26.シャバの「普通」は難しい(1)

 擦り切れた絨毯に、粗末なソファ。

 シャンデリアはもちろん、燭台すらなく、あるのは天井近くの小窓から差し込む月光だけ。


 そんな貧相で薄暗い一室で、クレメンスはもう何度目になるかわからない溜息を漏らした。


「――……なぜだ……」


 口からは、溜息とともに唸り声が漏れる。

 こちらも何度反芻したかわからない、憤りにまみれた言葉を、クレメンスは飽かず呟き続けた。


「なぜだ……なぜ……」


 王城の一室である。

 しかし、司祭にして宰相でもある侯爵にはまったく似つかわしくなく、尖塔の一つにしつらえられたその部屋は、ひどく居心地が悪かった。


 もっとも、有罪との判決が下りる前までの軟禁部屋と考えれば、妥当な環境なのだろう。

 しかし、クレメンスは、「自分が」そこに囚われているという事実が受け入れられなかった。


 舞踏会の場で、エルマという名の侍女が自分を告発してから、わずか数刻。


 クレメンスは衛兵に取り押さえられ、身体をくまなく調べられ、王自らの査問に臨むとの誓書にサインさせられ、この部屋に放り込まれた。

 まさしく、あっという間の出来事だった。


「なぜ……」


 自分の理解をはるかに超える事態に直面し、ただ呆然としていたクレメンスだが、ひとりソファに腰を下ろしつづけて、今になってようやく思考能力が戻ってきた。

 とたんに溢れだしたのは、ただひたすら「なぜ」という言葉から始まる大量の疑問だった。


 なぜ、エルマは自分が黒幕だと見破った。

 なぜ、周囲はあっさりとそれを信じた。

 なぜ、こんなにもスムーズに一連の手続きがなされているのだ。


(いや……)


 あの侍女がクレメンスの殺意にたどり着いたのは、下手人の男に手を掛けようとする自分を見とがめたからだ。

 そして周囲があっさり彼女の告発を信じたのは、取り押さえられたクレメンスから、様々な物証が出てきたからだった。


 たとえば、毒針付きの指輪。

 それと同一の成分を塗りつけた、下男の靴底に仕込んだのと同じ針。

 下男を脅すのに使った手紙。


 それに加え、畳みかけるように周囲が次々と証言しだしたのだ。


 たとえば、侯爵はたびたび使用人を脅していたようであるとか、第一王子の部屋から馬蹄を持ち出していたようであるとか。

 自分はかつて侍女長のブローチを盗むように命じられたことがあるとか、異国の音楽家と二人きりで打ち合わせをしていたようであるとか。


 ひとつひとつは些細な噂。

 けれど、それらが組み合わさった時、人々はそこに不動の「真実」を見出す。

 身分の上下を問わない王城中の人物が集まる中、証言者が一斉に証言を始めれば、事態は一気に動き出す――。


 これはもともと、「フェリクス黒幕説」を既成事実化するために、クレメンスが描いていたはずの筋書きであった。

 けれど蓋を開けてみれば、その筋書きによって、今まさに自分の首が締められようとしている。


「なぜだ……」


 もっとも解せないのは、進展のあまりのスムーズさだった。


 一国の宰相が、王となる第一王子を騙って、第二王子を弑そうとしたのだ。

 それも即位式の前夜に。

 だというのに、それが発覚したという割には、周囲は実に混乱なく、手際よく、クレメンスを捕縛し裁くための手はずを整えていった。


(まるで……誰かがあらかじめ仕組んでいたみたいに……)


