同じかたちを望まないと幸福にはなれない
住宅地の景色を抜ければ、いくつかの店が現れる。
どれも古くて寂れた個人店ばかりだ。
塗装が剥がれて文字が見えなくなった看板の布団屋さん、ご近所のお年寄りが常連なのが容易に想像がつく美容院の昔ながらの電光掲示板は朝は光らない。
その景色を眺めながらため息を漏らす。
朝の通学バスで見える景色は今日も変わり映えしない。
私の斜め前の席では今日も一年生の二人が楽しげに顔を寄せ合って甲高い声で笑い合っていた。
バスの外はきっと冷え切っている。
バスに乗るまではそれを感じているのに乗車した瞬間それを忘れる。暖房が効いた足元はさっきまでの寒さを忘れさせて熱いとさえ思わせる。それなのに外に出ると冬の風が吹いてまた寒いと感じる。
ああ、そうだ。寒かったんだ。
バスを降りたら私はきっと鼻先を赤くして、こんな間抜けな感想を心の中で呟くに違いない。
車窓にもたれ掛かった私は昔のことを思い出した。
昔といってもそんな昔じゃない。ほんの二年ほど前の記憶だ。何故、今さらそんなことを思い出すのか。それはきっと寒いからだ。冬だからだ。バスの暖かさが冬を感じさせる不自然な暖かさだから。
雪。真っ白な雪は天使が舞い降りたかと思わせる。濁った空からあんな純白なものが降りるたびに私はそれを思う。掴んだら消えてなくなる儚き純白だ。
あの日、私は日曜日なのに勉強をしに外に出ていた。
中学三年生の冬、受験生だった私は塾の帰りだった。
その日はまだ十二月半ばくらいだったのに雪が降った日だった。
雪はすっかり止んでいて空から天使が舞い降りる瞬間は塾で窓から覗いた時のみしか見れなかった。舞い降りた天使は多くが消え損なって残骸となる。それが地面に残って私はそれを踏みつけながら歩いた。
舞い降りている瞬間は美しいのに地面に残って人々に踏みつけられたそれは黒ずんでいて汚い。私はそれをみんなと同じように踏みつけて歩く。
なんてことない、ただの雪だ。
なんだ天使じゃなかったんだ。
ああ、あんなに白くて綺麗だったのに茶色くなって汚いな。
馬鹿みたいなことを考えながら歩き続けていると歩道の端にまだ茶色くなっていない真っ白な雪の塊を見つけた。
私はそれに近づいて純白を見下ろす。
雪が降ったばかりの日曜日の夕方は人通りが少なかった。
私は純白に足を上げた。そのまま私の足は純白の下に落ちてフワフワの雪の塊がへこんだ。それからもう一度、足を上げる。
さっきまで純白だった雪の塊が私の靴底の形になって黒く汚れていた。
私はまた純白に足を落とす。
勢いよく、何度も、執拗に、それを踏みつけた。
真っ白な雪はへこんで、やがて平らになって、黒ずんで、やがて白ではなくなる。
でも完全に黒くなることも出来ない。
真っ白でもなく、真っ黒でもない。
ただ、汚い。ただ、汚れるだけ。
それを踏みつけていると私の息が荒くなった。
私の口から白い息が荒々しく外気に触れて消えていく。
私の願いは叶った。あの時の私が願った通りだ。
私のものになったのに。私が欲しかったもの。ずっと欲しかったのだから願い通り手に入って当然、幸福なのではないか。
それなのに苦しい。こんなに苦しい。
何よりも欲しかった。一番、欲しかった。
手に入れたのに手の中に収めた雪のように見えない。
雪。いなくならないで。あなたのいない人生は苦しい。
でも近くにいる。こんなに愛しているのに。私が誰よりも焦がれているのに。私の一番はあなたなのに。
私がいくら愛しても終わりはない。始まりは来ない。
嗚呼、そうか。私とあの人は望んでいる幸せのかたちが違うんだ。
私達は幸せになりたいのに、願っている幸せのかたちがまるで違う。
それじゃあ、変えてよ。私は変えられない。この気持ちを変えられない。あなたはどうして変えることが出来ないの。同じなのに、私とあの人は同じなのに。
同じように愛してよ。
互いが違うかたちの幸せを願っていたらいつまでも幸せになれない。どうして私を愛してくれないの?
純白の雪は私の足ですっかり汚れて黒くなっていた。それを見ると安心して空を見上げる。
雪は止んでいるのにまるで晴れていない。濁った空は私が踏みつけた雪のように汚い色をしていた。
「純一郎。」
名前を呟くと視界が霞んだ。そのまま生暖かい液体がこめかみを通って髪を濡らす。そしてまた視界が霞んで同じことを繰り返す。寒さで手は震えているのに顔中が熱くて鼻先は真っ赤だ。鼻水を啜る。
涙は苦しいからあまり好きじゃない。鼻先は赤くなるし、熱くなるし、それなのに心は冷え切っている。
長いこと一人だけ熱すぎて、もう冷たくなっている。
こんなに欲しいのに、どうして手に入らないの?
