離れることは容易いことだけど離れたくない
陸人から連絡が来たのは最後に会った日から一週間後だった。
バス停から見えるスーパーは大晦日の準備に向けて食材をまとめ買いする家族連れで賑わっていた。
着ているダウンジャケットのポケットに手を突っ込んで身を縮ませながら歩く。無防備な耳が凍ってしまいそうな寒さだ。
コンクリートの地面を歩き進めると、やがて土の柔らかい感触が靴底から伝わってきた。地面に生えている草は心成しか寒さで私のように縮まっているように見えた。草たちは踏んでも威勢よく起き上がる様子が見えない。呼吸するたびに白い息が目前で現れては消えるを繰り返す。
私の数メートル先で同じようにリズムを刻んだ白い息が見えた。吐けば現れて、一瞬で消える白い息。
湖を見つめていた陸人が横を向いて私を一瞥する。一瞬、地面を見てから顔を上げるとゆっくりと足先を湖から私に向けた。
「一週間ぶり。」
陸人がそう言って寂しげに微笑んだ。
「そうだね。」
私はポケットに手を入れたまま愛想笑いする。
「渡したい物って何?」
陸人からのラインに渡したい物があると書かれていた。
私の言葉に陸人は肩にかけていたグレーの大きなトートバッグを開けて一枚の絵を差し出した。
リングから離された跡が残ったスケッチブックの紙。上部がギザギザになっている。
「色を塗った。」
ご機嫌な様子で笑う私は白い紙に黒い線。それから灰色の影が入っていた。
「なんかこの絵、お前じゃないみたいだな。」
陸人が笑う。
私は、ありがとう。と言ってそれを受け取った。
「でもこれは私だよ。」
絵を見つめながら呟いた。
これは私だ。陸人からこう見えたのならこれも私だ。
陸人が優しく微笑む。
「もう連絡しない。」
私が顔を上げると彼は笑いながら泣いていた。
寒さで耳が赤くなっている。
「うん、そうだね。」
下を向いて答える。それしか言葉が出なかった。
男女の終わりにもっともらしい言葉なんて存在しない。何も言葉が見つからなかった。
「サナ。」
名前を呼ばれて顔を上げる。
目や鼻を赤くして涙を流しながら笑う陸人が私を真っ直ぐ見ていた。
「サナ、じゃあね。」
私の前から陸人が背を向ける、離れていく。
私が進めない方向へと進んでいく。
私は叫べない。叫んだところで陸人とは幸せになれない。互いの首を絞め合うだけになってしまうから。陸人はそれを分かって、本当は分かっているのにいつまでもしがみついている私を振り払って前に進もうとしている。弄んでいたのは私で見捨てられたのも私だ。だから私が叫びたかった言葉はこれだ。
おいてかないで!
私を孤独にしないで!
自分だけ誰にも愛されていない事実なんて認めたくない!嫌だ!
それを言ったら何か変わっていただろうか。でも私はただ不器用なくせに誰かに認められたい愛情不足の寂しがり屋で、それのせいで生きることが下手な人間だから、それを言って陸人が踵を返しても私達はまた互いに傷つくだけで不毛な関係が続く。
私はそれを叫ぶことが出来ずにただ離れていく陸人の背中を眺めることしか出来なかった。
私に近づく人間はろくな奴がいないけれど私から求めて近づいた人間は正しい人が多い。ただ、そういった人は私と違って正しいから私との気持ちに誤差が生じる。私はそれを埋めることが出来ないまま今日まで生きてきた。
生きてしまった、生まれてしまった、出会ってしまった、あの男と。
「こんにちは!サナちゃん、初めまして。」
柔和な笑みを浮かべたその人は私に手を差し出した。
六歳の私は母の背中にピッタリと張り付いて僅かに顔を覗かせて彼を見る。
「お兄さん、恐く見える?」
手を差し出したまま笑う男は決してそんな風には見えなかった。むしろ爽やかで聡明な青年に見える。
「サナも挨拶してみな。」
母が幼い私の肩を揺らす。
私は挨拶が恥ずかしくてもじもじしたまま母から離れない。
「すごく内気な子なの。」
母が困ったように笑う。
「ハハッ、女の子は繊細ですからね。これが当たり前の反応だと思います。」
母を見ていた男が再び視線を私に移す。
男が腰を下ろした。私と目線が同じになる。私はようやく少しだけ安堵して口を開く。
「なんて名前なの?」
「純一郎だよ。」
「何歳?」
「二十五歳。」
「ママより若いね。」
「そうだね。サナちゃんは何才?」
「サナはね、六才!」
純一郎が微笑む。そしてまた私に手を差し出す。私は純一郎の手を握った。純一郎は私の手を優しく包み込むように握り返した。
「純一郎。」
純一郎の名前を小さく呟いた。
純一郎はそれに応えるように目を細めて笑った。
曇り空の真冬だった。
