20.「普通」のダンス(1)

 クレメンス・フォン・ロットナー侯爵は、貴族らしい端正な面差しをした、穏やかな物腰の男性である。

 壮年期には金色をしていた髪は、今は色だけを白く変えて豊かに頭部を覆い、皺の刻まれた顔にはいつも柔らかな微笑がたたえられている。


 人の心を解す能力と司教の資格を持った彼は、まさしく神の威光を担うにふさわしい、人格者といった様子であった。

 ――少なくとも、表面上は。


(やれやれ、また呼び出し・・・・か。この凡愚王子め)


 クレメンスは内心でそう罵りながら、外面は完璧な平静を装って、第一王子の居室に踏み入った。


 が、肝心のフェリクスの姿が見えない。

 代わりに、ほっとした表情を浮かべた侍女が、いそいそとこちらに向かってくる。

 彼女は平身低頭し、クレメンスに経緯を説明した。


「申し訳ございません、侯爵閣下。殿下は閣下をお呼びになった後、突然部屋の模様替えをしたいと仰って……。お止めしたのですが、無理やり絵画や宝石やらの配置をご変更になって。今は埃まみれになりながら、ワインの棚の並びをご変更中です。急なお呼び立ても、また模様替えも止められず、申し訳ございません」

「いえ。あなたも大変でしたね」


 クレメンスは誰に対しても穏やかな言葉遣いをする。

 それは、彼が真実柔和な性格の持ち主だからではなく、体のうちに溢れる苛立ちや侮蔑を、外に気取らせないためであった。


 この侍女は、彼の遠縁の親戚の娘で、最近王子付きに仕立てたばかりだ。

 フェリクスの即位に合わせて、家臣も侍従も侍女も、徐々に自分の息が掛かったものに「差し替え」ているところなのだが、第一王子の凡愚ぶりに慣れない彼らが、そのたびにあたふたしてしまい、クレメンスの手まで煩わせるのは、腹立たしいばかりだった。


(だがまあ、虫けらに人間同様の働きを期待するほうが無理な話よ。ロットナーの家長たる者、これらの事態を含め、うまいこと「調理」できるようであらねば)


 ロットナー侯爵家は、先王の時代よりその懐に寄生し、たっぷりと甘い汁を吸ってきた者たちだ。

 クレメンスの経験に照らせば、王は、そして使用人は、愚かであればあるほどよかった。

 傀儡にも、手先にも、考える頭などいらない。


 ――はずだったのだが。


「やあ、クレメンス! 遅かったではないか! 僕が相談したいというのに、おまえはいったいなにをしていたんだ! おかげで、僕は部屋の模様替えなんて始めてしまったぞ」


 滑舌の悪い、子どもっぽい不満声をかけられて、クレメンスはつい渋面を浮かべそうになってしまった。

 振り返った先には、せっかくの美麗な衣装を埃で汚した青年が立っている。


 高貴な人物らしからぬ出で立ちをした彼こそ、フェリクス・フォン・ルーデンドルフ――この国の第一王子であった。


 正妃譲りの金髪に緑の瞳、すらりとした体つき。

 と、ここまでは、そこそこの貴公子ぶりだ。

 しかし姿勢は重心が定まらず、表情は緩み切って知性を感じさせない。

 彼と話すたびに、愚鈍さがこちらにうつってくるかのように思えて、クレメンスはげんなりするのが常だった。

 傀儡にしたって、こんな愚か者を主と仰ぐだなんてと嘆かずにはいられないほどに。


(即位式の準備だとも。おまえが望んだ、大々的な晴れ舞台の、な)


 内心で鼻を鳴らしながら、クレメンスは申し訳なさそうに頭を下げる。

 ここで下手に反論しては、かえって事態をこじらせるだけだということはわかっていた。


 フェリクスは先だっての「大願」で、「国中の人間を招いて盛大な舞踏会を開きたい」と言っていた。大層ばかげた話だ。

 だが、そこは腐っても「大願」。

 フェリクスのお守り役と認識されているクレメンスは、好き勝手を言う馬鹿王子と、呆れて物も言えないでいる貴族たちの間に立って、如才なく実現可能なレベルへと願いを落とし込んでいった。