手に入れたはずなのに、どうして拳を開いても見えないのか。
純一郎、私の純一郎。
嗚咽する。私の胸が、顔が、熱を帯びていた。顔を歪めて、いつまでも空から目が離せなかった。
一限目の終了を知らせるチャイム音。
教師が授業終了を伝えれば教室内は解放されたように活気づく。
「なーおーき!」
望美が猫なで声で直輝に近づく。
その声を聞いた直輝が席を立つ。そのまま望美を避けるように廊下へと消えていった。
望美は茫然自失する。
それから顔中が真っ赤になった。
プライドを傷つけられた苛立ちと思い通りの反応をもらえなかった怒り、自分の気持ちと相手の気持ちが一致しなかった悲しみ、それらが混ざってそんな顔になる。
私は望美のその顔を見ているとまるで自分自身を映した鏡のように思えて目を逸らした。
私と望美は似ている。
彼女はその事実に永遠に気がつかないだろう。
望美は机に手をついて立ったままスマホをいじる由美の隣につく。そこに行くことにまるで躊躇いがない。そこに行っても違和感なく受け入れられることを分かっているから無意識にそこへ行ける。だって彼らはライングループの七人だから。だけど今ライングループで繋がる彼らは静かに崩れていく。
永遠だと思わさせる瞬間は静かに、緩やかに、音を立てずに崩れていく。
人間関係はいつもそうやって成り立っている。
生涯出会う人々はみんな始まりは一瞬、終わりは音も立てずに静かに訪れる。気づいた時には隣にいない。そしてたまに思い出す。でもほとんど忘れる。
みんな新しい方を考えて、それ以外は過去だから。
「なんで私ばかり避けるのよ。」
納得のいかない様子で望美が呟いた。
望美の顔をじっと見ていたが彼女が私を見るのが分かって視線を窓の外へと逸らす。
意識している。私も望美も互いを意識している。
私達は同じだね。互いを嫌って互いの動向を観察している。
そう考えると好きと嫌いは表裏一体だから私達は互いが嫌いなのではなく、互いの同じところに嫌気を起こしていて互いの違うところに憧れている。
馬鹿だね、私達。私も望美も生きるのがまるで下手だ。
「さとみは?」
由美が教室内を見回してさとみがいないことに気づく。
「廊下で愛花と喋ってる。」
望美が肩をすくめた。
「ああ、なるほどね…」
納得した様子の由美が視線をスマホに戻す。
二人から離れた席で智也が雅也と楽しげに喋っている。彼らの大きな笑い声が教室中に轟く。
智也と雅也は別グループの男子も交えて楽しく会話していた。智也はもう同じ教室内にいる望美も由美も気にかけていない。
さとみとは喋らない。目も合わせない。智也に合わせるようにさとみも同じようにする。
智也はさとみと親しい望美たちにも同じように接する。智也にとってさとみと関係を切ることは即ち彼女の友人たちと関係を切ることになるのかもしれない。
彼女たちの友情は脆いけれど仲間意識が強いから敵を見つけた時の協力体制は目を見張るものがある。
一緒にいる間は中々切れないし一時的な仲間であっても一時的な男女関係よりも強固だ。
ひとたび牙を向くと強くてしつこい。いつまでも終わらせない。牙を抜くには教室から抜けることしか方法はない。それ以外は彼女たちの関係が終わる瞬間を待つのみ。例えばクラス替え。それでも無理だったら卒業。その瞬間を待つしかない。
賑やかな教室内は生徒たちのいくつもの声が混ざり合ったもの。その中の一つが消えても誰も気づかないんじゃないか。
私はいつも教室にいるのに声を発することはない。
発し方が分からない。わざわざ発してまで話したいことがない。私が発する言葉はみんなが発する言葉と少し違う。どこかずれている。
発したらみんな沈黙になる。みんなと話し方も内容も違うから、ずれているから。
だから今日も静かにこの小さな世界での日々をやり過ごす。
昇降口の開放扉に近づくと冷たい外気に触れて手先が凍りつく。
まだ十二月の半ばだというのにこの寒さで弱っていてはこの先が思いやられる。
上履きから履き替えた靴で歩み進めると入り口近くに溜まった砂を靴底で踏んだ。ジャリッと音がして、それが下校する生徒たちの声にかき消される。
「佐伯さん!」
私はもう彼の声を他の生徒たちから聞き分けることができるようになっていた。
振り返って顔を見る。
直輝が私を呼び止めた。真剣な眼差しだった。
「一緒に帰ろう、絶対に。」
今までで一番、私に向けた強い口調だった。それでも彼の慈悲深さが残った声。
その声を聞いて私は頷くしかなかった。彼に誘われて断れる人間がいるだろうか。彼はその清白さで今までどれほどの人間に愛されてきたのだろうか。嫌われることを知らない人。そうなるような行動を取らない。あるいは私と生まれ持った情調が違うのか。
そんな人間の隣にいるのは屈辱だ。そして嬉しくて高揚する。私にもそんな人間を寄せ付ける力があったのだ、と自分が持てない世界に当たり前に住んでいる彼への憧れを彼の私への好意が唯一満たしてくれる。