 おかしいではないか。

 今この国の頂点には、自分がいなければなにもできない凡愚王子しかいないのに。


 フェリクス。

 頭が悪くて、人を苛立たせて、現実的な段取りがなにひとつできぬ浅慮な王子。


 だが、そう。

 あの侍女がこちらを指さしてから、彼は即座にクレメンスの捕縛を命じた。

 戸惑いも、ためらいもなく、実に淡々と――。


「やあ、クレメンス。気分はどう?」


 そのとき、なんの前触れもなく声が掛かって、クレメンスはびくっと肩を揺らした。

 月が落とす青い影のもと佇んでいたのは、彼が今まさに思い描いた人物――フェリクスだった。


 だが、いつもとなにかが違う。

 奇妙な胸騒ぎを覚えながら目を凝らし、クレメンスは気付いた。


 背筋が、ぴんと伸びている。


「もうすぐ夜が明けるよ。即位式は十時から。でも、僕の新しい時代が始まる前に、古い汚れはすべて落としておきたいからね。君の査問は、その前にねじ込むことにしたよ。つまり、夜明けとともに開始だ」


 フェリクスが滑らかに話すのを聞いて、クレメンスは愕然とした。


 そう、滑らか。

 彼の口調には、滑舌の甘いところなどまったくない。


 一歩一歩近づいてくるその顔は引き締まり、目にはまぎれもない知性が覗いていた。


「あんまり大勢を叩き起こすのも忍びないから、査問はごくごく内輪で執り行うつもり。民をいたずらに混乱させたくもないしね。こういう優しさって、上に立つ者にとって重要だと思わない?」


 そして、ぞっとするほどの残酷さも。


「――……あ……」


 口からぽろりと、呟きが漏れる。

 だが、なにを言いたかったのか、自分自身でもわからなかった。


 ソファから腰を浮かせたまま、呆然と相手を見つめるクレメンスに、フェリクスはにこりと笑いかけた。


「どうしたの? びっくりしちゃった?」

「…………」

「そうだね。君は、僕を凡愚王子に仕立て上げてくれた、立役者のような人だったから」


 彼はまるで、優美な猫のように歩く。

 そうしてクレメンスの目の前までやってくると、とん、と指先でこちらの胸先を押した。


 それだけで、クレメンスはたちまち足が溶けてしまったかのような感覚を抱き、どさりと力なくソファに崩れ落ちた。


「そうだな。君は突発的な事態に弱いようだから、これまでの恩に報いて、経緯と今後君を待ち受ける状況を説明しておこうか?」


 王子からは、相変わらず甘ったるい花のような、奇妙な香りが漂っている。

 それを吸い込んだ瞬間、クレメンスは頭の片隅が鈍く痺れたような気がした。


「どこから話そう。……そうだなあ、君が父王を駒にして、いろいろ権力の蜜を堪能していたこと、僕は知っていたよ。王の子どもたちを見比べて、僕が一番御しやすそうと踏んで、後見を決めたことも。第三、第四王子を手際よく国外に追い出していったことも」


 フェリクスは穏やかに話すが、その内容はほとんど頭に入ってこない。

 クレメンスは、ただ馬鹿のように硬直して、彼を見上げていた。


「でもそれらはね、僕としては問題なかった。のんべんだらりと過ごしていれば、自動的に君が僕を押し上げてくれるんだもの。文句なんてないよね。ただ、頂点まで上ってしまえば、もう君の働きはいらなくなる。それに君……僕の馬具を使って、ルーカスを殺そうとしたよね。それはちょっと、やりすぎだった」

「……ルーカス、王子殿下……」

「そう。あの男をね、僕はなかなか買ってるんだ。彼は――野生の勘みたいなものかなあ、ずいぶん昔から、僕の本性に気付いてるみたいなんだよね。ああいう男は、女か親かを使って縛り付けてでも、ぜひ子飼いにして手元に置いておきたい。それを、君ごときが手出ししちゃ、だめだよ」


 話を聞きながら、クレメンスはぼんやりと、いつからこの王子の性質を見誤っていたのだろうと考えていた。


 先王のときには、クレメンスは「カウンセリング」の名のもと、少しずつ聖力を流し込み、彼を洗脳していった。

 フェリクスに対しても、同様に接していたはずだ。


 ――いや、違う。彼と話すと、苛立ちばかりが募って、先にこちらの嫌気がさしてしまうのが常だった。


(そうだ……王子と話すと、いつも心が乱れて……いっそ、王子を弑してしまおうと……はやく……はやく、と)


