10.「普通」の手料理(5)

 朝早くから起き出し、いま昼どきを迎えつつある彼らのソウルを、この明らかにハイカロリー・高塩分の一品は、激しく揺さぶってきた。


『おい……、エルマとやらよ、話が違うじゃねえか。高貴なる方々への料理のはずだぞ? 使用人どもを懐柔して、点数稼ぎするつもりか?』


 エルマの大活劇の傍らで、貴重な氷を使って丁寧にヴィシソワーズを冷やしていたジョルジュは、目を細めて声を荒らげた。


 彼は腹芸を嫌う男だ。

 神聖な勝負を、ごますりでくぐり抜けようとするのだとしたら、到底許せるものではなかった。


 が、調理台に群がろうとする使用人たちから、王族献上分とおぼしき量をひょいとかばったエルマは、滑らかなモンテーニュ語でこう返した。


『懐柔ではありません。あなた様と私では、高貴なる方々の定義が異なるだけです』

『ああ……?』


 その流暢さと内容に、ジョルジュは眉を寄せる。

 するとエルマは、自らの腕に確保していたサンドのうち、ひとつを差し出してきた。


『私には苗字がない。厳密に言えば戸籍も、故郷と呼べる町もなく、平民でも通える学校というものに通ったこともありません。本来なら、このような場所で働くことなど、とうてい許されない身分の人間です』

『なに……?』

『ですから、その私からすれば、激しい研鑽と競争の末に王宮での職を得た人々は、皆、高貴なる方々です。――あなた様も含めて』


 眼鏡で覆われていて瞳の色すら判別がつかないが、それでも、真剣にこちらを見つめていることはわかった。

 まっすぐにサンドを差し出す腕や、その発言に、嘘偽りがないことも。


『誇り高きジョルジュ・ラマディエ料理長。どうぞ、私からの心づくしの品を、ご賞味くださいませ』


声は静かだったが、小柄な身体からは、迫力とも呼べるなにかがにじみ出ていた。


 ジョルジュはそれに圧される形で、無意識にサンドを受け取った。

 そして、ユリアーナやルーカスがサンドを差し出され、興味深そうに口に運ぶのを見つめながら、自らもそれを頬張ってみた。


『――……!』


 うまい。


 袋状に開かれたナンは、見た目よりも柔らかくもっちりとした食感があり、噛めばほんのりと甘い小麦の香りが口に広がる。


 歯を立てて、ザクっとフライの衣を噛み破れば、たちまち塩気のきいた脂がじゅわりと舌の上を走った。

 それを、どっしりとしたタルタルソースや、さりげなくレモンをきかせた細切りのキャベツの食感が、追いかけてくる。


 観客席でも同様の感動が広がっているようで、あちこちから「うおおおお!」という魂の雄たけびが聞こえてくるが、ジョルジュはそうしたい衝動をぐっとこらえた。


 自分はプロだ。

 うまいものに巡り合ったら、感涙にむせぶよりも先に、分析に励むべきだ。


『…………』


 料理人としての味覚からすれば、油は少々くどすぎだ。

 これだけ脂の乗ったまぐろを使うならば、むしろ揚げ油は極力落としたほうがいい。

 ソースに十分塩気があるから、衣やキャベツにここまで塩を混ぜる必要もない。


 だが――、


(このこってり感と、がつんときいた塩気が……たまらなくうまい)


 朝から準備に奔走し、夏の太陽に晒されながら調理していたジョルジュは、自分がいつも以上にカロリーと塩分を欲していたことに、今更気付いた。


 同時に、あることに思い至ってはっと顔を上げると、調理場に戻ってきたエルマがそれを肯定するかのように頷いた。


『ルーデンの民は、勤勉です。王族ですら、朝は鶏の声とともに起き出し、労働をいとわない――使用人ともなれば、なおさらに。食事をするとき、我々の身体は、ほとんど飢餓状態になっているのです。油分と塩分への渇望度合いは、あなた様がこれまで料理を捧げてきたモンテーニュの王侯貴族の比ではありません』


