉が蹴破られたのである。


 長い足で勢いよく蝶番ごと扉を弾き飛ばしたのは、騎士服をまとった精悍な青年。

 小姓のマルクを伴ったルーカスであった。


 剣を構えていた騎士兼第二王子は、部屋に佇む異母兄と侍女を見るなり軽く目を見開き、それから眉を寄せた。

 アテレコするなら、「うわ……」みたいな、げんなりとした顔だった。


「乱暴だなぁ、ルーカス。ノックもなしに急に扉を開けられては、びっくりしてしまうよ」

「ですが蝶番を弾き飛ばしているぶん、扉にはさほど傷は付いていないようです。これなら修理も容易ですね。さすがです」

「……義兄上に、エルマ。念のため常識として突っ込ませてもらうが……王族殺害を目論んだ容疑者の居室で、見張りまで気絶させて、いったいなにを?」


 ろくでもない予感しかしないけど、といった様子で、ルーカスが低く問う。

 対するフェリクスの答えはあっけらかんとしていた。


「いやまあ。即位式前に迅速に査問が済むよう、彼の心を折りがてら洗脳しておこうと思って」


 いけしゃあしゃあとした洗脳宣言にルーカスは半眼になり、「またそんな、あくどい手段を……」と静かな非難を漏らした。


「あれ? 君、意外に冷静だね。もっとこう、『まさか愚鈍と噂のこの義兄が!?』みたいな反応を期待しなくもなかったんだけど」

「……第三・第四王子たちや悪意ある家臣など、あなたと利益が対立する人間に限って、実に自然に『退場』していったのを見て、もしやと思っていたので」

「あれま。やっぱり」


 フェリクスも、ある程度は本性を見抜かれているものと理解していたらしい。


「それに義兄上からは、いつも妙に胸が悪くなるような、甘ったるい――暗示の香の類ですかね?――そんな匂いがしましたので」

「言うねえ。君だって甘ったるい女の香水ばかりまとわりつかせていたくせに」

ルーカスが補足すると、軽く苦笑した。

「ま、そこまでわかってるなら話は早い。僕は僕なりによき治世を目指しているだけだし、君のことも無下にしないつもりだよ――僕の邪魔をしない限りはね」

「……馬具の件は」

「あれはこいつの暴走。だから僕が罰する」

「なら結構です」


 その短いやり取りで、ふたりはおおよそを分かりあったらしい。

 肩をすくめると、続いてルーカスはエルマに向き直った。


「――で、エルマ。おまえはなにをしているんだ」

「はい。今回のルーカス王子殿下暗殺未遂事件の黒幕は私であるということを、侯爵閣下に申し出て、『ご理解いただこうと』しておりました」

「……なんだと?」

「そういうことにして、監獄送りにしてほしいんだってさ。被告と証人を洗脳しちゃえば、弁護人なんていないし、どうとでもできると思ったみたい。自称、母親を投獄された復讐として、国を混乱させようとした犯人なんだって」


 エルマの主張をフェリクスが要約して伝えると、ルーカスはちょっと眉を寄せて、それからちらりとクレメンスに一瞥をくれた。


「……なるほど。それで、義兄上とエルマがふたりして、相反する内容の暗示を彼にかけた結果、こうなったと」


 侯爵は先ほどから会話を遮ることもなく、なにをしていたかといえば――


「よーし皆の者、見ておれ、長縄はな……、鋭角……鋭角から勢いよく踏み込むのだ……サイドスイングのクレメンスと呼ばれた私に……不可能はない……」


 精神と時の間に籠って、ぶつぶつと内なる誰かと対話していた。

 どうやら、強力な暗示を続けざまに掛けられて、頭のねじが多少緩んでしまったらしい。

 ときどき「ふふっ」と笑ったりして、少々不気味だ。


 ルーカスは溜息をつくと、控えていたマルクに何ごとかを言い含め、部屋から追い払った。人払いのようだ。


 ついで、彼はエルマを正面から見つめた。


「エルマ」

「はい」

「おまえ洗脳までできるのか、などという愚問は、もはや口にする気もない。おまえが騎士の精鋭を昏倒させる技量を持っていても、突如として被告人の部屋に出没しても、一国の王子の本性をしれっと見抜いていても、まあエルマだしなと思うだけだ」

「…………はい」


 副音声に込められた、「もはやおまえに常識とか普通とかは期待しない」といった趣旨に、エルマは無表情の下で、少々がっくりした。

 やはり自分には「普通」などというのは過ぎた目標だったのか。

 内心で忸怩たる思いを噛み締めていると、ルーカスは真剣な表情で続けた。


「ただ、ふたつだけ聞かせてほしい」

「はい」

「ひとつ。おまえにとって……監獄からの解放は、迷惑だったか? こちらの世界は、厭わしいだけだったか」


 その問いに、エルマはふと顔を上げ、まじまじと相手のことを見つめた。

 わずかに持ち上がった左の口角に、下がった視線。

 詐欺師にして【怠惰】の父・モーガンからの教えによれば、それは――罪悪感を示す微表情だ。


「――……いえ」


 少し考えてから、エルマは首を横に振った。


 たしかに、ヴァルツァー監獄は快適だった。

 愛情深い家族と贅を凝らした便利な環境。

 まるで胎児を包み込む羊水のように、どこまでも優しく温かい空間だった。


 できればそこから出たくないと思ったし、王城に上がってからしばらくは、しきりと帰りたいと思っていたのも事実だが――


(でも、こちらの生活も楽しかった)


