29.シャバの「普通」は難しい(4)

 彼女は、すでに扉として機能していない木の板を蹴り飛ばすと、その勢いのまま部屋に踏み入ってきた。


「あなた、ルーカス王子殿下暗殺未遂事件の犯人として、濡れ衣・・・を着せられそうになっているって本当!?」

「は?」


 やって来るなり叫んだその内容に、エルマはきょとんとする。

 が、「いったいなにを――」と言い返す前に、さらに複数の人物が部屋になだれ込んできた。


「エルマ! なにがあったのです! 殺人犯としての自白を強要・・・・・されているですって!?」

「ねえエルマ、信じられないわ! あなたが愚息に殺意を持っていただなんて与太話を吹聴しているのは、どこの誰なの!?」

『おう、なに変な事件に巻き込まれてんだ、エルマ。おまえは明日――いや、今日だな、今日の即位式正餐会の仕込みを手伝うっていう重要な仕事があんだろうが』

「エルマさん! 侯爵に騙されていた僕が言うのはなんだけど、あなたがこんな陰謀に巻き込まれるだなんて、信じられない! こんな嫌疑、早く晴らしてしまわなくてどうするんだ!」

『ミューズよ! 君がこんな美しくない事態を甘受しようなど! 神が許してもこの僕が許すものか!』


 順に、ゲルダ、ユリアーナ前妃、ゲオルグ料理長、デニス聖医導師、そしてヨーランである。

 興奮のまま、母語も交えて話す彼らの背後には、やりきった感を前面に浮かべたマルクもいる。


 就寝中に王子付きの小姓によってたたき起こされたらしい六人は、全員、着の身着のままといった様子で、その瞳にだけ燃えるような怒りと闘志を宿していた。


「は……?」


 やけに張り切っている彼らの姿に、エルマは嫌な予感を覚えた。


 珍しく彼女がなにも言えずに立ち尽くしていると、それをどう受け取ったものか、イレーネを筆頭とした六人は素早く彼女に近付き取り囲む。

 そして肩に手を置いたり、腕を取ったり、抱きしめたりした。


「まったく信じられない話だわ。まさか無実の人間に罪をなすり付けて、悪名高きヴァルツァー監獄に送り込もうなど。つくづくロットナー侯爵は見下げた男だわ」

「いえあの……悪名高いといいますか、ヴァルツァー監獄は私の実家なのですが……」

「そこよ、エルマ! あなたの非常識はだからだったのね。けれど、監獄育ちだから罪を着せられても問題ないだろうだなんて、おぞましい発想だわ! 聞けば、あなた、監獄出身の人間にどのみち未来はないなどと脅されたのですって!?」

「え」


 ユリアーナやイレーネが捲し立てる内容に、思わず思考が停止してしまう。


 彼女たちの話を総合すると、エルマは「環境劣悪な監獄で育ったところを恩赦によって解放されるも、出自を知った侯爵に『監獄出身のおまえに未来はない』と脅され、ルーカス殺害未遂の罪を押し付けられかけている」ことになっているようだった。

 なんだそれはという感じだ。


「いえ……あの、そうでなくて、私は本当に自身の意思で監獄送りを希望していて……その、侯爵をも利用して殺害をもくろんだ、この事態の黒幕……」

「それが侯爵の書いたシナリオなの? まったく、あなたがわざわざ他人を利用して殺害をもくろむだなんて、荒唐無稽としか言いようがないわ」

「え」

「そうですよ。あなたほどの能力があれば、ルーカス様のような隙だらけの殿方など瞬殺できようものを、どれだけあなたのことを見くびっているのだか」


 神妙に反論すると、ユリアーナとゲルダから速攻でそれを封じられた。

 どうやらエルマは、「彼女がそんな(人道的に)悪いことをするわけない!」という文脈ではなく、「彼女がそんな(効率の)悪いことをするわけない!」といった方向で信頼されているらしい。

 少々の虚しさを覚えて、エルマは一瞬黙り込んだ。


「……いえあの、それほど私を買ってくださっているなら、なぜ侯爵に利用されたなどという発想に……?」

「だってあなた、頭はよさそうなのに、ひどくずれているんだもの!」

「おまえ、常識、なさそうだしな」

「突拍子もない理由で監獄行きを受け入れていそうだと思ったもので」

『ミューズよ。君の話すルーデン語もひどく音楽的だね』


 粘ってみると、今度はイレーネやゲオルグ、デニスから、エルマの「普通」をディスられた。

 ちなみにヨーランは芸術家肌だからなのか、明後日の発言をしている。


 エルマは世の無情を思い、再び沈黙を選んだ。


 とそこに、


「大丈夫よ、エルマ。わたくしが弁護団を作ってさしあげる。この国の前妃として、いいえ、ラトランドの人脈を使ってでも、優秀な弁護人を確保して、あなたの無実を世に突きつけてみせるわ」


 整った相貌を自信で彩ったユリアーナが、力強く頷きかける。

 それにつられたように、その場にいた一同が次々と親指を立てはじめた。


「微力ながら、私も心ある下級貴族くらいまでなら動かせます。フットワークの軽さに定評のある下級貴族の底力を、今こそ見せつけてやろうではありませんか」

「若手侍女たちへの根回しなら、このイレーネに任せてちょうだい」


 女性陣がきらっと瞳を輝かせれば。


「俺だって、この城の、胃袋を、握っている。全員、おまえの、弁護人にしてやるぜ。モンテーニュ人は、美人の味方だからな」

「僕は騎士団に顔が利く。これまで治療してやった患者たちも全員動員してあげるよ」


 男性陣もまた自信に満ち溢れた様子で胸を叩く。


『ところで、僕を招いた侯爵が犯人ということは、僕への支払いはどうなるんだろうか。演奏代も支払われないようなら、友人の国際弁護人を通じて訴えようと思っているんだけど』


