具体性に欠けた願いは叶わないも同然だ

 一月二日。

 私は直輝と二人で初詣に行った。

駅から徒歩二十分にある地元の神社は午前中から人でごった返していた。

鳥居に行くと神社に入る人と出る人で入り乱れていた。

「人混みに流されないかな…」

直輝が心配そうに鳥居を見つめる。

「佐伯さん、危ないから俺のここ持ってて。」

直輝が着ているコートの端を持つように促した。

「うん、でもこっちの方が絶対にはぐれないかも。」

私はそう言って直輝の手を握った。

彼の掌は私よりも冷たくて熱がなかった。

驚いたように目を見開く直輝。それから頬を赤く染めながら、確かにそうだね。と微笑んだ。

手を繋いだ私達は人混みの中、鳥居をくぐった。互いがはぐれないように強くぎゅっと握り合った。直輝は私が離れないように先導した。彼の茶色く柔らかな髪と白い肌を見つめながら前に進むのはもう何度目だろうか。

私と直輝は始まったばかりだ。終わりはいつ訪れるだろうか。

何かを始める時に終わりまで考えることは辛い。けれど考えないといつかそれが来た時に絶望してしまう。終わらせる時はまた新しいものを見つけなければいけない。そうしないと壊れしまう。

音を立てずに訪れる崩壊に備えなければならない。

手水舎に行くと柄杓でたっぷりの手水をすくった。それを左手と右手の順番にかける。冷たい手水が冷え切った手に流れて身震いが出た。

「冷たいね。」

直輝を見て言うと彼も私を見て、そうだね。と返した。

お清めを済ませて御神前に進むと目の前で見知った後ろ姿の二人が両手を合わせて参拝していた。

二人の背中をじっと見つめる。後ろ姿を見ただけでその二人が誰なのか私には一瞬で分かった。例え私服だったとしても私は二人を見つけることが出来る。

参拝を終えた二人が振り返る。

私と目が合った二人が時が止まったように停止した。

驚いたように目を見開くさとみ。それから直輝を見ると一瞬で興味を失ったように目線を戻る方向へ変えた。

望美は動揺していた。とても明白に私と直輝の顔を交互に見ると目を泳がせて言葉を失っていた。

落ちろ、落ちろ、堕ちろ。

私は心の中で悪魔のように微笑む。

こんな気持ち、大それた問題ではない。これは誰しもが眠らせている感情だ。私と望美はそれを起こしてはっきりと表している。私達は同じだからいがみ合っている。さとみや由美と同じように振る舞って行動しても私とお前は一緒だ。

