21.「普通」のダンス(2)
シフトにもよるが、王宮付き侍女の仕事は、夜の鐘が八つ鳴ったあたりで終了する。
遅めの夕食を取ったら、その後は自由時間だ。
明け方には起き出さねばならないので、たいていの者は早々に寝床についてしまうが、体力と話の種を持て余した若い侍女は、互いの寮室を行き来して、おしゃべりに興じることもある。
エルマはもっぱら早く寝る側の人間だったので、彼女の部屋は深夜ともなると寝息しか聞こえないのが常だったのだが、この日ばかりは様子が違っていた。
「さあ、エルマ。答えてちょうだい! あなたはどちらのドレスで舞踏会に出るのか――私との友情と、グラーツ侍女長との上下関係、そのどちらを優先するのかを」
「およしなさい、イレーネ。そういう言い方をするものではありませんよ。これは人間関係の問題ではなくて、単純にセンスの善し悪しの問題なのですから。――ねえ、エルマ?」
小ぢんまりとした寮室に、イレーネと、そしてなぜかゲルダまでもが押しかけて、エルマに詰め寄っているのである。
彼女たちは二人とも、両手にドレスを握りしめていた。
「はあ……」
対するエルマはといえば、困惑気味である――といっても、分厚い眼鏡に覆われているため、よくわからないが。
就寝準備をすませたあとに、二人の女性に突撃された彼女は、不思議そうに首を傾げた。
「そもそもなのですが、なぜ私までもが、即位式前夜の舞踏会に出席することになっているのでしょうか」
その問いに、イレーネとゲルダはそろって声を荒げた。
「なにすっとぼけたことを言っているの! 凡愚王子――もとい、心優しいフェリクス王子殿下の思いつきのおかげで、王宮の使用人は全員舞踏会に参加できることになったということ、まさかあなた、知らないわけじゃないでしょう!?」
「そうですよ! 若い娘や恋人のいない青年はもとより、わたくしのように社交界を離れた者たちだって、ちょっぴり、いえ、かなりそわそわとしているというのに」
そうなのである。
フェリクスおよびクレメンス・フォン・ロットナーの差配により舞踏会への参加が許された者たちは、ここ数週間というもの、ドレスや髪型、登場のタイミングについてずっと心を悩ませているのだ。
特に、王宮付き侍女といえば下級貴族の子女も多い。
彼女たちにとって舞踏会は、一気に「大物」を、しかも正々堂々と釣り上げるまたとないチャンスであり、その気合の入りようは凄まじいの一言に尽きた。
「いえ、ですが私は、当日はゲオルク料理長を手伝って、厨房にでも回ろうかと――」
「もちろん一番人気は、婚約者も高すぎる次期王の身分もない、気さくなルーカス王子殿下。けれど、あまりの人気の集中ぶりに、ベテラン
「いえですから――」
「なにもその場で殿方を釣り上げるばかりがゴールではありません。舞踏会の場で特筆すべき美貌や佇まいを見せられれば、のちのちの縁談に有利になるばかりか、王宮内での立ち位置も向上し、給与の増分だって見込めなくはないのですよ」
エルマが冷静に遮ろうとするのを、その横からさらにふたりが遮る。
イレーネもゲルダも、それぞれよかれと思って参加を勧めてくれていることはよくわかった。
「ええと、ですが、舞踏会は強制参加というわけではありませんし、私としても、とくに縁談や給与増分を目指しているわけでもないので――」
「そこよ!」
丁寧に断りを入れようとしたら、びしりと指を突きつけられた。
顔を上げた先では、イレーネが猫のような緑瞳に真剣な表情を乗せて、こちらを見ていた。
「あなたのように有能で、しかも……信じられない美貌の持ち主が、どうしてそうやって夢を諦める必要があって? 天の采配ともいえる素質を持ち合わせながら、女の頂点を目指さないなどという法はないわ!」
価値観の根底が武闘派だ。
どうも彼女には先日素顔を見られてしまったようで、以降執拗に「なぜ隠すの女性として他者を圧倒したくはないのいいえ目指しましょう女の頂点を!」的なお誘いを受けているのである。
いえですから、と再度説明を試みたところ、今度は手を握りしめられた。
