24.「普通」のダンス(5)

 ワルツを一通り踊りきり、会心のフィニッシュを決めたあと、ルーカスは内心でやれやれと溜息をついた。


(おーお、真っ青な顔で……)


 人の輪に紛れてこちらを凝視しているカロリーネに視線を向け、同情を覚える。


 ダンスにかけては右に出る者がいないと豪語していた彼女だ。

 こんなにも完璧な演技を見せつけられては、言葉すら浮かばないだろう。はっきり言って格が違う。

 王子として、これまで熟練の芸妓を目にしてきた自分とて、こんな見事なステップを踏む娘は初めてだったのだから。


 いや、素晴らしかったのはダンスだけではない。


 彼女が誘いかけた瞬間、明らかに楽団の士気が高まり、音楽の質が変わったのを、ルーカスは肌で感じていた。

 おそらくだが、エルマなしにこの演奏のクオリティを維持するのは難しいだろう。

 彼女は、最高の音楽と最高のダンスで、至高の美を体現してみせたのだ。


(なにもそこまでしなくても、という感じではあったが……)


 ルーカスの見立てでは、カロリーネは最初の五秒ですでに戦意を喪失していた。


 だというのに、腕の中の可憐な狂戦士は、いまだに戦闘姿勢を崩さない。

 それどころかカロリーネの姿を見つけ出すと、真顔で彼女に話しかけた。


「お待たせいたしました、カロリーネ・フォン・ファイネン様。次はあなた様の番です」

「あ……え……、ええ……あ」


 踊れと言うのか。この状況で。

 カロリーネがさあっと血の色を失い、もはや昏倒しそうなのがわかる。


「エルマ、よせ。並の令嬢にこれほどのダンスができるものか」


 加害者はたしかカロリーネのはずだったのに、と思いながら彼女に助け舟を出してやると、エルマは怪訝そうに首を傾げた。


「これほど? ですが今のは、一番簡単な部類のワルツでしたよね。もしやシャバ――」

「やめろ。言うな。もうそれくらいにしてやれ、頼むから」


 例のセリフで息の根を止めにかかるエルマの口を、慌てて塞ぐ。

 しかし彼女はその手を払うと、不本意そうにこちらを見上げてきた。


「なぜですか? これはおかしなことですか? 仲間の力を借りながら、強大な存在に挑みに行く。これは一般的な展開というものではないのですか?」

「挑むのを通り越してすでに叩きのめしている。いいか。おまえがディルクから借りて読んだ書物、あの内容はすべて忘れろ」

「ですが――」


 エルマなりに、今度こそようやく常識の拠り所になると思った内容を否定されるのは、腑に落ちなかったらしい。

 拗ねたような表情――無駄に、すさまじくかわいい――を浮かべるのを見て、ルーカスは溜息をついた。


「なら、こう思え。書物の中の主人公は、背中を見せて逃走する敵には手をかけなかったろう? 来る者は拒まんでいいが、せめて去る者は追うな。それが良識というものだぞ」

「ああ……」


 エルマはぱちりと目を瞬かせる。

 そうして、カロリーネがじりじりと後ずさっていることに今更ながら気付き、ようやく納得の様子を見せた。


「そうですね」


 これでようやく一段落、とルーカスが緊張を緩めかけたとき、しかしそれは起こった。


「――ミューズよ」


 異国風のニュアンスが残る言葉で、ヴァイオリンを構えた青年が話しかけてきたのである。


「私の本気と、あなたの本気。ぶつけては、みませんか」


 彼は言うさま、手の中の楽器を高らかにかき鳴らしてみせた。

 それは、これまでとは明らかに一線を画した、至高の響き。

 音楽家が、己の生命を賭けて紡ぎ出す、まさに渾身の音色だった。


「ヨーラン・スヴァルド殿?」


 王子として、青年の正体に心当たりのあったルーカスが、戸惑いながらつぶやく。

 天才と評判の――つまり、こんな舞踏音楽など片手間でこなしてしまえるだろう彼が、なぜ今エルマに挑むような表情でヴァイオリンを奏ではじめたのかと首を傾げ、すぐにその答えにたどり着いた。