その日は当時、母と二人で暮らしていた地元で冬祭りが行われていた。
寒空の下、出店が並んだ祭り会場は人々の活気で賑わっていた。
私と同じくらいの子供たちがジャンパーにマフラーを巻いて人と人の隙間を縫って元気よく走り回る。
純一郎は私に大きな綿あめを買ってくれた。水色の綿あめだった。
「サナ、美味しい?」
母に尋ねられて私は大きく頷くと純一郎を見た。
純一郎も私を見ていて優しく微笑んだ。
祭り会場にいる間、私はしきりに純一郎を見ていた。純一郎は私と目が合うと微笑んでくれたり、何か食べたいものはないか聞いてくれた。でも私が純一郎を見ても純一郎が私を見てくれない時もあった。そういった時は大体、彼は母を見ていて母を見ている時の純一郎の眼差しが私を見る時のそれと違うことは幼いながらに理解していた。
私は純一郎の気を引きたくていつもよりも我が儘になった。屋台を見つけるたびに興味のないものまで食べたい、欲しいとねだった。母はそんな私を咎めた。
母の得意の台詞、我が儘言うんじゃないの!を連発した。
純一郎は叱る母を見て苦笑する。けれどその苦笑の奥に母への恋心が見えた。
私と純一郎は初対面だったから純一郎の私への愛着は母とは比べ物にならないほど薄かった。それは誰のせいでもなく当たり前のことだった。それを幼いながらに理解していた私は恐かった。母が離れていくこと、純一郎が私を置き去りにして母を連れて行くことが恐かった。
私は純一郎に愛されなければならない。
純一郎を取り込む必要があった。
「あ!雪の塊‼︎」
祭り会場の片隅に集められた雪の塊を見つけた私は側に駆け寄ってそれを勢いよく踏みつけた。
「こうやってするとね…ほら!黒くなった‼︎」
顔を上げて振り返る。
私は笑顔で自分の靴底で汚れた雪を二人に見せた。
二人はそれを子供のふざけたお遊びを見るように眉を下げながら笑っていた。
「せっかく誰かが掃除して集めてくれた雪なんだからやめなさい。ほら、こっちへおいで。」
母が笑顔で私に手を差し出す。
私は駆け寄って母の手を握った。
純一郎の側にいる母はいつもよりも優しかった。それにいつもよりもよく笑っていた。
私と二人でいる時の母はいつも厳しくてピリピリしていたからずっと純一郎が側にいればいいと感じた。それは母の為ではなく私の為に、私が気分良く過ごせる為に純一郎がずっと私達のそばにいればいいと思った。
三人で祭り会場を歩いていると指人形を売っている屋台を見つけた。当時、私は指人形を使って一人遊びをするのが大好きだった。家には沢山の指人形がおもちゃ箱の中に入っていて母が家事や仕事の持ち込みで忙しくしている時は決まってそれを使って一人遊びをしていた。
「ママ!指人形!うさぎさん‼︎」
うさぎの指人形を指して母を見る。
「指人形はおうちにいっぱいあるでしょ‼︎」
母が呆れた声を出す。
「ほしい!これ、ほしい‼︎」
私の言葉を被せるように母が、駄目を連呼する。
普段かまってくれないうえに叱ってばかりなのだから指人形一つくらい安いじゃないか。
幼い私は納得がいかなかった。
母は私を指人形から引き離すように腕を引っ張った。私は母の力に抗えずに欲しいものから身体が離れていく。懸命に手を伸ばしながらうさぎの指人形が遠のいていった。
「ママ、トイレ行くからサナもおいで。」
むくれた私が首を横に振る。
私は指人形の件を長い時間、引きずっていた。
「ああ、そう。じゃあ、いいよ、ママ一人で行ってくるから!」
対抗するように母が苛立った声を上げて私の側から離れていった。私の腕を掴んでいた母の手は離れて私のもう片方の手を純一郎が包む。
「サナちゃん、ちょっと歩こう。」
遠のいていく母の背中を見つめていると純一郎が私を見て言った。
私は訳もわからいまま取り敢えず頷いて祭り会場を親子じゃない二人で歩いた。人でごった返す並びを歩く純一郎の手は私が離れないように力強かった。
純一郎が足を止める。同じように私も足を止めた。一つの屋台が目に入った。私は勢いよく顔を上げてそれを見ると純一郎を見つめた。
「ママに内緒に出来る?」
うさぎの指人形の前で純一郎が私を見つめる。柔らかい眼差しだった。
私は何度もしつこいくらいに頷いた。すると純一郎が笑った。花が咲いたように笑った。幼い私には純一郎の後ろにキラキラが見えるくらい眩しい笑顔だった。
「今日はずっとこれを隠しているんだよ。お家に帰ったらしばらくはママがいない時にこっそり遊ぶんだよ。」
そう言って指人形を渡した純一郎は救世主のようだった。私を救ってくれる唯一の天使。お伽話の王子様だった。
親子じゃない、だからこそ、そう思えた。