ショックを隠すように望美はさとみの腕を引っ張って私達の横を通り過ぎた。

直輝はそれを見届けると何事もなかったかのように私の手を握って御神前に立つ。手を離した私達は御賽銭を入れて各々の願いを込めた。

私の願い、それはただ一つ。昔から何も変わっていない。

だけど今日は願いをさらに一つ付け加えた。

間違えないように何度も唱えた。

欲しいだけでは駄目なんだ。手に入る方法とか手に入れた後とか詳細にわたって願わなければ意味がない。

合っているのに間違えたことになる。

確かにそうだとしても失敗に終わる。

私は純一郎から離れたくない。純一郎のいない人生など私には考えられない。

純一郎から離れないように。だけど苦しい。いつまで経っても苦しい。

どうかこの苦しみが消えてなくなりますように。

私をどうか罪深き雪山から救ってください。

長年そこに埋まったまま息が出来ていない。

自分でその中に入ったのに自分を救う手立てが分からない。

もういい加減、自分を救う道を見つけたい。

「佐伯さんは何て願った?」

参道を抜けると直輝が尋ねた。

「勉強、あと進路。もう少しで三年だからね。」

私は息をするように嘘を吐く。私の目を見る直輝は何も疑う様子はない。

「俺も同じ。進路について願った。」

「直輝はもう進路決まっているの?」

「うん。…と言っても大それたものじゃないんだ。ただ自分の学力に合った大学をいくつか候補に挙げているだけ。佐伯さんはもう進路とか決まってるの?」

直輝の言葉で数日前の純一郎を思い出した。焼け爛れた胸がひりつくように痛む。

私の未来は純一郎でそれ以外、何もなかったのに。

「何にも。私、昔から将来の夢とか持っていないから。やりたいことなんて何にもないんだ。」

肩をすくめる私に直輝は笑う。

「俺も同じ!夢とかない。ただお金に困らずに、それなりの生活が出来ればいいんだ。大学に行けば学歴がつくから将来に役立つし、その為に行くだけ。高尚な人達はこんな考え方を否定するけど俺は居たい人の側に居て幸せだと思えればそれで充分。」

私も同じだ。ただそばに居たい人が私が居ることを望んでいないだけだ。

「この後、俺ん家来る?母さんが昼飯作ってるから食べに来てって言ってた。帰りも送る。」

「うん、ありがとう。」

神社のすぐ側にある駐輪場から自転車を出す直輝。

開錠して跨ると私もその後ろに跨った。

私を乗せた直輝の自転車がすいすいと人混みを縫って走る。

「さっきの話だけど俺の母さんもさ、美容師になるのが夢だったわけじゃないんだよ。ただ手に職をつけた方が将来困らないからって家族に言われて美容師になっただけなんだ。父さんも爺ちゃんが大工だったから同じように周りから勧められただけ。理由は大したことないんだ。俺はそれでいいと思う。」

直輝の髪が逆風で揺れる。冷たい風が殴るように私達の頬に当たっていた。

純一郎はどんな夢を持っていたのだろうか。

私は純一郎とあんなに長いこと側に居ながら純一郎の何も分かっていない。

彼の幼い頃の夢とか、幼少期の様子、思春期の様子、進路選択、今考えていること。

知りたいと願う一方で知りたくないことまで聞かされるのが恐くて今日まで何も聞けなかった。

「私、今の自分のことで手一杯で先のことなんて分からない。」

軽やかにペダルを漕ぐ直輝の足元を眺めながら呟いた。

「うん、俺も同じ。」

同じ人が必ず存在する。同じ人を探し求めて見つけた瞬間、同じじゃなくなるのを怯えて拒む。

こんなに同じ同じと求めているくせに私が一番欲しい純一郎は私とは違う。

でも違くてもいい。それは純一郎だから。

違うから私はこんなに純一郎が欲しい。

純一郎と私の違うところは特別な輝きを放っている。

私は彼に似ないように生きてきた。だって私と純一郎は家族ではないから。家族なのに家族ではないから。完全なる家族になってはいけない。それは私の炎を消してしまうから。

直輝の家に着くと彼のお母さんが雑煮を出してくれた。

私のつくる雑煮は醤油ベースだけど直輝のお母さんがつくった雑煮は鶏ガラ出汁の雑煮だった。私達はそれを直輝の双子の妹たちと四人で並んで食べた。私は直輝の双子の妹たちの見分けがリボンがなくても出来るようになっていた。笑った時に口角が僅かに右に上がるのが理音で左に上がるのが未音だった。

二人は私が早い段階で見分けられるようになったことに驚嘆していた。それから二人とも満面の笑みを浮かべた。

それから直輝の部屋に行って音楽を聴いたり漫画を読んだりした。今まで漫画に興味を持ったことがなかったけれど読んでみると思いの外、楽しかった。漫画を読んでいる私を見た理音と未音が私におすすめの少女漫画を持ってきて見せてくれた。そこに描かれている話はどれも私の人生とは縁遠い夢物語のようで共感できなかったけれど、目を輝かせてこれを読んでいる理音と未音を想像したら可愛いと思ったし似合っているなと感じた。

夕方まで直輝の家でくつろぐと暗くなる前にバス停まで送ると言って私達はそこを出た。

直輝の家で過ごす時間は極めて健全で喜ばしい反面、寂しさで早く自分の家に帰りたい気持ちにもなった。どこまでも賑やかで暗さを知らない家庭。それは私の黒い部分を刺激して少しだけ疲れる。