 ――一番簡単な部類のワルツ。


 おそらくは、さっきのエルマの言葉が、彼の心を着火させてしまったのだ。


 先ほど、エルマは演奏を自在に「操って」いた。

 音楽を、ダンスを引き立てるための道具として利用し、乗りこなしていた。それは、音楽こそを至高と思う彼にとっては屈辱的だったのであろう。

 ヨーランは、本気の演奏を突きつけることで、エルマの傲慢をただそうとしているのだ。


「本来の音楽とは、しなやかで、誰にも囚われぬ、いわば野生の暴れ馬。あなたにそれが――乗りこなせますか?」


 そう告げて彼がかき鳴らしたのは、はっと胸を打つ、それだけに変則的なフレーズ。

 とても踊るのには適さない、生々しい旋律だ。


 困惑する周囲をよそに、エルマは真顔で告げた。


「――ルーカス王子殿下」

「…………なんだ」

「新たなライバルの出現です。向こうから来たので、拒まないのが良識ですよね」

「…………」


 どうしてそうなる。

 ルーカスの率直な感想だった。


「いや、それは――」


 どうしたら矛盾なく説得できるか。脳裏で素早く思考を巡らせる。


「もう一度、お力を貸してくださいますか。闘いましょう、ともに」


 しかしその僅かな時間が仇となったらしい。

 エルマはさっとルーカスの手を取り、再びダンスホールに飛び出していってしまった。




(ああ……ああ……! なんて……なんという……!)


 ヨーランは歓喜していた。


 身体のうちから溢れ出る音楽。

 全身を満たす興奮。

 ヨーランは、異国の地で運命の出会いを果たせたことを、神に感謝していた。


(すごい……素晴らしい……僕の音楽に、小麦一粒のずれもなく寄り添ってくる……いやちがう、超越してくる……!)


 幼少のころから彼の音楽への愛は深く、その解釈や表現は、常人に理解できる範囲から逸脱していた。


 たった一音からでも、彼は無限の物語と色彩を感じ取り、表現することができるというのに、他人にとってはただの一音。

 自分の音楽的感覚と、他人のそれは、あまりに粒度が違いすぎる。

 ヨーランにはずっとそれが不満だったのだ。


 ところが今、目の前の少女は、ヨーランが音に込めた意図をあますことなく理解し、表現してくる。

 音色に込めた哀愁、テンポをごくわずかにずらした遊び、余韻に含ませた緊張感――それらを、指先の動きひとつ、背中のそらし方ひとつで、見事に体現してみせているのだ。


 ヨーランは、自らが音楽に込めた情景が、寸分たがわず少女に伝わっているのを感じた。

 そしてまた、彼女によって身体的な動作を得た音楽が、広大な物語となって描き出されるのを理解した。


(ああ……見える……! 僕の音楽と、彼女のダンスが溶け合ったその先に……無限に広がる世界が……!)


 ヨーランは、演奏しているその楽曲に、ある国の芽生えと滅亡を描き込んだつもりだった。


 澄んだ空の下、穏やかに草をはむ動物と、それを世話する心優しい人々。

 集落は村となり、やがて緩やかに周囲と融合しながら、ひとつの大きな国を成す。

 大きな石の建物。実りの季節。

 しかし突然、敵はやってくる。


 一方的な蹂躙、逃げ惑う人々。

 飛び交う戦火、満ちる怨嗟と絶望の声……。


 ありふれたワルツなどでは到底表現できない、感情を激しく行き来する情景だ。


 しかし少女は、ときに軽やかにフィガーを刻み、またときに大胆にターンを決め、悲しい宿命を帯びた国の行く末を、鮮やかに表現してみせた。


(ふ、なるほど、伸びた指をだらりと下げていくことで、不穏な未来を暗示してみせたか……。だが、これはどうだ? おお……なんて大胆なジャンプ……パートナーの手を離れ、風に煽られた木の葉が舞うように回転する……ままならぬ運命の表現か……! 音楽より一歩踏み込んだ解釈……くそっ、見事だ……! ならば次は……!)


 フルオーケストラなんていらない。

 世界を表すのには、ひとりの奏者と、そしてひとりの踊り手さえいればいい。


 だが――主導権を握るのは、どちらか。


 ヨーランとエルマは、ときに視線を絡み合わせながら、遥かなる高みを目指しつづけた。


(おい! いつまでやっているのだ、ヨーラン・スヴァルド!)


 一方、それどころでない人物がひとり。

 皮膚が擦り切れんばかりに、必死に鼻を擦っている、クレメンスである。


 彼は、先ほどからヨーランがまったくこちらを見ないことに、強い危機感を抱いていた。


「す……すごいわ! なんて鮮やかなシャッセ!」

「おい見ろよ……あんな高速のウィンドミル……! す、すごい風だ! すごい風速だぞ!」

「ああっ、摩擦熱でフロアから煙が!」


 観客からは、舞踏会というより武闘会でも見ているような感想が次々に上るが、クレメンスはそれどころではなかった。


(なにを恍惚とした顔で演奏しておる! うつけめが! おまえは、トリルさえ弾けばよいのだ!)