「皆まで言わずともよくってよ、エルマ。私……本当はわかっているの」
「は?」
「あなた……ひどく厳しい修道院で、箱入りで育ってきたのでしょう?」
「……は?」
自分の出自について、なぜそんな設定が補完されているのかわからない。
エルマが思わず言葉を失っていると、イレーネは真顔で頷きかけた。
「あなたがときどき言う『シャバ』という言葉。これって、俗世のことを指すらしいわね。つまりあなたは、俗世とは隔離された環境にいた。それも、教育水準に優れた、複数の
そうして、思いっきり決め顔で言い放った。
「過ぎた美貌は色欲に繋がるわ。ならばそれを隠すよう教育されたというのも頷ける。妙に世間知らずな態度。ときどき見せる行き過ぎた遠慮。辺境の地には、修道女や孤児に虐待まがいの躾をして、取り潰しとなった修道院もあると聞くわ。間違いない――あなた、その修道院出身なのね?」
「あー……」
思いっきり外しているが、まあ、監獄出身というよりは思いつきやすい選択肢だったのだろう。
見れば、ゲルダは「とりあえずそういうことにしておきなさい」とさかんに視線で合図してくる。
そこで、エルマは曖昧に頷いた。
まあ、箱入りというのが「ブタ箱」なら正解だ。
「……そうですね。そんな感じです」
「やっぱり!」
とたんに、イレーネがぱんと手を叩き合わせる。
彼女はその後、改めてドレスを握りしめた。
「ならば、エルマ。私はあなたに何度でも言いたいわ。そこで詰め込まれた貞淑や謙虚の教えは行き過ぎていると。生まれ持った美貌才覚は、活かすことこそ世の定め。あなたのその美貌と才覚は、今こそ花開く時を迎えつつあるのだと……!」
「無理強いするものではありませんが、私も同意見ですよ、エルマ。あなた自身の能力や存在が認められれば、あなたの『出自』について人がなにかを言ってきたとしても、それを跳ねのける盾になるのだから」
いたずらに顔を見せてはいけないと言ったけれど、ここぞというときに切り札を使うことになんの問題がありましょう。
ゲルダまでもがそんなことを言い添えてくる。
エルマ自身は、監獄出身であることについて後ろ暗く思うことなどなかったが、ゲルダがそのような反応を示すからには、きっと世の中では、監獄育ちという出自は隠してしかるべきものなのだろう。
エルマがちょっと黙り込んだのを了承と取ったらしく、イレーネとゲルダはますます勢いづいてドレスのプレゼンを始めた。
「――で、天下一
「若いわね、イレーネ。よいですか。殿方というのはね、清楚な装いからほのかに漂う色香こそを求める生き物なのです。よってわたくしのお勧めは、この生成りのエンパイアライン。一見飾らない無垢なスタイルでありながら、背中は大きく開いたこのギャップ。それによってルーカス様のハートをねらい打つのです」
「いえあの、なぜそこで殿下……?」
エルマの眼鏡が困惑気に光る。
ふたりがエルマの態度を遠慮と捉え、目立たせようとしているのは理解できた。
とはいえ、一介の侍女が、なぜ一国の王子のお相手を目指すことになっているのか。
疑問をぶつけると、イレーネは呆れたように息を吐きだした。
「なによ、本人が知らないってどういうこと? 前妃殿下のお気に入りで、全方位に万能。海に出ればまぐろを釣り上げ、騎士に出会えば傷を癒し、素顔は謎に包まれた歩くミステリー・エルマって、今ではちょっとした有名人よ。ルーカス王子殿下も気にしはじめたようだ、ってね」
「え」
「上位貴族の御令嬢たちって、私たち以上に嫉妬が激しいから、これでも私、貴族たちにはあまり噂が広まらないよう努力していたんだけど。でもあなた、この前殿下に抱きかかえられて侍女寮に運ばれたじゃない? あれを、よりによって伯爵家のお嬢様がご覧になってしまったらしくって。彼女、ダンスが得意でこの舞踏会に賭けているものだから、取り巻きまで動員して、あなたに嫌がらせでも仕掛けてくるかもしれないわ」
かつての自分と重ねたのだろう、イレーネはそこでむうっと難しい顔になった。
