7.「普通」の手料理(2)
二週に一度だけ巡ってくる夜番を終え、昼前になってようやく職務から解放されたエルマは、寝台に横になるべく淡々と準備を進めた。
ブリムとエプロンを外し、団子にまとめていた髪を解く。
艶やかな黒髪が肩を流れ落ちるのを細い指で掻き上げながら、メイド服を脱ぎ、寝間着へと着替える。
靴も脱いで寝台に上がり、下半身を薄手の掛け布団にうずめた状態で、ようやく眼鏡を外した彼女だったが、ふと顔を上げると、すちゃっと眼鏡を装着しなおした。
そのとたんに、
「エルマー!」
ノックもなしに寮室の扉が開き、ひょこっと金髪の同僚――イレーネが顔を出す。
猫のような緑の瞳で無邪気にエルマを見つめ、彼女が眼鏡を着けたままであることを理解すると、イレーネはちっと舌打ちを漏らすようなそぶりを見せた。
「……あと十秒早かったようね……。寝る前はさすがに眼鏡を外すと思ったのに」
「あのような足音を響かせられては、寝ていたままでも気配に気づいて眼鏡を掛けなおせます」
「最大限足音を殺してきたわよ!」
イレーネはむっと頬を膨らませる。
初日ですっかりエルマに敬服した彼女は、ボスと認めた相手に忠誠を尽くす犬さながら、以降べったりとまとわりついてきているのであった。
特にここ数日は、エルマの素顔を見ようと躍起になっているようである。
「私たち、と……友達、でしょう!? 友達にまで素顔を隠す法ってないわ」
「侍女長より禁じられておりますので」
友達、の単語で恥じらいながらも、懸命に食い下がるイレーネに、エルマは淡々と答えた。
そう、彼女は初日、ユリアーナ前妃にお茶を振舞った後、グラーツ子爵夫人ゲルダに別室に呼ばれ、懇々と諭されたのである。
いわく、普通の家庭では人の表情を微細に読み取ることなど教えない。
主人の心を推し量ることは侍女の美徳だが、感情どころか思考を察知し、つまびらかに解説するようなことをしては周囲を怯えさせてしまう。
それは「普通」ではないと。
ゲルダの説教を聞きながら、エルマは獄内での、とある日常の一コマを思い出していた。
――いいですか、エルマ。私のかわいいお嬢さん。
今のあなたは「生活に疲れ夫の浮気を疑いながらも子どもには笑顔を振りまく母親」の役です。
頬の筋肉はもっとぎこちなく、瞼は時折わずかに痙攣し、笑みは左右非対称になる。
そのことを意識して、はい、もう一度やってみましょう。
――はい、たいだのおとうさま。
かつて【怠惰】の父・モーガンは、幼い自分のままごとに根気よく付き合い、丁寧な演技指導をしてくれたものだったが、世の父はそんなことをしないのだという。
というか、父が複数いるというのも「普通ではない」ことなのだそうだ。目から鱗とはこのことだ。
エルマはあの監獄の中では、かなり真っ当な神経と常識の持ち主だと自負していたが、なるほど母の言う通り、シャバにはシャバのルールがある。監獄の常識は世の非常識と考えたほうがよさそうだ。
ひとまずエルマは、職務的にも人間的にも信用されているゲルダの言うことを、全面的に信じようと考えた。
そのゲルダは、説教の最中、相手の素顔が見えないことが気になったようで、エルマに眼鏡を外すように命じた。
粛々と従ったエルマだが、――しかし、侍女長はたっぷり呼吸五つ分ほども黙り込んだ後、顔を真っ赤にしながら、「や、……やはり、眼鏡は掛けておきなさい。あなた、その素顔を殿方には……いえ、同性もね、とにかく誰にも見せないほうがいいわ」と、再度装着を命じたのである。
逆らう理由もなかったので、以降エルマはその命に従っている次第である。
「まったくもう、融通がきかないのだから。まあいいわ、今日は珍しく髪を下ろしたところが見られたから、それで勘弁してあげる。きれいな髪ねえ。どうやってお手入れしているの?」
「蜂蜜をベースにしたトリートメントを調合しております。気になるようなら、あとでレシピを差し上げますよ」
「まあ、ぜひ欲しいわ!」
イレーネは寝台に乗り上がって髪を掬い取ったり匂いを嗅いだりと、こちらの研究に余念がない。
