25.娼婦または誘拐犯の娘

「コールは?」


 ハイデマリーが駒を動かしたとたん、向かいに座る男性がむすっとした顔で言い放った。


「え?」

王手チェックでしょ。きちんと言いなさいよ。マナーよ」


 はすっぱな女言葉・・・で告げられ、ハイデマリーは長い睫毛を瞬かせる。

 彼女は盤面を眺めてから、「あら」と首を傾げた。


「本当ね。もうチェックだったわ。やあね、こんなに早く仕留めるつもりはなかったのに」

「なによ。あたしが弱いって言いたいわけ?」


 男性がとげとげしい声で問うと、ハイデマリーは苦笑して肩をすくめた。


「どうしたの。ご機嫌斜めね、リーゼル? お化粧のノリが決まらなかった?」

「はん? 今日もあたしの玉の肌は輝かんばかりよ。いちいち神経を逆なでする女ね」


 本人の言う通り、リーゼルと呼ばれた人物は、女性のように化粧をしている。

 細く整えた眉に、滑らかな肌。

 それらは、長めに伸ばした髪や、中性的に整った相貌と相まって、不思議な自然さと、独特な美しさを帯びていた。


 年は、三十の半ばを過ぎた頃か。

 ぴったりとしたパンツにゆったりとした白いシャツを合わせていて、その装いは線の細い男性のようにも、または乗馬服をまとった快活な女性のようにも見える。


 ただ、皺のまったく見えない衣類や、品よくコーディネートされた小物、さりげないが高級なアクセサリーの類から、彼がそこらの女性よりも数段優れたセンスの持ち主であることは明らかだった。


 リーゼルは、美しく手入れされた指先で唇の下を擦ってから、不機嫌そうに頬杖を突いた。


「ああ、本当にイライラするわね。なにこの盤面。あんた、なにがしたいわけ? 引っ掻きまわすのは、取り巻きの男たちだけにしなさいよね、この性悪女」

「……ギルベルトを押しのけて、勝負を名乗り出てきたのはあなただったと思うけれど、リーゼル。あなたって、本当にわたくしのことが嫌いよね」

「あったり前でしょう。あたしはね、愛情のない母親っていう生き物がこの世で一番嫌いなんだから」


 呆れたようにハイデマリーが言うのに、リーゼルはふんと鼻を鳴らす。

 そのやりとりは、男女の会話というよりは、反りの合わない女同士のそれだった。


 リーゼル・エストマン。


 芸術の都と名高いヤーデルード出身のこの人物は、かつて王侯貴族の子女を次々と誘拐したかどで投獄された。

 ただ、誘拐した本人は「あたしが攫ったほうが幸せになれると思った」と主張し、攫われた令嬢たちも、「リーゼルお母様のお傍にいられて幸せでした」と口を揃えたのが異常ではあったが。


 リーゼルは、生まれながらにして女性の心を持つ男性であった。


 そこらの姫君以上の「女性的魅力」を身に着けつつも、自らではけっして子どもを産めないということに絶望した彼は、まるでその埋め合わせをするように、虐げられていたり、容姿に恵まれず委縮していた少女たちを見つけては連れ去り、女の英才教育を施していたのである。