 思えば、どうして自分は感情を優先して、王族殺害などという大胆な方策を選んでしまったのだろう。

 失敗があってもろくに作戦を練り直すことすらせず、拙速にことを運ぼうとしたのだろう。

 即位式の場で、音楽家を利用して、ワインと毒針を使っての殺害。

 そのときは確かに素晴らしい計画だと思ったのに、今となっては、なぜそんなまどろっこしくて工数の多い方法を取ったのか、わからない。


 だが、……そう。

 自分が「こうせねば」と決め込んだのは、きまって、フェリクスと会話を交わした直後だった気がする。


 ゆら、と視線を上げると、フェリクスは優しく目を細め、頷いた。

 ただ、それだけだった。


「さて。君への査問だけれどね、君がかつて都合の悪い人間を監獄に放り込んでいったときと、同じ方法を取ろうと思ってる。つまり、被告人が『自供』すれば即判決。証人は裁く側が用意し、弁護人は立候補がない限り用意しない。五分で片付きそうだね。だって君は、すぐ『自供』してくれるから」

「な、にを……」


 自分の罪状や手口がすべて明らかになっていること以上に、フェリクスから漂うえもいわれぬ迫力に、クレメンスはたじろいだ。


 身動きが取れない。

 フェリクスの腕が、その甘ったるい香水かなにかをまとわせた腕が、ゆっくりとこちらに近付いてくる。


「さあ、僕の掌をよく見て。大きく息を吸い込んでごらん。今回の顛末、仕組んだのはすべて――」

「私でございます」


 そのとき、月光しか差さなかったはずの空間に、突如として燭台を掲げ持った人物が現れて、クレメンスはぎょっと目を見開いた。


 同時に、金縛りにあっていたようだった身体が緩み、自由に動かせるようになったことに彼は気付いた。


「おまえは――!」


 慌てて視線を上げて、クレメンスは再度絶句する。

 暗がりの中、蝋燭の炎に頬を寄せて佇んでいたのは、艶やかな黒髪をまとめ上げ、メイド服に身を包んだ少女。

 舞踏会で彼を告発した、美貌の侍女だった。


「……エルマと言ったね? どうしてこの部屋に入ってきたんだい?」

「侯爵閣下に蝋燭をお持ちしました」

「動機じゃない、手段だ。扉の前には騎士団の精鋭を複数立たせていたはずだよ」

「お眠りいただきました」


 フェリクスが面白がるように声を掛ければ、エルマは淡々と返す。

 彼女は真意を窺わせない顔つきで、クレメンスに向かって蝋燭を掲げてみせた。


「灯のない部屋は心細いもの。『罪なくして捕らわれた』状況ならば、なおさらでございましょう。僭越ながら、希望の明りを届けにまいりました。さあ、閣下。この火をよくごらんください。心が落ち着くでしょう?」

「え……?」


 罪なくして捕らわれた、の言葉に、クレメンスはのろのろと顔を上げた。

 そしていつもの習性で素早く思考を巡らす。

 この娘は、自分を「無実」だと思って、助けに来たというのだろうか。


(だとしたら……こやつを利用せぬ手はない……)


 そもそも、ならばなぜこの侍女は自分のことを犯人呼ばわりなどしたのだ、というもっともな疑問が頭をかすめるが、それは蝋燭の火と同様に、ゆらりと揺らいで退いていった。

 だって現に、彼女自らが助けようとやってきてくれているのだ。


 こんなにも美しい少女が。

 その夜明けの色のような瞳に、うっとりするような慈愛と力強さをにじませて。


 深みのあるエルマの瞳、そしてその近くで揺れる炎を見つめていると、フェリクスに向き合ったとき以上に、頭がぼんやりとする感じを覚えた。


「あなたはなにも悪くない。そうでしょう? だって、あなたは栄えあるルーデンの宰相にして、敬虔な司祭。犯罪人として捕らえられるような人物ではない。大それた犯罪など、思いつくはずもありません。あなたは悪くない。あなたが今ここにいるのは、誰かに仕組まれたから。そうでしょう?」