 ヨーランだけはやはり頓珍漢なことを口にしているが――いや、国際弁護人へのツテを持っているあたり、ほかの五人よりよほど厄介な存在かもしれない。


 王族だって雇えないだろうというような、大規模で国際的で網羅的な弁護団の登場に、エルマは顔を引き攣らせた。


 特に「大規模」というのが問題だ。

 査問が行われるまでの数時間で、これだけの人数を洗脳、または説得するのは、エルマの能力をもってしても困難である。

 引き換え相手はといえば、持ち前の行動力で、今この瞬間にでも、自分の仲間を召喚しそうな様子だ。


「こんなに手厚く弁護されては、起訴など不可能だな。監獄行きは諦めろ」


 静かに結論を言い渡され、エルマは青褪めながらルーカスを振り返った。


「いえ、あの……弁護など不要といいますか……私はただ、家に帰りたいだけで――」

「エルマ」


 珍しく動揺しているエルマを、ルーカスは実にいい笑顔で遮った。


「おまえ、まだ理解していないようだな」

「な……にを、でしょうか」


 表面上はにこやかな第二王子の、その瞼や頬の筋肉がごくわずかに強張っていることを見て取り、エルマは冷や汗を浮かべる。

 この微表情はなんのサインだろうか。


 怒り、いや、興奮、いや、愉悦。

 そのすべてのような気もするし、どれも微妙に異なる気もする。


 ただなにかこう、自分が彼の導火線のようなものに着火してしまったことだけは、理解できた。


 そしてなぜか、この瞬間になって、かつて母ハイデマリーが自分に告げた言葉をエルマは思い出していた。


 ――愛にはね、エルマ。


 彼女は完璧に整った唇を、苦笑の形に歪めていた。


 ――愛には……好意には、友情には、善意には、よくよく注意しなくてはならないわ。

   一度それらに絡め取られたら、絶対に逃がしてもらえないから。


 なんの話をしていたときだったか。

 そう、罪の名を持つ「家族」の中で、誰が一番たちが悪いか、といった話題で盛り上がっていたときだった気がする。


 彼女は困ったような、諦めたような笑みを浮かべて、少し離れた場所に佇むギルベルトを見つめていた――


「シャバにはな。七つの大罪よりもよほど執念深くて、厄介な美徳があるんだ――愛だとか好意、と、俺たちはそれを呼ぶがな」


 ルーカスがにやりと笑いながら告げた言葉で我に返る。

 脳内のものとぴったり一致したその単語に呆然としていると、彼はぐっと腰をかがめ、睦言を囁くように唇を耳元に寄せた。


「俺たちからこれだけ好かれておいて……そう簡単に放してもらえると、思うなよ?」


 聞きようによっては、口説かれているようにも思えるせりふ。

 しかしエルマには、恫喝か最後通牒のように響いた。


 呆然と固まっていたら、その空気を解すように「えー」とフェリクスが片手を挙げて切り出した。


「話を戻すけど。そこのエルマ嬢が今回の犯人でないことは自明だし、本人が言い張ったとしても、強力な弁護団に囲まれて不起訴濃厚だから、もう無視しちゃっていいかな? で、当初の予定通り、クレメンスを対象に査問するということで」


 すでに被告人が自供内容を刷り込まれている時点で、なんの意味もない査問である。

 だがその場には誰一人として――クレメンス本人も含めて――異議を唱える者はいなかった。


「え……え……」


 ただエルマだけが、現実を受け入れられないとでもいうように視線をさまよわせる。

 それを見てルーカスが、「そういえば」と片方の眉を上げた。


「すっかり話が逸れてしまったが、聞きたいことのもうひとつはな、エルマ。おまえ、いくら監獄に帰りたいからといって、この男をかばうような真似をしてよかったのか?」

「……と仰いますと?」


 話が呑み込めず怪訝な顔をするエルマに、ルーカスはやはりと頷く。

 それからくしゃりと彼女の頭を撫でて、「おまえもまだまだだな」と嘆息した。


「人の顔や物事の表面だけ見るからそうなるんだ。おまえ、この男――ロットナー侯がなにをしてきたのか、知らないんだろう」

「あ、やっぱりそうなんだ。道理でねえ」


 ルーカスが呆れたように告げれば、フェリクスが得心したように手を打つ。


「彼がなにを……?」


 眉を顰めたエルマに向かって、ふたりの王子はそれぞれゆったりと仕草で頷き返した。


「今回の件をきっかけに、侯爵の居室を捜索したらな。監獄を材料にして諸国と取引を重ねた履歴が出るわ出るわ。……この男は、宰相の地位と、暗示の能力を利用して、罪なき者を次々と監獄送りにしてきた大罪人だ」

「王の誘いを断っただけの娼婦、王女との婚約を拒否して腐敗政治を批判しただけの英雄。ほかにも何人もいるようだけど……君の母親が美貌の娼婦だというなら、つまり彼は――君の仇だね」


 え、と夜明け色の目が見開かれる。

 ルーカスはそれを見て、にやりと口の端を持ち上げてみせた。


「無実の姫君は仲間の協力のもと仇に復讐し、監獄送りになるのは悪人だけ。これがシャバの『普通』というものだ。――おまえには、そのくらいのこともわからないのか?」



 今度こそ、エルマはぽかんとした顔になった。

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