 はじめて同年代の友人ができた。

 「家族」以外に自分を指導してくれる人に出会った。

 自分は失敗・・してばかりだったし、はじめての挫折は苦々しいものだったけれど、「普通」を模索して挑戦する日々には張り合いがあった。と思う。


 そこまで考えて、ふと胸に違和感がきざすのを覚える。


 ――ではなぜ、自分はこうもしゃかりきになって、監獄に帰ろうとしているのだろうか。


(それは……「普通になんてなれない」と痛感したからで)


 そうだ。

 「普通になれないことがわかったら」、自分は「母の命令を無視して」「どんな手段を使ってでも」監獄に戻らなくてはならないのだ。


 エルマは無意識に額に手を押し当てて、自分に言い聞かせた。


「ただ……そう。私は帰らなくてはならないのです。『普通』になんてなれなかったから。私には『普通の女の子』の才能が欠如していると、わかったから」


 しっぽを巻いて家に帰るのだ。

 そうして優しい【嫉妬】の姉にして母・リーゼルに、よしよしと慰めてもらう。


 エルマはなんだか、ものすごく情けなくてみじめな気持ちになってきた。


「……しょせん私は落伍者です……。皆さまと同じようにすることができない、まさに外れ者……。努力を重ねても、いっこうに『普通』が理解できない。どころか遠ざかっていくばかり。紅茶を淹れても料理をしても、手当てをしても踊っても、人々にドン引きと冷や汗をもたらす、痛い女です……」

「――ちょっと待て」


 額にやっていた手を滑らせ、どんよりとした表情で頬に手のひらを押し当てていると、ルーカスが真顔で制止してきた。


「おまえ、どういうことだ? 微表情まで読めるくせに、なぜそういう解釈になるんだ!?」

「ああ、それは呆れの微表情……私、またなにかやらかしましたでしょうか」

「文脈で理解しろ、馬鹿めが!」


 ルーカスは一喝したが、エルマが表情を敏感に読み取れてしまうがゆえに、かえって真意まで解釈しようとしない性質であることを理解した。

 同時に、真意を読み取らせない眼鏡の下で、彼女がそんなにも懊悩していたのだということも。


「馬鹿……初めて言われました……」


 眼鏡を外し、素顔をさらしたエルマは、いつもよりずいぶんと感情豊かに見える。

 悄然と項垂れた肩は小さく、伏せられたまぶたは哀しげだ。

 抑揚のない声と眼鏡のために、いつも超然とした雰囲気をまとっていた彼女だが、その内側では、いつもこのように、感情を揺らがせていたのだろう――それこそ、年相応の少女のように。


 俯いてしまったエルマに、無意識に手を差し伸べながら、ルーカスは気づけば告げていた。


「……なんだ。おまえも、そういうところは可愛らしいではないか」

「――……え?」

「自己認識はさておき、『自分は至らない』だとか『ままならない』だとか思い悩む様は、いたって真っ当で普通の娘のように見えるが」


 なんとなく顎をすくい、顔を上げさせたら、その夜明け色が大きく見開かれた。


「……本当ですか……?」


 瑠璃色のようだった瞳に、ほんのわずかに朱が混じり、宝石のような紫がかった色になる。

 目は潤み、頬は上気し、淡く色づいた唇をほんの少しだけ開いた様子は、数多の美女を見てきたルーカスにも、実に可憐に映った。


「ああ。今のおまえは、……可愛げがある」


 好ましい、と素直に言うのは少し癪で、そんな風に告げてみせたら、エルマはとろけるような笑みを浮かべた。


「――……! 殿下……!」


 傍から見れば、この一連のやりとりは、口説く男とそれを喜ぶ娘の図だ。


 行儀よく沈黙を守っていたフェリクスは、興味深そうにやりとりを見守っていたが、珍しくふたりの間に発生しかけた甘やかなる空気を、しかしエルマは次の一言で粉砕してみせた。


「ならば私は、大手を振って監獄に帰れますね!」

「――……なんだと?」


 ルーカスは愕然とするが、エルマは気にしない。彼女は心底、これまで自分に「異常」の烙印を押してきた男から、見事「普通」のお墨付きを得てみせたことに歓喜していた。


「ああ、よかった。とても嬉しいです。これほどの達成感を噛み締めたのは、ドラゴンを素手で倒して以来です」


 気分が凄まじい勢いで浮上していく。

 先ほどまで頭を占拠していた霧のようなもの思いが一気に晴れ、いじけた気持ちや、一刻も早く逃げ帰らねばという強迫観念が溶け消えていた。


「おい、なんだと? ドラゴン……?」

「それでは私、無事に約束も叶えられそうですので、監獄に帰りますね。どうせ侯爵閣下もほどよい具合に壊れてしまっていらっしゃいますし、もう筋書きとしてはこのまま、真犯人の私が監獄送りになる、ということで」

「おい待て」


 心が弾む。

 早く逃げ帰らねば、という切羽詰まった思いは消えていたが、代わりに、いそいそ帰って「家族」に自慢したい気持ちで満ち溢れていた。


 シャバの暮らしは思ったより楽しかった。

 新しい出会いも、張り合いのある生活も愛おしかった。

 だが――やはり、実家の居心地のよさにはかなわない。


 自覚こそなかったが、エルマは根っからの引きこもり気質だった。


 リーゼルの暗示は、かなり強力にエルマの帰還を促していたが、たとえ暗示がなくとも、エルマは監獄に帰る気満々だったのである。


 フェリクスもまた、にやにやとしながら、厭味ったらしく告げる。


「ねえ、ルーカス。君の女性を引き留める力なんていうのも、大したことないね?」

「…………」


 ルーカスは無言で青筋を浮かべたが、そこで、事態は急展開を迎えた。


 ――ばたばたばたばたっ!


「エルマ!」


 騒々しい足音を響かせて、イレーネが飛び込んできたのである。

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