「あ……ああ……」


 そんなはずがないとは思うが、一部一部は真実を突いている。


 そうとも、自分は悪くない。

 自分は権力者だ。司祭だ。

 捕らえられるのはおかしい。

 自分には犯罪など思いつかない――


 真実であるはずの部分を反芻しているうちに、クレメンスはだんだん訳がわからなくなってきた。


 自分には犯罪など思いつかない。

 そうであったろうか。


 眉を寄せようとしたとき、エルマにじっと瞳を覗き込まれて、クレメンスは全身の力を抜いた。


 そうか。

 そうかもしれない。

 きっとそうだ。


 頭がしびれる。

 いや、溶けてしまいそうだ――


「ちょっと」


 今度はフェリクスの声が引き金となって、クレメンスは我に返った。

 焦点の定まりにくい視線を向けると、彼はむっとした様子で両手を広げていた。


「さっきからなにをしているんだい、君は」

「洗脳ですがなにか」

「質問じゃなくて非難だよ。なに、いけしゃあしゃあと判事ぼくの前で自供内容を魔改造しようとしてるの」

「言った者勝ちで判決が下されるとお聞きしまして」


 質疑は、噛み合っているようでいて微妙に噛み合わない。

 フェリクスは呆れたように鼻を鳴らすと「なにそれ」と呟いた。


「だからって、暗示で強制的に自白を引き出すなんて、そんな外道な!」

「殿下がそれを仰いますか」


 会話は非常識人対決の様相を呈しはじめていた。


「というか、そもそも君がクレメンスを犯人だと見破ったんだろうに、いったいなんで彼をかばう展開になっているのさ。君、彼の隠し子かなにか?」

「いえ。実際のところ、私は本来かばい立てするほど閣下のことを存じ上げません。かといって被害を受けたり憎んだりしているわけでもないので、正直なところ、彼の動機や真の罪状、ついでに処刑されるかどうかについても、さほど興味はありません」

「え」


 フェリクスとエルマの間で、首を振りながら会話のラリーを追いかけていたクレメンスが顔を引き攣らせる。

 が、この場でそれに頓着してくれる人物はいなかった。


「判決は自供に基づく。証人も限られたごく内輪の査問。つまり、その幾人かの証人を抱き込んだうえで私が『自供』さえすれば、見事私は犯人ですね?」

「……まあそうなるけど」

「王族に殺意を向け、あまつその罪を一国の宰相になすりつけようとした。実行犯ではないし未遂なので処刑まではいかないけれど、これだと判決としては監獄送りですね?」

「……君は起訴すらされてないけど?」

「はい。なので『自首』して自ら起訴します」


 押しかけ女房ならぬ、押しかけ被告人に、フェリクスが怪訝そうに眉を寄せる。

 エルマはひとつ頷くと、いけしゃあしゃあと自らの罪状を告げた。


「えー、私は、実はルーデンの先王によって監獄送りにされた娼婦の娘で、実はルーデンへの恨み骨髄でした。そこで、獄内で育った間に身に着けた洗脳の技術で侯爵を操り、復讐として、実は憎んでいた第二王子を殺害し、この国を混乱の坩堝に叩き込もうとしました」


 「実は」が連発されているあたり、打ち切りにあった小説を急遽畳むために無理やり設定を付け加えたような、後付け感バリバリの自白である。


 しかしエルマは、これ以上ないほど真剣な顔で燭台を床に置くと、フェリクスに向かって、神妙に両手を突き出してみせた。


「さあ」


 そのポーズだけは、妙にしおらしい。

 しかし逆に言えば、それ以外は実に堂々としていた。


「重罪人として、速やかに私を監獄送りにしてくださいませ」


 それはまるで、実家に帰らせていただきますと三下り半を突きつける妻のような、たいそう腹の据わった様子であった。

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