19.狂博士の妹

「あん、もう。忌々しい聖職者ビショップだこと」


 薄暗い監獄の一室。

 贅をこらした居住空間へと作り変えられたそこで、ハイデマリーは今日もチェスに興じていた。


 ただし、珍しく相手はギルベルトではない。

 上等なソファに背を沈みこませているのは、三十を少し超えるかというくらいの、鳶色の髪の青年だった。

 くりっとしたはしばみ色の瞳に、不敵そうな口元。

 にやりと笑むと、まるでいたずら盛りの少年のような顔つきになる。


「いつまでも自分の天下だなんて思わないことだね、マリー」

「もう。ホルストったら、ゲームの勝利にまで貪欲なのだから」


 拗ねるハイデマリーに肩をすくめてみせたのは、仲間内からは【貪欲】のあだ名で呼ばれる人物――ホルスト・エングラーだった。


 幼少期から奴隷や犯罪者を買い集め、人体実験を繰り返したかどで捕らえられただけあって、頭脳は明晰であるらしく、不敗を誇るハイデマリーを容赦なく追い詰めているのである。


「まいったわねえ。騎士ナイトはともかく、わたくしのかわいい黒の女王クイーンまで危ないじゃないの」

「……気付いてると思うけど、その女王の立ち回りにこだわらなければ、あっさり勝ててたよね?」

「そんなことではつまらないじゃない」


 不思議そうに返されて、ホルストは鼻白んだように顎を引いた。


「チェスにおいて、勝敗よりも優先するものってある?」

「欲しがるだけの坊やには、美学なんてわからなくってよ」


 嫣然と言い切るハイデマリーには、並みの男には太刀打ちできない迫力がある。

 悔しくなったのか、ホルストは「はいはい」と両手を上げた。


「どうせ僕には、あなたの考えなんてさっぱりわからないよ。あんなにかわいい妹をあっさりと追い出してしまえる、残酷な母親の考えなんてね」

「あら」


 細い指を唇に当てて考えていたハイデマリーは、その言葉にふと視線を上げる。

 そして、猫のように目を細めた。


「やっぱり拗ねていたのね。しばらく実験室に閉じこもっていたのは、わたくしと口を利きたくなかったから?」

「悪い?」

「いいえ。かわいいわ」


 妹を大切にする兄って、とっても素敵だもの。

 完璧な形の唇が紡ぐフレーズは、砂糖菓子のように甘い響きを帯びていた。


 ホルスト・エングラー。

 またの名を、狂気の少年博士。


 裕福な商家の妾腹に生まれた彼は、その財力と頭脳を利用して次々と人体実験を繰り返した、精神異常者だと有名であった。

 だが、その実験の動機が、暴漢に襲われ昏睡状態になった妹にあったことを知る者は少ない。


 少し目を離したすきに攫われ、壊された妹。

 当時かろうじて流通していた魔石と、独自に編み出した医療技術を組み合わせて心臓の動きを維持し、意識を司る脳の機能を探求するために、ひたすら他人の頭蓋を開いた。


 医者としてならば、そして対象が死者や罪人だけだったならば、あるいは黙認されたかもしれない行為。

 だが、かつて妹を襲った犯人を見つけ出し、高貴な身分であったその男の脳を蹂躙したことで、ホルストの実験の数々は「犯罪」の烙印を押されることになった。


 彼の場合、逃げようと思えば逃げられたのだろう。

 それこそ、金の力を使うか、密かに蓄積させていた高度な医療技術を取引材料として。

 しかしそうしなかった。

 ある日、あっけなく、魔石の寿命とともに彼の妹は息を引き取ったからだ。


 もう、なにもいらない。

 輝かしい未来も、命さえも。


 そうやって水すら取らずに牢獄に繋がれていた彼に、ある日ハイデマリーが話しかけたのだ。


 ――本当に? かつて、神の領分をも冒して知識を、生をほしがったあなたが、その貪欲さを燃え尽きさせてしまったというの?