私は初めて会った瞬間から純一郎に惚れていた。
それはあの人の娘だから必然であった。
帰宅すると純一郎が既にお酒を飲んでいた。
年末年始休暇に入った純一郎は一日中、パジャマ姿のままテレビを見ているかお酒を飲んでいるかしかしていない。
「明後日、大掃除するから手伝ってね。」
酒を片手にテレビを見つめる純一郎が了解とでも言うように背中を向けたまま片手を上げる。
呑気にテレビを見て笑う純一郎の背中を見てから仏間に向かった。仏間には母がいる。ずっと笑っている母がいる。私が何を思っても叱ることなくご機嫌に笑う母がいる。私はそれが嫌でリンを鳴らすことさえも拒絶する。
燃やしてしまいたい。消してしまいたい。
そうすれば私の罪悪感も憎悪も汚い感情も全部燃えてなくなるかもしれない。嗚呼、でも燃えカスが残るんだ。黒い粉、次はそれを消すことを考えなければいけなくなる。
母の遺影から逃げるように背を向けた。
純一郎のいるリビングに戻ると酒を飲む純一郎の側に見慣れないパンフレットが数冊置いてあった。
「何これ?」
パンフレットを手に取って尋ねる。
純一郎が私を見て思い出したように話す。
「ああ、それ!この間、会社の人がくれたんだ。大学のパンフレット。サナ、来年は受験だから候補になる大学あるかなってさ。」
大学名が印刷されたいくつものパンフレット。聞いたことある大学名もあったが知らない大学名もあった。きっと地方の大学だ。
地元ではない大学。考えただけで胸が苦しい。
「好きにすればいい、サナの人生だ。」
パンフレットを持つ私の手が震える。それから段々、それを見つめる私の視界が霞んでいく。
「自分の人生、俺のせいで無駄にするな。家族のせいで棒に振るな。」
ポタッポタッとパンフレットの上に涙が落ちる。
パンフレットの文字が私の涙で滲んでいく。
「離れたって大丈夫だよ、俺たち家族だから。」
パンフレットで顔を隠すようにして咽び泣く。
涙が全部、大学名が印字されたところに集まって染み込んでいった。
私は幸せになりたい。純一郎と幸せになりたい。
これが答えだなんて知りたくなかった。
「俺はもう一人でも生きていけるよ。サナのお陰だ。」
立ち上がった純一郎が私の背中に優しく触れた。それからすぐにその手を離した。
純一郎はここで母と二人で生き続ける。
私はここを一人だけ出なければならない。
それが私たちを幸せにする最良の手段だからだ。
私はそれが苦しい。そうしないとどちらも幸福になれないなんて、それが苦しい。
母が憎い。だけど母がいなかったら私は純一郎に出会えてなかった。こんなに苦しいのに純一郎のいない人生は私には到底、考えられない。
何故いつもこんな立場なのか。
肩を震わせながらパンフレットを握り締めて二階に上がった。純一郎は私を追いかけることはなかった。
自分の部屋にこもって一晩中、泣き崩れた。
「サーナ!」
指人形で遊ぶ私に向かって母がご機嫌な様子で名前を呼ぶ。
「なぁに?」
指人形する手を止めて母を見る。
「サナは純一郎お兄さんのこと、どう思う?」
母は夕飯を作っている最中だった。
台所から味噌汁の匂いがした。
私が小首を傾げると母が言い直す。
「サナは純一郎お兄さんが好き?」
「うん、大好き!」
私の言葉に母は気分が良さそうだった。
「じゃあさ、純一郎お兄さんといつか家族になりたいなぁって思わない?」
母の表情が僅かに緊張しているのが分かった。
「家族ってなぁに?家族になると何が変わるの?」
幼い私が母に疑問をぶつける。母は困ったように考え込んだ。
「そうだなぁ…う〜ん…家族になるってことは…」
考え込む母が理解したように顔をパッと明るくする。
「家族になるってことはずっと一緒にいるってことよ!」
母が満面の笑みを浮かべた。母の言葉に私の目が輝いた。
「ずっと一緒?純一郎とずっと一緒にいられるの?」
「そうだよ!いつまでもずっと一緒!」
私は何度も頷いた。
「うん。それならサナ、純一郎と家族になる!」
欲しいおもちゃを買ってもらえた子供のようにはしゃいだ。
純一郎と家族になる!純一郎とずっと一緒にいる!
二人きりの小さなアパートで私と母は互いの手を繋いで小さな輪を作るとくるくる回った。
純一郎!純一郎と家族!純一郎とずっと一緒‼︎
踊るように回る私達は同じ目をして同じ体温で同じ純一郎への想いを寄せながら母は私を見つめ、私は母のお腹らへんを見つめていた。
その奥の台所で沸騰して煮詰まった味噌汁の焦げ付くような匂いがした。
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