同じはずなのに私だけこのかたちはおかしい

「そういえば佐伯さんはこの間のテストどうだった?」

 自転車を引く音が今日もリズム良くカタカタと鳴る。

「いつも通り、可もなく不可もなし。直輝は?」

肩をすくめると直輝は優しく微笑んだ。

「そうか。俺は四つだけ順位が上がったよ。それでも佐伯さんよりも低いけどね。」

直輝が私と同じように肩をすくめた。

私は少しだけ嬉しくて微笑み返した。

再び直輝と一緒に帰るのが日課になって一週間が経過していた。

私達が一緒に帰っていることをクラスのみんなが把握している。そのことで雅也がたまに直輝をおちょくっているのを知っていた。

望美は最近、常にイライラしている。

ああ、マジうざい。とかムカつくんだけど。とか誰とは名前を出さずに定期的にそこそこ大きな声で呟く。勿論、それも直輝が教室にいない時だけだ。

私はそれを素知らぬ顔でやり過ごす。彼らが私のものに対して器物破損などをし始めたら、それなりの対処をしなければならない。私は弱くない。やられたらじっくり考えてやり返す時を待つ。だけど望美はそこまでするほど悪質ではなかった。

自分の思い通りにならなくて臍を曲げている子供。その程度だ。私よりも可愛げがある。

そう考えると私と望美は違う気がする。でもむかつくから同じにしてやりたい。

「もう少しで冬休みだね。」

直輝が喋ると彼の口から白い息が勢いよく吐かれてすぐに消えてなくなる。

「そうだね。」

直輝に言葉を返すと同じように白い息が私の目の前に広がって一瞬で消えた。

「佐伯さんは冬休み、予定とかあるの?」

窺うように私を見る直輝。

冬休みの予定など何もない。このまま陸人と会って抱き合う生活が続くだけなのかもしれない。

「何もないよ。」

直輝を見ずに遠くを見つめていた。視線の遥か先に同じセーラー服の子が二人、肩を並べて歩いている。

「それじゃあ、連絡していい?ライン、まだ送ったことないから冬休みに入ったら送らせて。」

思わず直輝の顔を見る。

同級生とライン。それも業務的な内容ではなくて、ちゃんとした遊ぶためのやり取りをする。胸がときめいた。私がそうしたことを出来る人間だと思っていなかったから。

でも駄目だ。期待しすぎてはいけない。彼は男だし、私に好意があるからそんなことをするのだ。無償の愛なはずがない。きっと見返りを求めている。

期待してはいけない。期待してはいけない。

何度も呪文のように呟く。

「いいよ。」

私の言葉に直輝が笑う。

温かくて生身の人間らしい笑顔だった。

彼の耳は寒さで薄桃色になっている。その耳に触れたい衝動に駆られた。その衝動を必死に抑える。

私と直輝はまだキスも手を繋ぐことさえもしていないのだ。

あまりにスピードがゆっくりで私にはこんな感覚は初めてだった。だからどうしていいのか分からなくて戸惑う。

誰かに想われたことなんて今までなかった。

私に好意を持った男や下心を隠して近寄る男はそれなりにいたけれど、ここまで諦めずに私を想って優しくしてくれる男は初めてだった。

だからどうすればいいのか分からない。

陸人のように直輝を利用したくない。

彼の優しさに付け入るのは良心が痛む。

愛していないのに愛したふりをするなんて、直輝が好きだから出来ない。

「ここまでだね。」

バス停前に足を止めて直輝が残念そうに肩をすくめた。

瞳の中に寂しさが見えた。子供の頃の私みたいな目で見られると胸がチクチクする。私は思わず直輝に同情の目を向ける。

直輝は私がこのままバスに乗らずに陸人の元へ行くことを知っている。それなのに彼は絶対にそれを責めない。己の感情と欲望を優先しない殊勝な直輝は私とはあまりにも違いすぎて、私が気楽に穴埋めすることを躊躇わせる。