 すなわち、「国中の人間」というのを「貴賤や出自を問わない老若男女」と置き換え、その縮図が「宮中の使用人たち」としたうえで、彼らまでを即位式の舞踏会に招くこととしたのだ。


 同時に、即位式当日を挟んだ三日間は、王城の外郭に限って市民への開放を約束。

 これで、警備問題や予算に頭を悩ませていた貴族連中もようやく安堵し、フェリクスも満足したようで、クレメンスが報告を上げたときには「みんな喜ぶといいなあ」とにこにこしていた。


(なにが、「喜ぶといいなあ」だか)


 改めてこの騒動にまつわる混乱を思い出し、クレメンスは苦々しく内心で吐き捨てた。


 凡愚な君主は好ましいが、凡愚でありながら意思の強い人間はよろしくない。

 王というのは、常にロットナーの顔色を見ながら、「どうすればよいと思う?」と判断をゆだねてくるようでなくてはならないのだ。

 ――先王のように。


(その点、ヴェルナー王は素晴らしかった)


 意思がなく、気弱で、責任感も責任能力もなく。

 ロットナーはただ彼にそっと囁くだけで、自らの手を一切汚すことなく望みをかなえることができた。


 もっとも、そうするためには、彼なりに努力を払ったものだったが。


 彼の権力の一番の源泉となったものは、ヴァルツァー監獄だった。

 周辺諸国を代表して建設費用を負担し、小国では手に余るような「犯罪人」を積極的に受け入れることで、彼は諸国の王室や権力機関に貸しを作っていった。

 ルーデン国内でも、都合の悪い人間は容赦なく冤罪をかぶせて投獄し、口封じを図ったものだ。


 看守には、クレメンスの息が掛かった導師を置いてある。

 外見は豚のようだし、頭も悪いが、もう十五年以上監獄で任に当たっているというのに文句も言わない、使える駒だ。

 あるいは、着任時に美貌と評判の娼婦を放り込んでおいたから、それが気に入ったのかもしれないが。


 ヴァルツァー監獄はこの世の地獄。

 獄内は不潔で、怨嗟に溢れ、凄惨な拷問を加えられた囚人たちの絶叫が鳴り響く。

 毎月上がってくる報告書は読むだに酸鼻で、クレメンスは大いに満足していた。

 不都合な真実は、檻の向こうで絶望の声に紛れ、けして表舞台に上がることはない。


 ただ、そこまで考えたとき、つい第二王子ルーカスのことまで連想してしまい、彼はつい口元を歪めそうになってしまった。


 ルーカス・フォン・ルーデンドルフ。

 政治や権力に興味を示さず、剣の道を取った変わり者の色男。


 これまでは「支配の美味がわからぬとは、愚かな男よ」と放置していたが、彼がフェリクスに代わって恩赦を施したことによって、状況は変わった。


 クレメンスの聖域であり、権力の源泉であるヴァルツァー監獄。

 その内実――不都合な真実に、もしかしたら彼は触れてしまったのかもしれないのだ。


(今のところ、冤罪の囚人がいることも、獄内で虐待が横行している事実も言及してはこないが……)


 看守が上手くやっているため気付かなかった、というのは浅はかに過ぎる考えだろう。

 なにかを勘付いているからこそ、次の一手を考えているのかもしれない。

 第二王子は、あれで多少の知恵もあるようだ。


(恩赦の大願を、我々家臣に頼らず、独力で遂行したことがその証拠。少なくとも第一王子よりは有能のようだ。ふん……王子でさえなければ子飼いにでもするところだが、現状、邪魔なだけだな)