ついでに言えば、エルマを寝かしてくれる気もなさそうだ。
「あの。本日はこのまま非番なので、できれば八時間ほど眠りたいのですが」
「だめよ」
下手に出ると、イレーネはにっこりとそれを却下した。
「私、これからお昼なの。一緒に食べに行きましょう? 寝るのはお腹を満たした後よ」
若い男ならころっと落ちてしまいそうな、魅力的な笑顔。
しかしエルマにその気はなかったので、むしろ警戒心も露わに掛け布団を引き上げた。
「……そうやって、成り行きでまた私に料理をさせる気でしょう。その手には乗りませんよ」
「あら、ばれてしまったわ」
小悪魔がぺろりと舌を出す。これで彼女はなかなか強かな策略家なのだ。
どうやらお茶会を機にすっかりエルマの料理の腕に惚れ込んでしまったらしく、「普通」のワードをちらつかせれば高確率でエルマが従うと気付いてからは、なにかと料理をさせに追い込んでくるのである。
微表情を読めば、嘘かの見分けくらいは付くのだが、「あなたの作る料理が食べたいの!」と懇願する様子はいつも心底本気のようなので、これでなかなかお人よしのエルマは、ついついその口車に乗せられてしまうと、そういうわけだった。
「――ですがさすがに、熊の解体ショーを披露したり、巨大鍋を鋳造するために裏庭に反射炉を作ったのは、やりすぎのようでした。おかげで侍女長に叱られてしまったではないですか。イレーネのせいです」
「……正直、それは私の想像の範疇を超えていてよ」
常識と非常識の判別がつかず、過剰なスキルを持ち合わせたエルマは、「うっかり」文化水準や価値観に激震を走らせるようなことをしでかしてしまうのである。
当時の騒動と、そのたびに火消しに奔走していたルーカスや侍女長の姿を思い出し、イレーネも少しばかり遠い目になった。
が、そこはそれ。
切り替えの早さに定評のある彼女は、懲りずにエルマの手を取って頼み込む。
「ねえ、お願いよ。私、さっぱりとしたスイーツか野菜、さもなくばがっつりとしたお肉か魚が食べたいわ。つまりなんでもいい。なんでもいいから、あなたの料理が食べたい」
「自分に正直な人ですね……」
眉を寄せながらも、腕は振り払わない。
全力でこちらに飛び込んでくるイレーネとのやりとりは、存外心地よかった。
これがシャバの友情というものなのかもしれない。
だとしたら、彼女は友人第一号なわけで、その意思はできうる限り尊重するというのが正しいシャバ的交友の在り方であろう。
彼女の要望を叶えるなら、シャーベットなどどうだろうか。
反射炉のときは、巨大な設備を個人が公有地に造ったために叱られてしまったが、小ぢんまりと塩と氷を使って凍らせるぶんには問題ないだろう。
ただ、凍ってなお甘みを感じさせるには、王宮の砂糖だとやや質が悪いので、こっそり上白糖を精錬してしまおう。
そうだ、野菜が好きということなら、遺伝子改良した野菜を育てておくのもいいかもしれない。
エルマ自身、フルーツのように甘いトマトは傑作だと思っていて、城にもこっそり苗木を持ち込んできていた。あれを食べさせてあげよう。
菓子作りに園芸。
これなら「普通の女の子」の趣味の域内だ。問題ない。
エルマは冷静にとち狂った思考を展開し、やがて頷いた。
ちなみに夏場の氷は貴重品だし、砂糖の精錬度もトマトの糖度も、もちろん王宮にあるものが現在の大陸における最高品質のものである。
彼女が「趣味」を実行すると、もれなくルーデンの製菓と農業の歴史が動くことになるはずであった。
「わかりました。では――」
しかし、彼女が再度伝説の域に足を踏み入れかけた、その瞬間。
「エルマ! そこにいるわね?」
慌ただしいノックの音とともに、再び寮室の扉が開いた。
礼儀に欠けた振舞いの主は、なんと意外にも侍女長・ゲルダである。
彼女は、人の好さそうな柔和な顔に、珍しく焦りの表情を浮かべて、エルマを窺った。
「非番の日にごめんなさいね。ちょっと――やっかいなお客様が、侍女寮の前でお待ちなの」
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