9.「普通」の手料理(4)
「そんなものをおまえ、どこで手に入れてきた――!?」
巨大なまぐろ。しかも、まるまる一本だ。
推定体重、大の男五人分。
熟練の漁師が総出で仕留めにかかるような、もはや伝説級といっていいサイズである。
目は黒く、ひれはぴんと張りを残し、体表は濡れたような輝きを帯びていた。
新鮮だ。
「昨日が非番でしたので、近海まで漁に出ておりました。食いつくまでは早かったのですが、重量の関係で釣り上げるのに五時間の死闘を要した結果、この場に少し遅れてしまいましたこと、平にお詫び申し上げます」
「エルマ……あなた……」
しょっぱなから想定を大気圏外にぶっ飛ばす暴挙に出られ、一同が言葉を失う。
が、ユリアーナの滑らかな頬は、どこか上気しているようだった。
そこはきゅんとするところじゃないだろう。
ルーカスは母に言いたかった。
大いにペースを崩された周囲をよそに、寡黙な侍女は淡々と準備を進める。
ごろ、と鈍い音を立ててまぐろを調理台に転がしてから、彼女はメイド服の裾を摘まみ上げて、しずしずと頭を下げた。
「侍女エルマ。僭越ながらも、ジョルジュ・ラマディエ料理長の胸を借りる気持ちで、誠心誠意心づくしの品を作らせていただきます。高貴なる方々のお口に、どうか合いますよう」
「きょ、許可します。あなたの忠誠と腕を期待していてよ……!」
「……安全を第一に優先するように」
ルーカスの言葉には、つい本音が滲んだ。
(冗談じゃねえぜ……)
一連のやり取りを見守っていたジョルジュも、さすがにしばし呆然としてしまった。
(料理人歴三十年を通したって、あんな巨大なまぐろ、見たことねえぞ。……だが、そうか。魚なら新鮮でさえあれば、そのまま出しても「うめえ」となる。考えたな)
ルーデンやモンテーニュでは、魚を刺身で出すことはしないが、酢や油で和えたマリネやカルパッチョのような料理は好まれる。軽く炙って塩を振るだけでも美味しいだろう。
あれだけ大きければ、卸し方に失敗してもいくらでもやり直しがきくし、あの巨体から究極にうまい部位だけを使用してみせるというのも、かなりインパクトのあるパフォーマンスだ。
(……やるじゃねえか)
だが、こちらとて負けはしない。
権力競争のような腹芸は苦手だが、腕には覚えがある。
グルメと名高いモンテーニュの王侯貴族たちを唸らせてきた経歴は伊達ではないのだ。
ジョルジュはコック帽を直して気合を入れ、調理に取り掛かった。
初夏にふさわしく、作るのはじゃがいもの
じゃがいもといえばルーデンの国民食。
ふかして食べるしか能のないルーデン人に、モンテーニュの料理文化の神髄を見せつけてやるつもりだった。
事前に目利きした二種類の玉ねぎを、たっぷりのバターで炒め、均一に薄切りにしたじゃがいもを放り込んでいく。
焦がすことなく素材の甘さを引き出す加熱法、鶏と香味野菜でじっくりと味を深めた秘伝のブイヨン、隠し味に加える最高級のシェリー酒。
どれもモンテーニュで研鑽を積んだ自分だからこそ実現できる、最高の技術であり味わいだ。
その手際の鮮やかさ、そしてかすかに漂いはじめた食欲をくすぐる匂いに、ギャラリーがほうっと息を呑んだ。
――のも束の間。
「そちらの、茶色いベストをまとった馬丁さん。それから、真新しい胸当てを付けた衛兵さん。そう、あなたです。もう少し右に避けていただけますか。危ないですよ」
左の調理場から繰り出される謎の指令に、人々は困惑の声を上げた。
もとより、調理場と観客席の間にはずいぶんと距離がある。
怪訝に思いつつ、侍女から醸し出される不思議な迫力に呑まれ、彼らが場所を移動したとたん、それは起こった。
「では、解体します」
――ざんっ!
エルマが眼鏡のブリッジを押し上げ、おもむろに刃渡りの大きい包丁――もはや剣と言っていい――を掲げた次の瞬間、すさまじい風が巻き起こったのだ!
「きゃあっ!」
風は女性陣の衣服を乱し、男性陣の頭髪を激しくそよがせ、一部はかまいたちとなって石畳を割り砕いた。
エルマの背後で、まっすぐ空に向かって伸びあがっていたはずの噴水の水が、まるで剣に切り取られたように崩れる。
一瞬遅れて、ざばああ! と水が落下するのと引き換えに、周囲はしんと静まり返った。
「な……なにが起こったの……?」
ビシュッ! という音が確かに聞こえた気がしたが、エルマの包丁さばきはあまりに速すぎて、それが刃の立てた音だったのか、それとも風が唸った音だったのかすらわからない。
ただ、「解体する」と言っていたわりに、まぐろは頭と胴をつなげたままエルマの前に横たわっている。
人々は当惑の呟きを漏らした。
「ね、ねえ、ルーカス? エルマは、その、風を起こしただけなのかしら? 魚は無傷に見えるのだけど」
「いや、あれはおそらく、――太刀筋が鋭すぎて、まぐろも切られたことに気付いていないんだ」
『なにそれ!』
動揺のあまり、ユリアーナの口から母語が飛び出した。
しかし、ルーカスの見立ては正しかったようで、一瞬ののち、
――ぐら……っ
まるでまぐろが時の流れを思い出したとでもいうかのように、ぐらりと形を崩していくではないか。
瞬きをした次の瞬間には、まぐろは頭部と胴体、骨と内臓と肉に分かれ、ブロック状に美しく整列していた。
『なにこれ!』
ユリアーナの叫びは、奇しくもその場にいた人物全員の心を代弁することとなった。
しかし、エルマの勢いはとどまらない。
彼女はばっと巨大なボウルに小麦粉と牛乳、油と塩を混ぜ合わせ、目にも止まらぬ早業で捏ね合わせると、パン種となったそれを次々と丸めていった。
あまりに素早いので、彼女の手からシュパパパ! と飛び出すパン種の玉が、まるで砲身から次々飛び出す銃弾に見えるほどだ。
さらには、キャベツを人ならざる速度で刻みあげ、塩とレモンを振ってしんなりとさせ、かと思えば固いパンを削って細かなパン粉に仕上げた。
物が一瞬で削れるとき、「ごりごり」などではなく、「じゅっ……!」という音が響くのだということを、このとき人類は学んだ。
続いて、まぐろ肉をこぶし大に切り分け、塩コショウをし、小麦粉と卵液にくぐらせて先ほどのパン粉をまぶす。
地獄の釜かと疑うような巨大な鍋に、並々と油を熱しだしたのを見て、とうとう人々は理解した。
まぐろのフライ――!