 無言で視線だけを向けたホルストの腕を掴み、ハイデマリーは己の腹に触らせてみせた。


 ――ねえ。ここ。

   ここではね。今、新たな命が育っているの。

   死者を生者へと蘇らせることはできなかったかもしれない。

   けれど、それにも匹敵する、無から有を生み出す奇跡が、ここで起こっているのよ。


 彼女は、まだ少年であったホルストをそっと抱きしめ、まるで聖母のごとき声で囁いた。


 ――あなた、本当は償いたかったのでしょう。育て、慈しみたかっただけなのでしょう。

   ……いいわ。叶えてあげる。

   わたくしと一緒に、この子を育てていいわ。


 育てていいだなんて、よくわからない労働を押し付ける、傲慢にすぎる言葉。

 なのになぜかそのとき、ホルストは全身で感じたのだ。


 許された、と。


 その後監獄を掌握し、ハイデマリーのお産を手伝い赤子を取り上げたとき、彼は久しぶりに涙を流したことを覚えている。


 人間の技術を重ねてもはるかに及ばなかった神の御業。

 誕生。または生命。

 大きな産声とともにこの世に現れた彼の「妹」は、まぶしいほどの力強さに溢れていた。


「――まあ、正直ここまで過保護になるとは思わなかったけれど」

「なに言ってるの? 僕はいつだって、かわいい『妹』に必要最低限な保護を提供しただけだよ」


 チェス盤を眺めながらハイデマリーが嘆息すれば、ホルストは即座に言い返す。

 のみならず、彼は心底心配そうに眉尻を下げた。


「ああ、エルマ。風邪を引いたりしていないかな。あれで結構うっかりしてるから、転んで擦り傷とか作ってなきゃいいけど。麻酔をもっと持たせてあげればよかった」

「ねえ。擦り傷に麻酔で対処するな、だなんて無粋な突っ込みをさせたいの?」

「悪い虫がついたらどうしよう。眼鏡の屈折率をいじって、かなり不美人に見えるようにしたつもりだったけど。護身用に毒針も仕込んどいたほうがよかったよね、絶対。大後悔だ。駆除しにいったほうがいいかな?」

「ねえったら」


 竜を一撃で倒し、柄の悪い囚人たちのこともきっちりと締めていたエルマだ。

 そんな彼女に言い寄る男がいたなら、それは随分と出来のよい虫である。

 というか母親としては、十五の娘には恋のひとつもしてほしいところだった。


 はあ、と切ない溜息を漏らすホルストに、ハイデマリーは細い肩をすくめた。


「まったくもう。どうして兄から妹に向ける愛って、こうも暑苦しいのかしら。エルマはもう、はいはいしかできない赤ん坊ではなくってよ」

「僕からすればそんなようなものだよ。それに『兄から』とは言うけど、【嫉妬】の例を見たら、暑苦しさに性差なんてないと気付くはずだ」


 小気味よく言い返すと、ハイデマリーは大げさに胸を押さえる。


「いやだわ、ホルスト。【嫉妬】が女性だとでも言うつもり?」

「男性ではないよね」

「女性でもなくってよ」

「でも自称、『監獄一のイイ女』らしいから。本人の意思は尊重しないと」

「まあ、監獄一ですって?」


 ハイデマリーはそこでまた拗ねたように唇を尖らせた。


「彼ったら、そうやってなにかとわたくしを挑発してくるのだから」

「乗るような勝負でもないでしょうに」

「だって、女をかけた争いと聞くと、つい無視してはいられないのだもの」

「知ってるよ。それに巻き込まれるのはいつもエルマだ、っていうこともね」


 たとえば化粧の仕方。服の選び方。

 髪の結い方、香水の利き方、歌い方。


 どちらがより女性美を体現できるかの勝負は、エルマが成長するにつれ、「どちらがよりエルマを女性として魅力的に育てられるか」の勝負になぜか変化していったのだ。


 おかげでエルマは、あるときは蟲惑的な魅力を振りまく娼婦に、またあるときは清楚な笑みを湛える聖女に、と日替わりのようにイメチェンをさせられ、見守る側のホルストとしては気が気ではなかった。

 おそらくやらされている本人も、あれでは自分のキャラクターをどの方向に形成すべきか掴めなかっただろう。

 ホルストが「かわいそうに」と呟くと、麗しの元娼婦は、優雅に首を傾げた。


「でもおかげで、あの子はきっと、大国の王子様だって一瞬で魅了できる女に育ったと思うのだけど」

「マリーはさ、自分の娘をいったい何にしたかったわけ。僕の大事な妹に、変な教育しないでよね」


 ホルストは半眼で突っ込む。

 ここの住民は全員が全員、「自分が一番の常識人だ」と思っているあたり、救いようがなかった。


「あら」


 ハイデマリーは、さも意外なことを問われたとでもいうように長い睫毛を瞬かせる。

 そして、盤上に佇む黒の女王をそっと指で撫でながら、薄く笑みを浮かべた。


「決まってるわ。『普通の女の子』にしたかったのよ」

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