11.「普通」の手料理(6)
「なあ、おい。――エルマ」
すっかり腹の満たされたユリアーナや使用人たちが散会し、エルマがイレーネに手伝ってもらいながら調理台を片付けていると、先に片づけを終えたゲオルクが話しかけてきた。
「その……昨日は、どなりつけて、……悪かった、な」
ただでさえ慣れないルーデン語で、慣れない謝罪の言葉を口にするものだから、すっかりブツ切れの口調になってしまう。
だが、エルマはそれを気にすることなく、滑らかに手を動かしながら、
「いえ。こちらこそ、不用意に料理長の持ち場を荒らしてしまい申し訳ございませんでした」
淡々と答えた。
「いや、それ、言うなら、自分の縄張りに、侵入を、許した、俺、いけない。その時点で、気付くべき、だったし、叱る、べきだった」
ゲオルクがきちんと厨房を掌握できていたならば、そもそも起こらなかった事態のはずなのである。
詫びの代わりに、これからは自分のいるときは好きに厨房を使っていいと言ってみたが、その破格の申し出よりも、ゲオルクが「これからは俺が厨房を締める」と宣言したときにこそ、エルマは満足そうに頷いた。
――眼鏡のせいで、あまりよくわからないが。
「素晴らしいことだと思います。統率の取れた協調性ある職場では、不正は起こりにくいと言いますから。これで、王城内の毒殺リスクも限りなく低減されるでしょう」
「あん……?」
エルマは、自分が
こういった形で、王子に少しでも借りを返せるなら、大変結構なことである。
受けた恩は返す。
至極真っ当で、普通のことだ。
エルマは真顔ながらもご満悦であった。
なにやら自己完結してしまっているエルマに、困ったのはゲオルクのほうだ。
この侍女の思考が読めない。
というか、冷静になって考えてみれば、彼女のやることなすことに対して理解が追い付かない。
そういえば、彼女の圧倒的技量に対していまだコメントできていなかったことを思い出し、ゲオルクは口をもごもごとさせながら、不器用に誉め言葉をひねり出した。
「その……おまえ、見事、だったな。正直、感心、したよ」
「過分なお褒めのお言葉を頂戴し、恐縮に存じます」
「いや、本当だ。サンドの出来栄えも、そうだし、それ以上に、あの包丁捌き、油捌き……。正直、何度も、口が顎から、外れる、思った。いや、あの巨大まぐろが、出てきたときから、すでに」
ルーカス王子はゲオルクの集中力を褒めてくれたものの、平時であれば彼だって、腰を抜かしていただろう。
それほどの、異常な光景だったのだ。
「おまえ、いったい、あの技術、どこで、身に着けた?」
「あの技術……と、仰いますと?」
「だから。巨大なまぐろ、釣ってきたり、解体したり、揚げたり、挟んだり。そういう、技術だよ。まったく……。聖力か、そうじゃなきゃ、失われた魔力でも、使ったのか、思った」
聖力とは、教会の高位導師だけが、神の恩寵を譲り分けてもらい行使できる力。
そして魔力とは、かつてこの大陸に禍を撒き散らした魔族だけが持ち、彼らの滅亡とともに失われたとされる力だ。
魔力は歌劇や小説の世界では好んで扱われる題材だが、今のこのご時世、そんなものを信じている人間はいない。
学校にも行っていなかったようだし、と不思議に思ったゲオルクが尋ねると、
「え……?」
エルマは困ったように首を傾げた。
「まぐろを育てながらその様子を観察し、最終的に釣って食べる、というのは、どこの家庭でも見られる、食育のひとつなのではないですか?」
「……おまえの、家は、漁師か、なにかか?」
「いえ。食育の対象のうち、海洋生物はまぐろとクラーケンだけでしたから、漁師ということではないかと」
『クラーケン!? 導師が十人がかりでも倒せないっていう、あのクラーケンか!?』
ゲオルクがぎょっとして、思わず母語で聞き返す。
横で聞き耳を立てていたイレーネまで、つい一緒に声を上げてしまったが、彼女はエルマが「倒せない……?」と首の角度を深めるのを見て、あ、と思った。
この流れは、「あれ」が来るぞと。
「クラーケンは、毎年夏になると馬鹿みたいに釣れるタコの一種ですよね。もしや、……シャバのお方というのは、クラーケンを捌くくらいのこともできないのですか? 料理長でも?」
『――……………………はい?』
こわもての料理長がぽかんと口を開ける。
彼は五秒ほど、奇妙な表情のまま固まっていたが、やがて止まっていた呼吸を再開し、ちょっと不機嫌そうにエルマの頭をはたいた。
『……ったく、ルーデンのジョークはわかりにくいんだよ』
「え」
エルマとイレーネの呟きが重なる。
けれどおかげで、ゲオルクと王城の精神的平和は、この日も保たれたようだった。
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