「良かった。掃除があるんだ。悪いけど待っててほしい。」
直輝が笑った。口角が平等に綺麗に上がっていた。
私はその顔をただ黙ってじっと見つめて彼が背中を向けるまで立ち尽くしていた。
掃除を終えた直輝が私の元へ走って現れたのはその十五分後だった。私は昇降口の下駄箱の端で音楽を聴きながら直輝を待っていた。
途中、昇降口を抜ける生徒たちの中に望美がいて互いの目と目が合った。私がその顔をじっと見ていると彼女が不機嫌に私から視線を逸らして開放扉を抜けた。
「ごめんね、遅くなって。」
直輝が靴に履き替えながら謝る。
「大丈夫。」と返すと彼が顔を上げて、
「待つのは嫌い?」と尋ねてきた。
「待っても待たなくてもどうせ退屈だから大丈夫。」
靴に履き替えた直輝と肩を並べて開放扉を抜ける。
「今日は、例の人と会うの?」
駐輪場から自転車を引き抜く直輝がこっちを見ずに聞く。他の自転車に挟まって中々引き抜けないようだった。
「陸人?」
私は思わず名前を口走る。
「ああ、そうやって呼んでいるんだね。佐伯さんの彼氏なんでしょ?」
直輝が苦笑しているのが分かった。
挟まっていた自転車をようやく引っこ抜くと車輪が回りだしてカタカタと音を立てた。
「彼氏?まさか。」
私は思わず笑う。私と陸人が恋人になるなんて到底、想像がつかない。
自転車を後ろに引いていた直輝が振り返って私を見る。無言で私を見る顔は表情がなくて何を思っているのか読み取れなかった。
「そうなんだ。」
そう言って再び自転車に視線を落とす直輝は今までで一番、人間味がなくて私は初めて彼の考えていることが分からなかった。
「キスはする仲なんだね。」
自転車を引いた直輝と私が校門を抜けて歩く。
ここからバス停まであと十分。
「そうだよ。それ以外だってするよ。」
直輝の自転車の車輪がリズム良く音を鳴らす。
「そういう人間、引くでしょ?私と直輝って全然違うよね。」
だから話しかけるな。そう言ってやりたい。
嗚呼、余計な感情。手の中に消える雪みたいに虚しい。
「確かに違うかも。俺たちは似てないよね。」
分かっている。そんなこと最初から分かっている。だから私はあなたが嫌い。あなたが私を好いたふりをするから嫌い。
「違うから知りたいって思うのかも。」
私は直輝を見る。彼は私を見ないで自転車の車輪を見つめていた。
違うから知りたいなんて、ただの好奇心だ。それなら私を知ってしまえばもう終わり。不毛だ。不毛な時間だ。
直輝が突然、足を止めた。急ブレーキをかけるように私の足も止まる。バス停はすぐそこだ。
そのまま自転車を道の脇に停める。私はそれを呆然と眺めていた。
「来て。」
直輝に手を引かれて歩き出す。
置き去りにされた自転車が私と直輝の背中を見つめているような気がした。従順にそこに佇んでいる。まるであの時の直輝だ。でも直輝はもうそれと一緒にそこにはいない。
私の手首を握った直輝が私を引っ張って私よりも前を歩いている。不思議な光景だ。太陽光に当たった直輝の茶色い髪を見つめる。
しばらくその髪を恍惚と眺めていると彼が足を止めた。それから彼の視線を辿るように前を見る。
目の前に薄暗い湖が広がる。
底に何があるかなんて見えやしない、見せてくれない湖。どこまでも広がる。そして突然の終わり。この湖を阻む森林。その奥は薄暗くて何も見えない。鬼胎を抱かせるほどに先が見えない。
「夏休み明けにここで佐伯さんが男とキスしていたって聞いたんだ。」
遠くを見つめる直輝が静かに口を開く。
彼はまるでこの緑地の先が見えているかのようだった。
「それから今まで何とも思わなかったこの場所が急に特別に思えるようになった。」
直輝の視線が私に注がれる。
真っ直ぐ見る目に熱を感じて、私はその視線が恐くて今にも逃げ出したかった。
「いつか、この景色を一緒に見たかった。」
直輝の視線が私から湖に移る。その目を見て、直輝が見ているのは湖ではなくその奥で湖を阻む緑地であることが分かった。
直輝にはその先に何が見えているのだろうか。
私はその先は何も見えなくてただの暗闇にしか思えない。直輝はそこに光を照らすことが出来る人なのだろうか。たとえ私と直輝が違う者同士であっでも。
「別れてほしい?」
直輝を見つめて尋ねると彼は私を見ずに、
「別に、付き合ってないんでしょ。人の行動に制限をかけることは良くない。俺がそれを言う権利はないよ。」と返した。
「ただ、また一緒に帰ろう。」
私に視線を向けた直輝が優しく微笑んでいた。
私にはもう頷くしか選択肢はない。
微笑む直輝の瞳は冷たくて、私の手首を握る手は熱かった。
外気に触れた私の手は冷たくて直輝の熱が心地良かった。
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