 肌の手入れから、メイク、歩き方、話し方、ダンスに刺繍、はては誘惑の仕方まで。

 ときに過酷を強いる鍛錬は少女たちの精神をも作り変え、彼女たちは至高の美を手に入れるのと同時に、リーゼルへの忠誠心を刷り込まれた。

 それはさながら、雛鳥が親鳥を一心に慕う姿のようだったという。

 リーゼルもまた、盲目的に捧げられる「子どもからの愛情」の虜となり、徐々に意識的に、洗脳を施すようになっていったのだが。


「失礼な人ねえ、リーゼル。いくらエルマという素晴らしい娘に恵まれたわたくしが妬ましいからといって、人をさも冷酷な母親のように言うのはよしてちょうだい」

「エルマが最高の娘ってのは事実だけどね、あたしが育てたようなものだし。でも、あんたが冷酷な母親ってのも事実でしょ?」


 嫉妬、という罪業を含ませるように言えば、リーゼルは即座に言い返す。


「あんなにかわいいあの子を、あっさりと手放してしまえるんだから」


 その声音は、軽妙なやり取りに似つかわしくないほど、冷え冷えとしていた。


「ねえ、リーゼル――」

「ハイデマリー。あんた、なにを考えてるわけ?」


 駒を置き、ソファから身を起こしかけたハイデマリーを遮り、リーゼルは吐き捨てるように続けた。


「言っとくけど、せいぜい拗ねて不満を言うくらいでとどまってるほかの連中と、あたしは違うわ。彼らはしょせん『父親』。あたしは、あの子にとって姉であり、『母親』だもの。愛の深さが違うのよ。今回あんたがエルマを追い出したこと、心底信じられないと思ってるし、心底あんたに怒りを覚えるわ」


 高貴な猫のような瞳と、美しく化粧の施された瞳とがぶつかり合う。

 リーゼルはゆっくりと瞬きをし、次にその目を開いたときには、それまでかろうじて維持していた「チェスについての応酬」という体裁すら投げ捨て、踏み込んだ会話をすることに決めたようだった。


 ハイデマリーが先ほどまで動かしていた黒の女王を見つけると、それを摘まみ上げる。

 それから彼は、駒を透かし見るようにして娼婦の姿を睨みつけた。


「――ねえ、ハイデマリー。あんた、ルーデンの属国の生まれよね。三国一の娼婦と謳われ、その国の王に見初められたのを、けんもほろろに断って、逆鱗に触れた。結果、魔族の生き残りと通じたなんて噂を立てられて、それをかばった勇者――ギルベルトともども、このヴァルツァー監獄に放り込まれた。そうよね?」

「…………」


 ハイデマリーはなにも言わない。

 ただ、優美な眉を、器用に片方だけ持ち上げた。


「むちゃくちゃな話よね。実際に魔族の子なんて宿そうものなら、即殺されているはずだし、そもそも魔族なんてとうの昔に衰退した種族。生き残りだなんて、小説の世界の話よ。つまり、魔族云々はでっちあげ――あからさまな、冤罪」


 リーゼルは器用に駒を投げ、それを空中でキャッチしてから、ゆっくりとハイデマリーのもとに歩み寄った。


「ギルベルトだって、王女との婚約が控えていた中あんたに肩入れしたのはまずかったろうけど、別に投獄されるほどの罪状じゃないわ。ほとんど言いがかりよね。馬鹿正直なやつだから、おおかた、国のお偉方の腐敗でも責め立てて、厄介がられてたんじゃないの?」


 豪奢なソファ。

 それを後ろから回り込み、背もたれに手をついて、背後からハイデマリーを覗き込む。

 座ったままの彼女がちらりと視線を上げると、リーゼルはその細い顎を掴み、ぐいと上に持ち上げた。


「荒唐無稽な罪状。腹いせのような投獄。でも、そんなものが可能になったのは、大国ルーデンの王が、当時の各国に貸しを作るべく手を回したからだわ。そうでしょ?」


 リーゼルはそっと顔を近づけ、「ねえ」と、まるで誘惑するように囁いた。


「あたしたちはこれまで、あんたを【色欲】、ギルを【憤怒】と呼んできたけど、本当は逆よね。実際のところ、ギルは色恋に溺れて、せっせとあんたに住みやすい監獄いえを整えてやった愚か者。そしてあんたは、十五年経っても怒りを忘れられない、執念深くて救いようのない復讐者」


 薄暗い部屋で、リーゼルの瞳がきらりと光る。

 彼は、子を守る獣のように、険しい声でハイデマリーを詰った。


「あんた……ルーデンを引っかきまわすために、エルマを送り込んだんじゃないの」

「…………」


 ハイデマリーはなにも言わない。

 見つめ合うふたりの傍らでは、王手の掛かった盤面が沈黙を貫いていた。

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