直輝の自転車に揺られながら彼の背中に寄り掛かった。彼は特に何も反応しないまま走り進めていた。

もたれかかったまま顔をずらして前を覗く。

数メートル先でバス停が見えた。元旦明けのバス停は人がほとんどいない。立ってバスを待つ人が一人、それから座って待つ人が一人、視界に入った。私は視線を外して流れる景色を眺めた。バスの中のように座っているだけで目の前の景色がすいすいと流れていく。

直輝の自転車が止まって降りる。バス停前にある椅子が目と鼻の先にあった。

「ありがとう。」

そう言って顔を上げると直輝が微笑んだ。

バス停前の椅子に視線を移す。私は酷く狼狽した。

時が止まったように身動きが取れず視線が離れなかった。

何故?どうして今ここにいるの?

「佐伯さん?」

怪訝な顔をした直輝が私の視線を辿る。

私の視線を離さないその目。私はこの男の視線が欲しい。いつまでも永遠に。

「今から帰るんだ?」

私の視線の先で純一郎が何事もないように笑う。

「どうして、ここに…」

私の心臓の鼓動が速くなる。

期待の混ざった鼓動の速さだった。

「あ、うん。酒飲んだ後に洗剤が切れてるのに気づいてバスでスーパーまで来た帰り。」

洗剤の入った袋を見せる純一郎。

「そうなんだ。」

速くなる鼓動。今しかない、言うしかない。

大丈夫だ。純一郎は優しいからきっと受け入れてくれる。同情でも構わない。責任取って私を愛して!