「ごめん。」

下を向いて思わず出た謝罪の言葉。

「なんで謝るの?」

直輝が屈託なく笑う。

顔を上げて直輝の目を見る。彼はずっと私の目を見ていたようで瞳と瞳が合わさるように互いの視線が一致した。彼の薄茶色の瞳は太陽光に当たったガラス玉のように光が入っていた。

「先、行っていいよ。」

直輝に促されて私はゆっくりと彼に背中を向ける。

そのまま陸人の元へと歩き進める。

途中、後ろが気になって振り返ると直輝が私の背中を見つめながら佇んでいた。

陸人の元へ近づくほど直輝が離れていく。

良心の呵責を感じた。

八歳の時からこの感情を背負っている。これ以上この感情を背負いたくない。

赦免されたい。私が壊したなんて本当は思いたくない。私のせいではなく、自然なかたちで死んでほしかった。あるいはもっとクズだったらよかった。毒親だったら私はこんなに苦しまないで済んだのかもしれない。

これ以上、胸を痛めるのが恐くて、振り返って直輝の姿を見ないように足を早めた。



「中々、会えなくてごめんね。この間までテスト期間だったから。」

 陸人の部屋で制服を脱ごうとすると陸人がそれを遮った。

「今日は脱がなくていい。」

ベッドに腰掛ける彼は下を向いて頭を抱えていた。

「ああ、そうなんだ。」

制服を脱ぐことをやめた私は何をしていいのか分からず手持ち無沙汰になる。

陸人は私を見ないし何も喋らないから私は退屈する。

セックスしないなんて何のためにここへ来たのか分からない。

仕方なしに視線を泳がすとテーブル上に陸人が描いた私の絵が目に入った。陸人が描いた私はまだ色が入っていない黒い線のままだった。

「ねえ、今度、色を塗るところを見せて。私の絵をどんな色にするのか見てみたい。」

沈んでいる彼を慰める代わりに提案した。

陸人は苛立った様子で頭を掻くと顔を上げて私を見た。

私と陸人の視線が混ざり合う。

彼の不機嫌な視線が私を捉える。

「こんな関係、いつまで続けるの?」

陸人が真剣に尋ねた。

何を今更。そう言ってやりたい感情を必死に飲み込む。

「私達が満足するまで。」

私の回答に陸人が不満げに鼻で笑った。

「俺たちこのままじゃ永遠に満足しないよ。」

「じゃあ、永遠に続ければいいじゃん。」

陸人が私に同情の眼差しを向ける。

憐んでいるのが分かってむかついた。

「もう、この先に進みたい。」

嗚呼、苛つく。自分だけ問題解決して勝手に進めないでよ。私はまだ何にも解決出来ていないのに。

「この先って何?一緒に暮らすとか?ちょっと会えなかっただけで不機嫌になって、テスト期間くらい我慢してよ。それ以外は生理の時以外ほとんどセックス出来てるじゃん。」

「違うよ!」

焚き付ける私にさらに苛立った様子の陸人が叫んだ。

「俺はお前が好きなんだよ。」

認めたくないけど認めるしかないとでもいうように彼は下を向いた。

そして弱々しく一言、苦しい。と呟いた。

「なんで今更。」

私は思わず口をつく。

床に座ったまま視線を陸人から離すと家族写真が目に入ってそこに落ち着いた。

陸人の隣で微笑む彼に似た顔の女の人。

私はまだ何も解決出来ていないのに陸人は一人で解決してしまった。私はまた取り残される。

寂しい。私はまた一人になる。

「この間、お前が他の男と歩いているのを見た。その時に気づいたんだ。」

気づいた?何が?嗚呼、苛々する。私の気持ちがまた置いてけぼりになる。

「俺はサナが好きなんだ。」

陸人が私の目を見て伝える。

「そんなはずないでしょ‼︎」

私は立ち上がって叫んだ。

私を見下ろしいていた陸人の視線が上に上がって私が彼を見下ろした。

「まさか、愛とか感じちゃってるの?笑わせないでよ。いい?陸人。それは愛なんかじゃない。陸人は勘違いしているの。錯覚しているだけだよ。陸人、前に猫が好きって言っていたよね?道端で猫を見つけると可愛くてずっと見てられる、猫ならなんでも好きって言ってた。陸人にとって私はそれなの。陸人はそれを愛だと思い込みたいだけ。」

