18.「普通」の手当て(6)
「まったく……こんなところだけ急に『普通の女の子』になってくれるなよ」
小柄な侍女を、寝台にそっと横たえてやりながら、ルーカスはぼやいた。
昼下がりの侍女寮。
エルマの自室である。
気絶した後、幸い彼女はすぐに意識を取り戻し、その手の対応に慣れた若手の騎士に手伝われながら、大量の水を飲んだり吐いたりを繰り返していた。
そうして、なんとか症状が軽くなったと思われた時点で、疲れからか眠ってしまったのである。
医導師に診てもらえればよいのだが、内臓が損傷したなどの場合は別として、基本的に「酔い」は癒しの対象とはならない。
となると、できるのは「普通の医師」による診療くらいなものだが、すでに応急処置は済ませてしまって、アルコールはほとんど排出したので、あとは寝かせてやるくらいのものである。
結局、それならば自室で休ませてやろうという話になり、しかしながら寮の四階まで侍女仲間に眠ったエルマを運ばせるのも不可能なので、ルーカス自らが運搬を名乗り出たというわけだった。
ぐったりと横たわる少女を、ルーカスはやれやれと見つめた。
エルマ。
監獄で生まれ、育った少女。
最初はただの哀れな弱者だと思っていた。
だが、ふたを開けてみれば、微表情を読むわ、まぐろを釣るわ、外科手術をするわ。
いったいどんな教育を施されれば、こんな仕上がりになるのか、ルーカスとしては監獄に立ち入り調査のひとつもしてみたいところだ。
が、「監獄内に極めて高度な教育を施せる人物がいる」という事実は、芋づる式に不都合な真実――たとえば、陰謀の存在に繋がる可能性がある。
享楽的な第二王子に徹することで、これまで地位や安全を守ってきた自分が、それをかなぐり捨てて陰謀を明らかにするというのには、いささかのためらいがあった。
あとは純粋に、彼女の監獄出身という出自を徹底的に抹消していることもあり、表立ってはそこに踏み込むことができないという事情もある。
ただ、ルーカスは、あの監獄について、たしかにきな臭いなにかを嗅ぎ取ったのだ。
違和感があり、いびつ。
実像を歪めているのは、こちら側の人間かもしれないし、――あるいは監獄側の人間かもしれない。
そう遠くない未来、自分がそのあたりの事情に介入せざるを得ないことを、ルーカスは予感した。
(……いずれにせよ)
首をゆるく振って、思考を切り替える。
目の前の現実として、寝台に横たわっているのは、幼く小柄な少女だった。
彼女の背景はきな臭いが、しかし、彼女自身は悪意のない人間であることを、これまでの付き合いで理解している。
やることなすこと突拍子がないし、すっかり自分自身、彼女を未知の生命体かなにかと思いかけている節もあるが、実際には、まだ十五の少女なのだ。
「……悪かったな」
小さく、詫びる。
意外なほどにきゃしゃな体の少女は、ただ眠りつづけるだけだった。
ルーカスは、寛げられた襟元をなんの欲も覚えずに眺め――だって、冴えない外見の、性格的にも可愛げのない地雷めいた少女を、どうこうする気にはなれない――、ふと、あることに気付いた。
(……鎖骨の辺りから、肌の色が違う……?)
普段はメイド服の立て襟に隠された、胸元。
その肌が、はっとするほど白いように思われたのだ。
(いや……待てよ。そういえば、手も……)
手術をするときから、妙に腕が白いなと思っていたのだ。
そのときは、それ以上に気にすることが多すぎて、追及はしなかったが。
「…………」
ルーカスは無言で眉を寄せた。
今、むき出しになっている腕は、血管が青く透き通るような美しい色をしていて、とても偽物とは思えない。
となれば、こちらのほうが「素」の肌だ。
(ということは……)
ルーカスは衝動的に、枕元にあった水の瓶を己の袖に傾けて、濡れた布で彼女の頬を強く拭ってみた。
――たちまち、真珠のような美しい肌が現れた。
思わず目を見開く。
エルマ。
くすんだ肌に陰気な表情の、「ぱっとしない」はずの少女。
だが、そう。
以前、その唇の形が、美しいと思ったこともあったのだ。
ルーカスは、ゆっくりと眼鏡に手を伸ばした。
もはや顔と一体化しているような、印象の大部分を占める二つのガラス。
この下の素顔は、いったいどうなっているのだろう――。
(なにが素顔だ。ある程度は透けて見えているではないか)
どこか胸をざわめかせてしまった自分に、頭の片隅で苦笑しつつ、そっと眼鏡を外す。
そうして、息を呑んだ。
「――……!」
そこには、妖精か使徒かと言われても信じてしまいそうな、圧倒的に美しい顔があった。
艶やかな黒い前髪の下には、ふわりと自然な山を描いた眉。
滑らかな弧を描いた長い睫毛に、高い鼻梁。化粧という名のくすみを落とした肌は、
眼鏡は、まるで
「――……うさま……?」
そのとき、すうっと瞼が持ち上がって、ルーカスははっと我に返った。
初めて見た彼女の瞳は、夜明けの色。
青とも、濃紺とも、紫ともつかない、深みのある、いつまでも見つめ続けたくなるような色だった。
エルマはその瞳をぼんやりとさまよわせ、やがてルーカスの黒髪を視線で撫でるようにして眺めると、ぽつんと呟いた。
「おとうさま」
そうして、ふわりと、蕾が綻ぶような笑みを見せた。
「――…………!」
どうやら、寝ぼけて父親と勘違いしたらしい。
完全に心を許しきったその表情は、女馴れしたルーカスですら黙らせる破壊力があった。
「…………おい――」
「わたし。がんばって、きますから」
なにかを言いかけた、それをエルマに遮られてしまう。
彼女は、ふわふわと夢見心地の表情のまま、続けた。
「ふつうの、女の子というものを……理解して……はやく」
すうっと、また瞼が下りてゆく。
「はやく……おうちに、かえり……」
そして、再び眠りに落ちた。
しん、と、部屋に沈黙が満ちる。静かな空間の中に、幼い寝息だけが響いた。
「……嘘だろう」
つい、独白が漏れる。
ルーカスは、無意識に右手で顔の下半分を覆っていた。
ぱっとしない、突拍子もない、可愛げもない少女。
いろいろと人外の域に差し掛かっている、人を混乱の渦に叩き込む存在。
なのに、不覚にも、
「……かわいいじゃないか」
好ましく、思えてしまった。
そのとき、階下から勢いよく階段を駆け上がる足音が聞こえてきて、ルーカスははっと顔を上げた。
意味もなく慌てて部屋を出る。
こちらに向かってきていたのは、髪を振り乱したイレーネだった。
「エルマ! あなた、倒れたっていったい――えっ? ルーカス王子殿下!?」
扉が開いたのを本人と勘違いしたイレーネが、叫び声を上げかけ、それを詰まらせる。
事態を追及される前に、ルーカスは端的に、
「倒れたので運んだ。今は眠っているだけだ。俺は行くから、ゲルダによろしく頼む」
そう告げると、足早にその場を去っていった。
イレーネはしばらく扉の前で困惑していたようだったが、やがて、扉を開けなおす音が響き――
「――……地上に天使がいるんですけどおおおおおおおおお!?」
ちょうどルーカスが階下にたどり着いたとき、寮全体を揺るがすような叫び声を響かせた。
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