27.シャバの「普通」は難しい(2)

「沈黙は肯定とみなすわよ」


 豪奢な、けれど薄暗い部屋に、リーゼルの這うような声が響く。

 答えがないのを確認すると、彼は掴んでいたハイデマリーの頤をぱっと放し、忌々しげに舌打ちした。


「……あたり、ってわけ。見損なったわよ、ハイデマリー」


 娼婦の肌に触れていた手を、汚らわしいとでもいうように服に擦りつける。

 化粧を施したアーモンド形の瞳には、いまや溢れんばかりの軽蔑の色が浮かんでいた。


「昔、監獄ここを乗っ取ったとき、あんたは『お腹の子どもに快適な環境をつくるため』って言ってたじゃない。あたし、感心したのよ。大した女だと思ったわ、だから協力したの。なのに、なんなの。エルマはしょせん、あんたにとっては駒でしかなかったってわけ?」


 ――がっ!


 背もたれの後ろから、勢いよくソファを蹴り上げる。

 細身でありながら、彼のひと蹴りで重厚なソファは大きく揺れた。


「ざっけんじゃないわよ。あんたにエルマの母親たる資格なんてないわ。よくって? エルマの母親の座はあたしがもらう。あの子はこの家に帰ってきて、あたしたちと幸せに暮らすの。そして、あんたには出て行ってもらうわ」

「……エルマは帰ってこないわ――」

「いいえ、帰ってくる」


 ようやく口を開いたハイデマリーを、リーゼルは素早く遮ってみせた。

 そうして、再び背もたれに手を突き、背後からハイデマリーに頬を寄せた。


「あんた、あの子に『普通の女の子がどういうものかわかるまで、帰ってきちゃだめ』なんて言ったらしいわね? ひどい話よ――あたしたちに育てられたあの子が、普通になんてなれるわけないのに。……でも、大丈夫。あたしが、ちゃあんとフォローしといたから」

「……なんですって?」


 ハイデマリーがぱっと振り返る。

 人形のようだった白皙の美貌に、とうとう険しい表情が浮かんだのを見て、リーゼルはせせら笑った。


「『言い聞かせて』おいたのよ。『普通になんかなれなそうだと思ったら』『マリーの命令なんて無視して』『どんな手を使ってでも』おうちに帰ってらっしゃい、ってね」


 刷り込み――暗示をかけておいたということだ。

 ハイデマリーがその猫のような瞳に、はっきりと苛立ちを浮かべたのを認めて、リーゼルはますます笑みを深めた。


「愛しい我が子を突き放すなんて母親の所業じゃないわ。世間に馴染めない子どもすらも、温かく迎え入れる、そういう場所を作ってあげるのが母親の――ってうおぉあああ!」


 が、その文尾はどすの利いた雄たけびに焼かれた。


「痛ぁああああ! あんたっ、なに、すんのよ!」

「香水を吹きかけただけでしょ。目に」

「どっから出てきたその香水!」

「谷間よ」


 しれっと答えてから、ハイデマリーは気だるげに肩をすくめた。


「ブランデーだったら失明していたかもしれなくってよ。軽いアルコールしか含まない香水で、残念、もとい、幸運だったわね」

「至極無念そうに言ってんじゃないわよおおお!」


 目を押さえながらリーゼルが絶叫すると、それを聞きつけたのか、居室のドアが開いた。


「どうした? 討ち入りか?」


 席を外していた、ギルベルトである。


「いいえ。ただのご乱心よ」


 ハイデマリーはひらりと片手を上げて答え、それから、少し拗ねたように付け加えた。


「【嫉妬】ったら、わたくしの母性と賭けの行方を、思い切り否定してくるものだから」

「それは」


 精悍さを含んだ理知的な顔に、面白がるような色が浮かぶ。

 ギルベルトは整った唇の片方だけを持ち上げると、わずかに首を傾げてみせた。


「無謀だな」

「なによ……」


 ようやく目の痛みが落ち着いてきたリーゼルは、充血した瞳をハンカチで押さえながら、ぎらりとふたりを睨みつけた。


「この女に十分な母性が備わっているとでも? 賭けってなんのことよ」

「エルマがすごすご帰ってきてしまうかどうかの賭けよ。ちなみにわたくしは、『帰ってこない』にすべてを賭けてる。あの子を信じているから」

「はあ?」


 怪訝な様子を隠しもしないリーゼルに、ハイデマリーは小さく微笑んだ。


「そして、わたくしはこれまでどんな賭けにだって、負けたことはないわ」

「――その賭けに関連してだが」


 とそこに、ギルベルトが切り出す。

 彼はそのたくましい手の片方に、一枚の便箋を持っていた。


「我らが看守殿のもとに届いた手紙によれば、近々、この監獄いえに新入りが来るそうだ。罪状は、王族の殺害未遂」

「あら。久々じゃない」

「――それで?」


 リーゼルが目を瞬かせるのをよそに、ハイデマリーは静かに問う。

 彼女は膝の上で両手を組み、じっとテーブルの上のチェス盤を見つめていた。


「いったい、誰が・・来るのかしら」

「ああ、それが――」


 ギルベルトはちらりと彼女に一瞥を向け、それからおもむろに口を開いた。

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