説き伏せるように強い口調だった。

陸人の視線が私から離れて下を向く。彼は項垂れた。

「それはお前だろ。」

陸人が弱々しく反論する。

「いつまでも自分の気持ちから逃げているから苦しいままなんだ。」

「向き合っても解決しないじゃん。」

「向き合ってこなかったやつがそれを言うな。」

嗚呼、陸人。

あなたはこの間まで私と同じくらい幼かったのに今は私よりも大人になってしまった。

ちゃんと自分の気持ちを精算しようとしている。私を使って利用して成長しようとしている。

そんなの許さない。私と同じようになれないのなら絶対に許さない。

「私はもうあなたが好きじゃない。」

思い通りにいかなくて拗ねる子供のような言い方だった。

陸人は私を見ずに下を向いたまま静かに何度も頷く。

「分かった。もう出て行ってくれ。」

弱々しい声だった。

でも私よりも声が落ち着いていて初めて陸人が私よりも年上に思えた。

「さようなら。」

最後にそう言って部屋を出た。

陸人は返事をせずに項垂れたまま私を一度も見なかった。

靴に履き替えて陸人の家のドアを開ける。外の世界が広がる。扉の閉まる音が聞こえてゆっくりと振り返った。目の前で硬く閉ざされた扉はもう私の力では開けられそうになかった。

エントランスを抜けて高く聳え立つマンションを見上げた。陸人の部屋の窓は灯りが点いておらず薄暗いままだ。

私はそれを一瞥して背を向ける。

そのまま歩み進めればいとも容易く彼との間に距離が開く。

向き合うことは苦しいだけだから避けたかった。

これからも避け続けたい。それを強要されても私は苦しくて逃げるだけ。私は私を逃してくれる人を探している。

いいえ、違う。

私は私自身をそのまま認めてくれる人を探している。

これからもずっと、永遠に。


 帰りにスーパーで食材を買ってからバスに乗った。

流れる景色の中に陸人と出会った湖が映った。

出会いと別れ。

私達はもう永遠に会わないのだろうか。

私は陸人から連絡が来るのを待つ。陸人はきっと連絡をくれるはずだ。

出会って別れて、生まれて死んで。陸人はまだ死んでいない。陸人と別れるとしたら私が感じる感覚はスマホのデータが消失するのと同じに違いない。痛手だけど死ぬほどじゃない。泣くほどじゃない。ただ、少しだけ落ち込む。それだけだ。