 段取りが。完璧に整えた計画が崩れていく。

 とそのとき、口元に不敵な笑みを浮かべたヨーランが独特の構えを見せたので、クレメンスはぎょっと目を見開いた。


 まさか。


「あ。これ、ヨーラン・スヴァルド名物の、『至高のトリル』のポーズじゃないかなあ」


 ワイングラスをくるくると傾けながら、フェリクスがのんびりと呟く。


 それと同時に――空気を震わせるほどに激しく、高音のトリルが響き渡った!


(今ではないわ、うつけがあああああああ!)


 クレメンスはその場に崩れ落ちそうになった。


 冷や汗を浮かべながら視線を転じれば、ルーカス王子の踊る近くで、必死にその動きを捕らえようとしている青年がいる。

 間違いなくそれは、クレメンスが弱みを握り、毒針を仕込んだ靴でルーカスの足を踏み抜くよう命じた下男であった。


 が、王子たちのステップが早すぎて、まったく足を踏み出すタイミングが掴めないらしく、先ほどからかくん、かくん、と中途半端に顎と片足を突き出している。


(長縄に入れない子みたいになっているではないか!)


 実に挙動不審だ。


 というか、今毒針を仕込んでもらっては困るのだ。

 あくまで、「フェリクスが手渡したワインによって倒れたように見える」ことが狙いなのだから。

 ワインとは無関係に毒殺されてしまっては、かえって面倒なことになる。


(くそっ、ひとまず今回の計画は取りやめだ。下手にあやつが口を割らぬよう、私が直々に始末して――)


 作戦中止の合図を決めておかなかったのは痛恨のミスだった。

 どうせ使い捨ての駒だからと、再利用することを端から想定していなかったのだ。


 クレメンスは下男に近づき、それこそ指輪に仕込んだ毒針で彼を「処分」してしまおうかと腕を持ち上げたが、それよりも早く、興奮したらしいヨーランが再び「至高のトリル」を奏でた。


「――……!」


 トリルが鳴ったら刺す、としか仕込まれていない下男は、それでいよいよ焦ったらしく、もはや自然さなどかなぐり捨てて、高速で回転しているルーカスたちに勢いよく突進していく。

 クレメンスが人込みの中から伸ばした腕は空振りして、代わりに、下男の足が、ルーカスの足をめがけて振り下ろされた――!


「オ・レ!」


 ――ぱんっ!


 次の瞬間、掛け声とともに、空気を引き裂くような鋭い手拍子が響く。

 眼前に広がる光景に、クレメンスは目を疑った。


 まるで、トリルをその手拍子によって封じ込めたような、奇妙な沈黙。


 頭上で両手を重ね合わせた少女は、まっすぐに背筋を伸ばし、同時に、一方の足だけをぴんと外側に跳ね上げていた。

 つま先までしなやかに伸びたその足は、下男の足をしっかりと持ち上げている。


 そう。

 少女が、毒針を仕込んだ靴ごと、刺客を蹴り上げたのだ。

 いったいどんな力学が働いているのか、片足を少女に持ち上げられた下男は、びくびくと震えながら、奇妙なポーズのまま静止していた。


「う……あ、ああ……」

「ダンスに割り込むなど無粋ですよ。殿方の足を踏んでよいのは、パートナーの女性だけです」


 少女は神妙な表情で諭していたが、ふと下男の靴底を見ると、「おや」と不思議そうに首を傾げた。

 そうして、三秒ほどじっくりと、給仕係の顔と、彼の視線の先を見つめた。


「あの。もしや――」

『見事だった』


 だが、彼女がなにかを言うよりも早く、異国の音楽家がその場に立ち上がり、拍手をしはじめる。

 少女が振り向くと、その拍子に給仕係は尻もちをつき、それからわたわたと逃げ出した。


 ヨーランはそれには一瞥もくれず、おもむろに美貌の少女に近づくと、その場に跪いて熱っぽく彼女を見上げた。


『僕と対等に渡り合える音への感受性、解釈の深さ、そして豊かな表現力。音楽と並び立つ芸術があるのだということを、今日僕は初めて理解した。魂ごと奪われるような見事なダンス……特に、トリルと同時に披露してみせた錐もみ回転のようなステップからは、物理的にも神の息吹を感じた』