 そうだ。

 なぜ気付かなかった。


 ジョルジュは己の頬を張り飛ばしてやりたい思いだった。


 これまで彼が料理を振舞ってきたのは、美食と美女に溺れ、優雅なソファにその身を沈めている王侯貴族ばかりだった。

 美の国モンテーニュと、武の国ルーデンでは、求める味が異なって当然だったのだ。


 人手が少ない中、大量の業務に奔走している使用人たちが求めていたのは、急速に身体が回復し、腹に溜まる――つまり脂っこくて塩気の強い食事だった。

 そんなところに、上品かつ繊細に調味したスープなど差し出しても、たしかに「こんなものか」と言われるだけだろう。


『……なにやってんだ、俺は』


 食べる側の好みも考えず、当然の指摘を的外れにも侮辱にすり替えて。

 どちらが人々の舌を満足させられるかなんて、ナンサンドを笑顔で頬張る彼らの姿を見れば明らかだ。

 自分は、料理人としてのスタートラインにすら立っていなかった。


 そのとき、調理台のボウルの中で氷がからんと音を立てて、ジョルジュははっと振り向いた。

 素材の味わいを殺さぬように、氷を惜しみなく使って急速に冷やしていたヴィシソワーズ。

 そろそろ提供できる頃合いだ。


 だが――。


 ジョルジュは、一度は手にした取り分け匙サーバーを、静かに下ろした。

 今更この品を振舞うことなど、自分にはできない。


 もしかしたら、王族ふたりであれば、ほかの使用人連中よりは「おいしい」と言ってくれるのかもしれないが――いや、使用人たちに紛れて平然としている前妃に、騎士団で忙しく体を動かしてきた変わり者の王子だ。

 きっとそれもないだろう。


 苦い笑みを刻み、ジョルジュがコック帽を脱ごうとしたとき、しかし背後から声が掛けられた。


『ジョルジュ・ラマディエ料理長』

『――なんだよ』


 エルマである。

 表情の読めない眼鏡姿の侍女は、抑揚の少ない声で問うてきた。


『そのじゃがいものスープ――ヴィシソワーズですね。それは、出されないのですか』

『……見りゃわかんだろ。……出せねえよ』


 敗者と言えど多少のプライドはある。

 しかし、エルマはわずかに首を傾げると、予想外の行動に打って出た。


『なるほど。――ですがご安心を。そんなこともあろうかと、スプーンを百本ほどご用意してまいりました』

『…………は?』


 会話が噛み合っていない。


 だが、ジョルジュがその意図を問い返すよりも早く、エルマは例の人ならざる動きでスプーンを捌く。

 彼が瞬きを終えた瞬間には、侍女の持つ巨大なトレイの上に、ずらりと白磁のスプーンがヴィシソワーズを湛えて整列していた。

 スプーンに一口ずつだけ料理を盛る――モンテーニュの夜会などで見る、ワンスプーンとも呼ばれるスタイルだ。


『……は?』

『その量ではあっても、ワンスプーンであれば、百人以上に提供できるものと愚考しました。あなた様のつくるヴィシソワーズは、少量ずつであっても城中の人々に振舞われるべきだと思います。――もちろん私も含めて』

『…………は?』


 先ほどから「は」しか言えていない。

 が、ぽかんと口を開けるジョルジュをよそに、エルマはさっさとヴィシソワーズを、ユリアーナ以下全員に配ってしまうではないか……!