 そして不要な駒は、同じく不要な駒を使って盤上から排除するのが、クレメンスのやり方だった。


 当初はフェリクスを傀儡に仕立ててやろうと思っていたが、彼の愚鈍さと突拍子のなさは、クレメンスをあまりに苛立たせた。

 先王の時代には、「カウンセリング」のたびに相手を洗脳してきたものだったが――それこそがクレメンスの能力である――、フェリクスに向き合うと、その意味の分からない言動に、先にこちらの嫌気がさしてしまうのだから大したものだ。


 第一王子と第二王子に殺し合いを演じさせて、どちらも引きずり落とす。

 その筋書きをクレメンスが練りはじめるのに、さして時間はかからなかった。


 しかし――。


(グラーツ子爵夫人のブローチの入手は失敗。新しい料理長を孤立させることも失敗。どうも最近、巡り合わせが悪いようだ)


 最初クレメンスは、ルーカスと懇意の侍女長のブローチを入手し、フェリクスを害した現場にそれを紛れ込ませることによって、第二王子による暗殺説を流布させようとしていた。


 が、庭師の少年が愚かにもそれを仕損じて、しかもなぜか経緯について頑なに黙秘するため、その筋書きは捨てざるをえなかった。

 王子暗殺に加担させられかけていると、まさか彼が気付いたわけもあるまいが、妙な怯えようだった。


 それでは逆に、第一王子が第二王子を弑するという設定で、と思い、フェリクス肝煎りの新料理長のもとで毒殺事件でも起こしてやろうと思っていたのだが、下準備として彼を孤立させていたら、いつの間にか風向きが変わって、活気あふれる厨房になってしまった。

 団結力のある組織には付け込みにくい。


 極めつけに、先日のデニスの一件である。


 男爵の息子ごときに、わざわざ第一王子のコレクションを見せて馬蹄の存在を刷り込ませてやったというのに、あの愚か者は、呪具が第一王子の差し金であるということを周囲に仄めかしもしなかった。

 情報は、クレメンスを経由することなく拡散されなくてはならないというのに。


 クレメンスは苛立っていた。


(舞台が必要だ。二人の王子が醜い殺し合いをしているのだという「事実」が、誰の目にも明らかになるような、盛大な舞台が)


 そう。

 たとえば、即位式や、舞踏会のような――。


(舞踏会の最中の毒殺などどうだろう?)


 王子の居室に掛けられた年代物の絵画を見て、クレメンスはふと思いついた。


 画中では、この国の始祖が、自らの血の入ったワインを周囲に振舞い、忠誠を誓わせている。

 これは「盟約の杯」と呼ばれる場面で、即位式の前夜に今でも再現される儀式だ。


 たとえば舞踏会の場で、第一王子が振舞ったワインによって、第二王子が倒れたとしたらどうだろう。

 そこに、呪具の噂も重ねて流せば、「第一王子の殺意」はかなり信ぴょう性が高まるだろう。

 神聖なる盟約の儀を汚したとなれば、世論の反発も必至なので、これはなかなかよい手だ。


 もっとも、その場で開栓されるワインに毒物を混入するのは難しいので、実際には、ワインを飲むタイミングに合わせて「毒針を刺す」くらいのほうが現実的かもしれないが。


 絵画の横に並んだ王子の宝石コレクション――「毒の王妃」と名高かった前妃の針付きの指輪を見て、クレメンスはそんなことを考えた。


「それで相談なのだが、クレメンス。舞踏会当日、やはり主役の傍には、相応の華やぎが必要だろう? 貴族のきれいどころは、基本的に僕の傍に侍っているよう、触れを出しておいてほしいんだ。そうでもしないとルーカスのやつ、兄を立てずにすぐ女たちを攫って行くから」