じゃっ! という腕の一振りで大量のまぐろを放り込み、からりと揚げているその間にも、エルマは卵を茹で潰し、さらにそれを卵と酢で作った白っぽいソースに和え、と忙しい。
同時に、圧延した鉄板の上で、大量のパンと思しきものを焼いていた。
「あれはなんだ。パンにしては随分と平たい」
「あれはナンよ。南の大陸で広く食されているパンの一種だと、以前書物で読んだわ」
ルーカスの独白を、風土記に詳しいユリアーナが拾う。
図らずもダジャレのような会話になっていることに、近くに控えていたゲルダとイレーネだけが気付き、二人とも静かに顔を伏せた。
そうこうしているうちに、まぐろが揚げ上がる。
油から掬い上げるのかと思いきや、しかし同時に、ナンも焼き上がったようだ。
どちらかを優先すれば、その間にもう片方が焦げてしまう。
さあ、どうする――。
もはや調理ではない。
試合かなにかを観戦するような気持ちで、その場に居合わせた総勢百人近くが、ごくりと息を呑んだ。
が、眼鏡の侍女は、ここでも予想外の動きに出た。
片手にフライ返し、もう片手にサーベルを握りしめ――サーベル!――、前傾姿勢を取りながら、胸の前で静かにそれを交差させたのである。
次の瞬間。
「――はっ!」
凛とした掛け声とともに、彼女はぐるりと旋回した。
風が舞う。
黒のメイド服が、白のエプロンが、残像を残しはためく。
それと同時に、からりと揚がったまぐろが、こんがりと焼き目のついたナンが、フライ返しに弾き飛ばされるようにして宙に踊った。
「同時に跳ね上げただと――!?」
ギャラリーがどよめく。
その視線の先では、完璧に重量と軌跡を計算されつくしたフライとナンが、空中のとある場所で、見事に一列に整列していた。
そこに、
――ざんっ!
「フライとナンを、一気に切り裂いた……!」
サーベルが唸りを上げて旋回し、浮かんだ物体すべてを真っ二つに切り裂いていった。
食・即・斬。
あまりに鮮やかな手際だ。
しかも少女は素早くフライ返しを投げ捨て、代わりに大ぶりなスプーンを握りしめると、刻んだキャベツを掬い、落下しはじめたナンに向かって「投げつけて」いった。
凄まじい速さで叩きつけられたキャベツの塊は、風圧をまとってナンの断面を袋状に割り開く。
そうして、まるで安住の地を見つけたとでも言わんばかりに、自ら行儀よくナンの中に納まっていった。
さらにそこに、少女がサーベルをバットのように持って打ち付けたフライが、追いかけるようにして飛び込んでいく。
「馬鹿な……!」
瞬く間に、フライと刻みキャベツのナンサンドが成形されていく。
その過程を、動体視力に優れたルーカスだけが理解し、驚愕に喉を鳴らした。
規格外の膂力。
鮮やかにすぎる太刀筋。
髪一筋すらコントロールを違わぬ投擲能力。
かつてひとりで千人の軍を壊滅させたという、伝説の
――この娘が、ほしい。
騎士団に身を置き、ときにそれを率いる者として、ルーカスは思わず唸った。
性的にではなく、職務的観点から女性を渇望するなど、初めてだ。
周囲の興奮や熱視線をよそに、エルマはナンサンドが落下するぎりぎりのタイミングで、今度はタルタルソースの「銃弾」を叩きつける。
――とぱぱぱぱぱぱぱ!
独特な音を立てて、タルタルソースが過たずナンサンドの中央に収まったことを確認すると、彼女はさっと清潔な布を広げ、今度こそ一斉に落下したサンドを受け止めた。
そっ……。
最後に、それまでの猛攻ぶりが嘘だったかのような静かさで、調理台にサンドを並べる。
「――完成です」
ほかほかといまだ湯気を立てるナンサンドを前に、侍女は眼鏡のブリッジを押し上げながらそう告げた。
「お……――」
誰かがごくりと喉を鳴らす。
あまりに鮮やかな手腕である。
実にうまそうな品である。
そして――明らかに百人分くらいの量である。
ずっと少女の異常な調理過程にばかり注目していたギャラリーたちは、ふと思った。
もしかして、これは。
高貴なる方々に向けた料理とは言いつつも、この量は。
「ユリアーナ前妃殿下、およびルーカス王子殿下。そして、今この場にいらっしゃる皆さまのためにご用意いたしました。――どうぞ、おひとりおひとつずつ、ご賞味くださいませ」
「うおおおおおおおお!」
エルマが一礼したとたん、使用人たちが一斉に拳を突き上げ叫んだ。
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