「じ…」

私が口を開いた瞬間、純一郎の視線が直輝に移った。それから直輝に向かって一言尋ねた。

「サナの彼氏?」

驚いた様子の直輝が頭を掻きながら、あっいや…違います…。と否定する。

純一郎は笑った。

「ああ、なんだ、そうか…それは残念だな……。」

本当に残念そうに力なく笑った。

私は純一郎から背を向けて走り出す。

「佐伯さん!」

背後から直輝の叫び声が聞こえた。

また私は何かから逃げるように走る。当たり前でしょうと言わんばかりに存在する現実からまた走ってまた逃げていつまでも続く鬼ごっこ。私以外、全員が鬼だ。

嗚呼、痛い、苦しい。

懸命に走る私の視界は曇って何も見えない。ただ体中が熱くて目の奥が痛い。

靴底から感じたコンクリートの感触はやがて柔らかな土の感触へ。走り続ける私の腕が勢いよく引っ張られて私の体は前から後ろへ。正常な方向へ引き戻された。

私の腕を掴んでいたのは直輝だった。

目の前に私と同じように息を切らして肩を震わす直輝がいた。

「ごめん。」

直輝が謝って私の手を離す。

私の腕がだらりと落ちる。

私は息を切らしたまま肩を震わせる。

嗚呼、涙が出る。最近の私は泣きすぎだ。

涙を見せたくないことと疲れたことで私の身体がゆっくりと下がっていき小さくうずくまった。それから咽び泣く。私の小さなプライドが音を立てずに崩壊する。

全ての気持ちが露見する。

涙は私の心を映し出す鏡だ。

うずくまる私の背中に温かい感触が広がった。直輝の腕が私を抱きしめていた。膝と腕で顔を隠すように泣いている私の頭に直輝のおでこが当たった。

「佐伯さん」

私の名前を呟く直輝の声がいつもよりも近い距離で真下に届く。

「卒業したら、ここを出よう。」

私は頷くことも出来ずに泣いているだけだった。

寒さで鼻水が出て顔中水だらけの私が顔を上げたら直輝はなんて言うだろうか。

「二人で一緒にここを出よう。二人で行こう、必ず。」

直輝の声が私の耳元に響く。

私は顔も心もぐちゃぐちゃになりながら訳もわからず頷いた。

サナちゃん、ちょっと歩こう。

あの時みたいに頷いた。頷いた先に良いことが起こると信じて何度も何度も頷いた。

うさぎの指人形を渡す純一郎の手、眼差し。

私が求めた純一郎。

私の欲しかった純一郎。

私が恋した純一郎。

愛されたがりの子供が愛していた男だった。


 カーテンを開けると窓の外の景色は真っ白だった。

濁った空から落ちてくる白い粉を顔を上げたままボーっと見つめた。

「純一郎、ママ!雪‼︎」

カーテンを握りしめる八歳の私が振り向いて叫ぶ。

「二月は雪がたくさん降るね。」

母が私のそばに寄って窓の景色を眺める。その後を純一郎がついてきた。二人は私を真ん中にして両側に立っていた。

深々と降り積もる純白。音を立てずにゆっくりと降り積もる。まるで地面に吸い込まれていくようだった。

私は合掌して目を閉じた。静かな雪に願いを込めたくなる年頃だったのだ。

「サナ、何しているの?」

母が尋ねる。

「お願い事だよ。雪の妖精さんが叶えてくれるの。」

そう言って合掌を続ける私に母と純一郎が互いの目を合わせて微笑んだ。二人だけの幸福な笑顔だった。私はその間で合掌する。一人で願いを込める。

目を開けて窓の外の景色を眺めた。

「あら、雪止んだみたいね。」

願い終えた私の前で雪が静かに止んだ。濁った空を見上げても純白が降りてこなくなった。

「サナが願ったら止むなんてサナは魔法使いみたいだな。」

純一郎が私を見て笑う。私も純一郎を見て笑い返した。嬉しい、満面の笑みだ。

「ねえ、サナ。何をお願いしたの?」

母が私に抱きついて笑顔で尋ねる。

私はクスクスと笑いながら、「ダメ!ママには内緒‼︎」と声を上げた。

「え〜!何で?いいじゃない!ケチ‼︎」

戯けるように母が私の肩を揺らす。

「サナは内緒が上手だからな〜」

純一郎が困ったように眉を下げながら微笑んだ。

「女の子は秘密がいっぱいあるのよね?」

まるで合意を求めるように母が私を見た。

「そうだよ。」

私も笑顔で母に合意した。

母はそんな私を見ると満足したように立ち上がった。

「さあ!ママはこれから夕飯の支度をしようかな!」

上機嫌に鼻歌を歌う母がキッチンへと向かう。

私と純一郎は取り残されて私は母と同じくらい気分が良かった。

「サナ、サナ!」

私と同じ目線にまで屈んだ純一郎が私の肩を揺らした。私はそれが嬉しくて思わず歯を見せる。

「願い事、俺にだけ教えてよ!」

興味津々な純一郎に私は、

「えー!ダメだよ‼︎内緒だもん‼︎」と嬉々とした声を上げた。

「えー!俺、知りたくて夜も眠れないよ!」

おどける純一郎に私は満更でもなかった。

「じゃあ、ヒントだけあげる‼︎」

純一郎を見る私は体をくねらせた。

「うん!教えて!なになに⁇」

純一郎が無垢な瞳を向ける。

「サナが一番、欲しいもの!」

彼の瞳を幼い私は決して離さない。

「欲しいもの?…何だろう。ブーツはこの間、買ったし…色付きのリップクリームも買ったしなぁ……」

顎に手を当てて真剣に考える純一郎。

私はそれが面白くて笑った。本当に楽しげに幸福そうに笑った。

「そんなんじゃないよ、サナが欲しいものは!もっともっと一番欲しいものだもん‼︎」

悩ましげな純一郎の横で私は声を上げてケタケタと笑う。何度も何度も純一郎の肩に触れて永遠に笑い続ける。

「もう少しでご飯できるから準備手伝って!」

キッチンに一人でいる母の声が私達に届いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

黒き雪白 水綺はく @mizuki_haku

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