 捲し立てるようなヤーデルード語。

 興奮のあまり、母語が出ているのだろう。


 諸国との交流があるクレメンスですら、断片的にしか聞き取れなかったが、異様なことに少女は難なくそれを聞き取っているようだった。


『いえ。音楽と、パートナーのリードあってのダンスですから。素晴らしかったのだとしたら、それはひとえに音楽と殿下のおかげです』


 あまつ、流暢にそれに返しすらしている。

 どうやら謙遜しているようだが、それを遮るようにヨーランは激しく首を振った。


『なにを言うんだ! 君のそのダンスの技術は、僕がこれまで見た誰より卓越している。いや、はっきり言って人知の域すら超えている!』

『え、いえ、別にこのくらい、割と普通の――』

『神よ! これが普通などと言うのなら、僕はなにを信じればいい。それともそうか。君がミューズか。神だから、こんな異能、異常、いや、奇跡をなにげなく扱ってしまえるのか!』

『異常……いえ、あの――』


 ルーカスは乱れた息を整えながら、珍しく圧されているエルマを見て、おやと片眉を上げた。


(珍しく「これくらい普通でしょ爆弾」は炸裂しないのか)


 その心無い発言で、すでに敗北を認めている相手の心をごりっとえぐっていくのが常だったのに。

 さすがにこんなに熱烈に讃えられては――完全には聞き取れないが、それでも意図は伝わってくるぐらいの熱量である――、そんな気も起きないのかと思いかけたが、それにしても様子がおかしい。

 どこかそわそわしているようである。


「どうした、エルマ。珍しく殊勝に褒められているじゃないか。とうとう、自分が普通ではないという事実を、受け入れる気になったか?」

「普通ではないという事実? そんな」


 ルーカスとしては、ずば抜けたダンスを披露したエルマを持ち上げる意図も込めて、そのように軽く言ってみたのだったが、彼女の反応は予想とは違った。

 図星を指された人のように、気まずそうに視線を逸らしてみせたのである。


 ついで彼女は、俯いたまま抗議した。


「あんまりです、殿下。私はどうやら常識外れらしいと自覚しているからこそ、侍女長や副中隊長の価値観に準拠して、懸命に『普通』を探っているのに。これは本当に『普通』なのだろうかと疑問に思う時でも、きっとシャバではこちらが正しいのだろうと、疑念を押し殺して、愚直に『普通』に沿おうとしているのに」

「だとしたら、愚直がすぎる。ロマンス小説も武闘派小説も、教本になりえないと薄々気づいていたなら、その時点で引き返してくれ、頼むから」


 思わずルーカスが突っ込んでしまうと、エルマはちょっと怯んだように顎を引いた。

 そして、再びちらりと人の波に視線を投じてから、小さく溜息を落とし、覚悟を決めたように顔を上げた。


「――あの、殿下」

「なんだ」

「こんなことを言いだすのは、『普通』ではないかと思われたため、ためらっていたのですが、やはり私個人の価値観に照らせば――その価値観こそが普通ではない可能性も否めないのですが――、それでもここはひとつ、一言もの申し上げるべきかと愚考しました次第でして……」


 彼女なりの規範を冒そうとしているのか、どうも歯切れが悪い。


「これまでのように、個人の能力を披露するくらいのことならばまだしも、一介の侍女が陰謀を暴く展開というのはちょっと行き過ぎといいますか、いかにも普通ではないですし、殿下も先ほど『去る者は追うな』と仰ったなか、執拗に追及するようなことを申し上げるのも良識外れの振る舞いのような気がして心苦しいのですが――」

「なんなんだ。端的に言え」

「王子殿下は、毒殺されかけていたようです」


 本当に端的に言い放ったエルマに、ルーカスは硬直した。


「――は?」

「下手人は先ほど私が足を蹴り上げました給仕係。凶器は靴に仕込んだ毒針。そして黒幕は、今その給仕係を追いかけて、毒針付きの指輪を振り下ろそうとしている――」


 エルマは素早く靴を脱ぎ取り、びゅっ! と斜め後ろに向かって投擲した。


 ――どご……っ!


「うぐあっ!」


 とたんに、靴が鈍く人体にぶつかる音と、苦悶の叫びが響く。

 その場にうずくまった人物を指さしながら、エルマは続けた。


「クレメンス・フォン・ロットナー侯爵閣下です」


 舞踏会場の空気が凍りつく。


 しん、と静まり返った空間に委縮したように、エルマは視線を逸らした。


「三秒で陰謀を暴くというのは、やはり普通……ではないですよね……」


 消え入りそうな声だった。

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