「……さようでございますか。では、第二王子殿下の傍には、令嬢たちが近づきにくいよう下男たちで固めておくといたしましょう」


 思考を巡らせる間にも、フェリクスは呆れた要求を寄越してくる。

 ルーカスが女を奪っているのではなく、愚か者と評判の第一王子に女性が近寄りたがらないだけだと、本人は気付いていないらしい。


 「相談」とやらの内容は、そんな幼稚なものだったかと天を仰ぎそうになったが、クレメンスはこれも利用すべきだと考えを改めた。


 第二王子に毒針を仕込む役割は、下男の誰かにやってもらおう。

 美女がフェリクスの周囲に集まれば、冴えない王子とはいえ多少の注目は向けられる――つまり証人が増える。

 そのタイミングでフェリクスにワインを振舞わせ、とたんに第二王子が倒れれば、舞台の盛り上がりとしてもなかなかだ。


「あと、この僕が主催する舞踏会だもの。歴史に残る、質の高いものにしたいんだよね。今手配している楽団ではなく、芸術の都・ヤーデルードから、最高の楽師を招きたいんだ。ほら。前に噂になっていた……ええと、スヴァルド? とかいう音楽家がいたじゃない。彼とか」

「……ヨーラン・スヴァルド氏のことですか? ですが彼は――」

「神に愛された天才ヴァイオリニスト、だよね。僕の舞踏会を彩るのにぴったりだろう」


 超絶技巧を誇る、それも「孤高」と噂の天才ヴァイオリニストが、ダンスの添え物として、没個性的にひたすらワルツを刻み続けたがるわけがなかろう。

 舞踏会と音楽会は違うのだ。


 クレメンスは喉元まで叫びかけたが、それも堪えた。


 これも利用してやるのだ。

 スヴァルドには活躍の場を与えてやるとしよう。

 クレメンスが彼に合図をし、スヴァルドが目印となる音を奏でたその瞬間に、下男に毒針を刺させる。


 スヴァルドを間に挟めば、クレメンスは下男と視線を合わせる必要すらなくなるので、ますます彼に疑いが向くことはなくなるだろう。

 有能な人間というのは、ばかげた要求すらも織り込んで、自分の利益を確保するものなのだ。


(好きにほざくがいいさ、愚鈍王子よ。おまえの最期の望みだ、謹んで叶えてしんぜよう)


 ここルーデンで、王族殺しは、たとえ王であってもご法度だ。

 第二王子を殺害したとなれば、フェリクスの王位剥奪、あるいはそれこそヴァルツァーへの投獄くらいありえるかもしれない。

 そうすれば次代となってもクレメンスの天下である。


 業突く張りの老侯爵は、表面上は穏やかに王子に従いながら、腹の中では忙しく諸々の算段を着けはじめた。





「あ、あの、フェリクス王子殿下……」


 クレメンスが去ったのち、掛けなおしたばかりの絵画に再び手を伸ばしたフェリクスを見て、侍女は恐る恐る声を掛けた。


「位置を調整なさりたいようでしたら、わたくしどもがいたしますので。どうぞ、これ以上このような仕事は――」

「調整してるんじゃないよ。捨てるんだ」

「は?」


 わざわざ目立つ位置に引っ張り出してきた年代物の絵画を、今度は捨てるなどと言いだす。

 その真意を掴みかねて眉を寄せた侍女に、フェリクスは軽く笑って答えた。


「もう、こいつの役目は終わったからね」

「は……?」


 相変わらず、言っていることがさっぱりわからない。


 戸惑う侍女をよそに、フェリクスは腕まくりまでして、模様替えを再開した。

 今度は部屋の中央に、なにやら不要そうなものを集め出して、徹底的に捨てる作業をするつもりであるらしい。

 その不用品の中には、先ほどの絵画や、高価な宝石の付いた指輪まで入っている。


「あの、殿下……! もう、どうか、このあたりで……!」

「えー。やだ」


 取りすがる侍女に、フェリクスは相変わらず間延びした口調で続けた。


「僕はね。片づけは大嫌いだけど、するとなると――徹底的にゴミを出しきりたいタイプなんだ」


 どこか遠くを見ているような、視点の定まらぬ緑の瞳。


 けれど、よくよく目を凝らせば、そこにはぞっとするほど冴えた光が浮かんでいるようだった。

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