「……心配なのよ、あなたのことが。頂点を目指してほしいのも事実だけれど、それ以上に、彼女たちを牽制というか、蹴散らしてほしいの。あなたたちなんか目じゃないわよって。まあ……かつて嫌がらせをしてしまった私が言うのでは、信じてもらえないかもしれないけれど」
「え……。嫌がらせなんてされましたっけ」
「…………まずはそこから話し合いましょうか」
イレーネがあからさまに脱力する。
その様子にふとある懸念を覚えて、エルマは念のために尋ねてみることにした。
「つかぬことをお伺いいたしますが、床や靴に針を忍ばせておくというのは、『針仕事、頑張ってね(はぁと)』という激励の行為ではなかったりしますか?」
「は!? 嫌がらせのモデル事例じゃないの!」
「では、行く先々で頭上から突如水が降ってくるのも、『今日は暑いから打ち水しとくね(はぁと)』といった、心温かな行為ではなかったりしますか?」
「心を折る行為だわよ! なにそのポジティブ!」
イレーネがぎょっとして叫ぶのを聞き、エルマは神妙な表情で頷いた。
「……なるほど、私はすでに嫌がらせに遭っていたようです」
針は回収して有効活用していたし、水も手近な鉢やバケツで受け止め、ありがたく水撒きなどに使っていたので、まさかそれが嫌がらせだとは気付かなかったのだ。
ふたりの懸念も、あながち的外れなものではないのだとひとまず理解したエルマは、質問の矛先を変えてみた。
「ご懸念は理解しましたが、堂々とした姿を見せつけるのが目的というのなら、別に殿下のお相手まで目指させる必要はないのでは。むしろ侍女長はよく殿下に女遊びを控えるよう忠言していらっしゃいますし、イレーネ。あなただって、殿下のファンなわけですよね?」
問うてみると、それぞれ苦笑交じりの答えが返った。
「わたくしは昔から、殿下が女性を手のひらで転がすところばかりを見てきました。乳母としてはそんな殿下が心配ですし、この機会に一度逆の立場を味わっていただき、彼に真っ当な殿方になってもらいたいのです」
「私も、以前の殿下は微チャラ俺様系キャラで一番の推しだったのだけれど、最近の殿下は苦労性タグが加わってもはやオカン属性っていうか微受けっていうか。ほら、私、リバって駄目な人じゃない?」
「……イレーネの主張がよく理解できなかったのですが、これは私の読解力に問題があるのでしょうか」
ゲルダにも「逆の立場ってなんですか」みたいな突っ込みを入れたかった気がするが、イレーネの暴投によって吹き飛んだ。
微妙な思いを噛み締めながら尋ねると、
「この子の妄言は気にしないでよろしい」
「この世界の深淵を、やすやすと理解できるだなんて思わないことね」
両者からしたり顔で頷かれた。
と、いつまで経っても一向にドレス選びが進まないことに焦れたらしい。
イレーネが「それで」とおもむろに距離を詰めてきた。
「今一度聞くわ。どちらのドレスを着てくれるの? 言っておくけれど、参加資格も着ていくべきドレスもある以上、あなたに舞踏会を欠席する選択肢などなくってよ」
「ええ……」
「エルマ。わたくしからも言っておくけれど、舞踏会に出て周囲から見初められるというのは、普通の女の子ならば誰もが夢見る、王道の未来予想図ですからね? 貸した小説でも、そんなエピソードが多かったでしょう?」
普通、誰もが、王道。
最も有効な魔法のワードをちらつかされ、エルマが一瞬黙り込む。
手ごたえを感じたふたりが、一層前に身を乗り出したそのとき、
「――そうでしょうか」
しかし彼女はついと眼鏡のブリッジを押し上げた。
「え?」
「夫人には申し訳ないのですが、以前お貸しいただいたロマンス小説は、社会常識や情操教育の教本としては妥当ではないとの指摘を、ある方から受けまして。新たなルートから、別の教本を確保しました」
そう言ってエルマが布鞄から取り出した「あるもの」に、二人は大きく目を見開いた。
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