いや、もっと軽いのかもしれない。

今の気分は食べようと思っていたみかんゼリーが落ちた感覚。

せっかく楽しみにしていたのに。それだけ。

「みかんゼリーばっか食べて。」

しかめっ面で私を見る人がいる。

私に目元がそっくりだ。肌の色も似ている。

「そんなんだから夕飯食べれなくなるの!それにじゃがいもばかり食べて人参は食べてないじゃない‼︎」

荒ぶる声。私の嫌いなヒステリックな怒鳴り声。

嗚呼、これは私の母親だ。

思い出したくもない昔のはなし。

私が好き嫌いすると母はいつもヒステリックに怒鳴り散らす。

まるで自分の料理を否定されたかのように気上がる。

いつもそうだ。あの人は全部、自分が正しいとでも言うような口調で激昂する。

「人参は嫌いだから食べないの‼︎なんでシチューに人参入れるの⁉︎サナが嫌いなんだから入れないでよ‼︎」

幼い私が必死に抵抗する。八歳の私だ。

卓上に並べられた料理たち。マカロニサラダ、ホワイトシチュー、パン。

家族三人で囲むありふれた食卓の風景。

人参だけを綺麗に弾いた私が不貞腐れた顔でそっぽうを向いている。

「それ食べ終わるまで録画したアニメ見せないからね‼︎」

苛立った声の母が自身の皿に入ったシチューの人参を口に含んだ。

消えろ。心の底からそう願った。

嫌いなものを勝手に入れられて、指示に従わないと癒しの日課を奪われるなんて。幼い私の中から怒りが沸々と湧き上がる。

「サナ、頑張って人参食べよう。」

隣で様子を見ていた純一郎が励ますように私の頭を撫でた。

「どうして?どうして嫌いなものを無視しちゃいけないの?ユカちゃんはサナが嫌いだから仲間外れにするって言ってたよ。だからサナも人参を仲間外れにするの。だってサナ、人参が嫌いだから。」

私の言葉に反応した母が冷たく、

「屁理屈言うんじゃないの。」と言ってまたシチューの人参を口に運ぶ。

純一郎は私を見て苦笑する。そしてもう一度、私の頭を撫でて優しく微笑んだ。

「ユカちゃんはサナの良さが分からないんだね。サナはすごく素直で良い子なのに。でも人参を食べないと人参の良さもわからないよ。」

純一郎が笑いかける。その瞬間、横から母の声が聞こえた。

「サナを甘やかさないでよ!私の子なんだから‼︎この子、すぐに純一郎に甘えて嫌なことから逃げるんだから‼︎」

純一郎が苦笑しながら、「いや、そんなつもりは…」と慌てた様子で私の頭から手を離した。

その瞬間、何かが音を立てて崩れた。

幼い私の理性だろうか。

私は叫んだ。思いっきり、怒りの感情を込めて。

「お前なんて私の母親じゃない‼︎」

目を見開く母。そして私は椅子から離れる。素早く、一瞬で。母が立ち上がる。その時には全速力で走って玄関の鍵を開けていた。

扉を開ける。その先に広がる世界。

走らなければ、逃げなければ。捕まってはいけない。

「サナ!」

後ろから母の叫び声が聞こえた。

私はそれを振り切るように全速力で走った。

逃げ切る、絶対に逃げ切る。私はこの女から逃げ切ってみせる。

住宅地の夜道を街灯が照らす。まだそんなに夜遅くない時間帯だった。それでも子供の私にとっては走っているだけで飲み込まれてしまいそうなほど暗い夜だった。

息を切らしながら全速力で走る裸足の私を街灯が照らす。道路を抜けて信号なんか見ている余裕はない。

目を見開いて前だけを見ていた。その瞬間、後ろからまるで悲鳴のような車のブレーキ音。あまりに大きな音だった。それから鈍い衝突音が聞こえた。

足を止める。恐る恐る振り返る。

随分と大きなトラックだった。運転手がフロントドアを開けて携帯電話を開く。その傍らで倒れている人間は頭から赤いものを流していた。

背筋が凍る。そこに倒れているのは本当に私の母親なのか。全くの別人にすら見える。でも着ている服が同じだ。さっきまで私に怒声を浴びせていたあの女の服だ。

ピクリとも動かない髪の長い女。

あの女だ。あれは私と同じあの女だ。

脚が震えて後退りする。一歩、二歩。

このまま逃げてしまいたい。

恐怖心で涙が浮かんで視界が霞む。

その視線の先で純一郎が母に駆け寄る。

「和穂さん!和穂さん‼︎」

母が声を発するのを願うように母の肩に触れて叫ぶ純一郎は私の存在を忘れているかのようだった。

私なんて最初からいなかったかのように純一郎は何度も何度も母の名前を叫び続けた。

汗ばむ初夏の記憶。私は額から汗を流していた。

こんな暑い日にシチューなんて作らないでよ。

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