『お……おい、ちょっ、待てよ、おまえ――!』


 これはなんだ。

 引き際くらいは自身で決めたいと考えたジョルジュへの辱めなのだろうか。


 ただでさえ好みに合わない料理を、それも、ナンサンドでひとしきり腹を満たした状態で食べては、まずく感じるだけではないか。


 そうとも、厨房の部下たちも、侍女も、馬丁も、衛兵も、きっとまた、困ったか馬鹿にしたような顔で――


「――う……っまああああ!」

「…………!?」


 ジョルジュは耳を疑った。

 見れば、使用人たちはスプーンを口に突っ込んだまま、きらきらと目を輝かせているではないか。


 瞳は恍惚として潤み、頬は紅潮し、手はスプーンを強く握りしめている。

 全身から、嘘偽りのない「うまい!」の賛辞が響いているかのようだった。


「ああ……。やはり、ラマディエ料理長の味付けは実に繊細で奥深いわね」

「じゃがいものアクの強さを殺して、甘みとうまみだけを丁寧に引き出している。美しい仕事だ」


 この手の食事を口にしなれている王族ふたりはともかく、


「うま……っ、うまいっす! 今、ようやく初めてじゃがいもの味がわかった!」

「すっごくいいものを頂いてる気分!」

「王様になったみたいだ……!」


 使用人たちまでもが、興奮したように話し合っている。

 彼らは一斉にジョルジュのほうを向くと、感動の勢いのまま走り寄ってきた。


「ゲオルク――じゃなかった、ジヨル、ジュ、料理長! うまいです! これ、めっちゃくちゃうまいです!」

「ゲオル――いえ、ジ……ョルジュ料理長! 私たち、前こんなおいしいもの食べさせてもらってたんですねえ! 味わわずに流し込んじゃって損しちゃった!」

「ゲオ……ジョルジュ料理長! これ、また食べたいです!」


 慣れないモンテーニュ風の名前を、舌を噛みながら呼ぼうとしてくれる。


 あけすけで、単純な彼らの言葉。

 ――だからこそ、ジョルジュはうっかり喉の奥に熱を感じるほど嬉しくなった。


(なんだよ……)


 そして、理解する。


 そうとも、彼らは料理の味がわからなかったのではない。

 味わう余裕もないほどに飢えていたのだ。

 そして今、エルマによって満たされたからこそ、異質なものを理解し、歩み寄ろうとしてくれている。


『さすがですね。私の料理は、単に彼らの胃袋にカロリーを投下しただけでしたが、ジョルジュ料理長の料理ともなると、食するだけで一介の使用人でも王侯貴族の気分が味わえるかのようです』


 そのとき、ヴィシソワーズの配膳を終えたエルマが調理場に戻り、ジョルジュに話しかけてきた。

 それから彼女は、眼鏡のブリッジをくいと押し上げ、告げた。


『降参です』

『え……?』


 ぽかんとする。

 が、ジョルジュがなにかを言い返すよりも先に、優雅にスプーンを下ろしたユリアーナが口を開いた。


「どちらが高貴なる者の舌に合うか。この勝負、ゲオ――ジョルジュ・ラマディエ料理長に分があったようですね。あなたの料理は、人々を『高貴なる者』に仕立てあげてしまうのですから」

「隣の調理台で異常現象が起こっても調理を完遂する、その集中力も称えられるべきだな」


 ルーカス王子も、そんなことを言って肩をすくめる。

 ジョルジュが呆然と立ち尽くしていると、エルマはすっとメイド服の裾を摘まみ、深々と礼を取った。

 勝者のジョルジュに向かって敬服を示す格好だ。


 それに気付いた観客たちは、ジョルジュに称賛の視線を投じた。

 勝利宣言を期待するかのような流れである。


(なんだよ……)


 ジョルジュはもう一度胸中で呟き、頭を下げたままの侍女をちらりと見やった。

 それから、背の高いコック帽に手を伸ばし――それを彼女に向かって脱いでみせた。


「――いいえ。前妃、殿下」


 そうして、片言のルーデン語で告げる。

 通じるからと頑なにモンテーニュ語を貫いていた彼が、この国の言葉で話そうとするのは、初めてであった。


「お言葉は、嬉しく、思う、ですが、この勝負は、……せめて、引き分けに。私は、舌を満たせた、かもしれませんが、彼女に、勝ったとは、思えないからです」


 飢えていては、わからない。満たされたからこそ、歩み寄れる。

 それはきっと、自分も同じだ。


 今ジョルジュは、ずっとほしかったルーデンでの居場所を、エルマに分けてもらったからこそ、こうして、もっと彼らに近づきたいと思えるようになったのだから。


「いつか、彼女を、こてんぱんに負かしたら……そのときこそ、殿下の、庇護を、お約束ください。それと――私の名は、ゲオルクで、結構です」


 このままでは、自分の名が「ゲオジョルジュ」になってしまうので。

 肩をすくめて告げると、ユリアーナたちは愉快そうに笑った。




 その日から、ジョルジュ――改め、ゲオルク・ラマディエ料理長は一層の研鑽を積み、やがて「ルーデン王城の食べられる至宝」と呼ばれる宮廷料理を、数多く生み出すことになる。

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