私とあの女は欲深く醜い性悪同士だから争う

 風は匂いを運ぶ役割があるのだと思う。

四季に応じて私はそれを何度も実感したことがある。

暖かな風に花が揺れるのを眺めながら春の匂いを感じた。

照りつける太陽にじんわりと汗をかきながら生温かい風が鼻に入って夏を感じた。

風に巻かれる枯れ草を近くで眺めていると秋の匂いがした。

そして今日の朝、バスを降りた時に身震いしそうな冷たい風が吹いて鼻先を掠めた瞬間、冬の匂いを感じた。

嗚呼、もう冬が来てしまうのか。

冬は悲しい季節だ。切ない季節。

冬は楽しいことよりも悲しいことが多い。

私は冬になると苦い思い出ばかり蘇る。

子供の頃は冬が悲しい季節だなんて思わなかった。嬉しい季節だった。雪が降る喜びの季節。それを私自身が悲しい季節に塗り替えた。

「もう少しでクリスマスじゃん‼︎」

教室内で愛花が嬉々とした声を上げる。

「彼氏とデート?」

由美が尋ねると愛花は苦々しい顔をして、

「いいや、がっつりバイト…人手が足らなくて…それに浩太も部活〜。」と不満げに唇を突き出した。

「由美は戸部くんと過ごすんでしょ?」

望美が由美に聞く。

「まあね。雅也も小夏ちゃんとまたディ○ニーランド行くんでしょ?残りのメンバーはどうするの?」

由美の視線の先に恋人いない組が映る。

智也、さとみ、望美、直輝だ。

「俺はバイトだから。」

智也が素っ気なく答える。

「私は弟もいるし…家族で過ごす。」

さとみが儚げに答える。本当は智也と過ごしたかったのかもしれない。だけど二人は私が目撃したあの日以来、すぐ側にいるのに一度も目を合わさず喋っていない。みんなと一緒にいるのに互いの話にみんなと一緒に笑えなくなっていた。

「私は暇、めっちゃ暇‼︎どっか行きたい‼︎」

望美がクリスマスの予定が空いていることを声を上げてアピールする。

「直輝もどうせ暇でしょ‼︎どっか行くの付き合ってよ‼︎」

望美が強引に直輝に迫った。

直輝は自分に振られるのが予想外だったのか戸惑いの声を上げた。

「いや〜俺も家族がいるからな…」

曖昧に頭を掻く直輝。

直輝と一緒に帰ったあの日から一週間が経過していた。

あの日、自転車を走らせて消えた直輝から連絡が来ることはなかった。

次の日、直輝はいつも通りライングループのみんなと何事もなかったように喋って私とは一度も目が合わなかった。

それから私と一緒に帰ることも私に話しかけることも私を見つめることもしなくなった。

これでいいんだ。

恋愛感情なんて煩わしいものだから私はそれを一番分かっているから、直輝が私にそれを向けなくなったことに安堵する。そして同時に寂しかった。

「クリスマスを一緒に過ごす相手がいる方が家族も安心するよ!ウチのお母さんも言ってたもん‼︎だから私と遊ぼうよ、直輝‼︎」

望美の甘えた声が教室中に轟く。

最近、私と直輝が一緒に帰っていないことを望美は分かっていた。それから私達が決して目を合わさないことも彼女は気づいていた。

「赤塚の家族と俺の家族は違うだろ…」

直輝が困惑気味に返す。

別にいいじゃ〜ん‼︎と望美が駄々をこねる子供のように粘った。

「別に予定がないなら二人で遊べばいいじゃん‼︎」

愛花の慈悲のない声が響き渡る。

「そうだよ‼︎お互いフリーなんだし‼︎」

由美の言葉に直輝は苦笑して下を向いた。



「ねえ、陸人は性善説と性悪説って知ってる?」

 一週間前、直輝の前で陸人に舌を絡めたあの日。

情事を終えた私は陸人に背中を向けて下着を脚に通しながら尋ねた。

「聞いたことはある。でも全然詳しくない。」

ベッドの上で寝そべった陸人が正直に答える。

「自分から言っておいてなんだけど私も全然詳しくないの。だから表面的なことしか話せないけど陸人はどう思う?」

セーラー服をかぶりながら尋ねる。

「どうって…人は生まれながらに善なのか悪なのかってこと?」

後ろから陸人の声が聞こえる。

「そりゃ、善だよ。良心の呵責なんて言葉もあるくらいなんだから。善があるから人は傷つくんだよ。それに伝えられないことも生まれる。」

後半は何かを思い出したかのように声が沈んだ。私はそれが何なのか理解していた。

「善は生まれながらにあるけれど努力しないと開花しないんだって。」

そちらが正しいのなら私もみんなも努力が足りない怠け者なのだろうか。

産声を上げた時、私は善良な心を備えていたのだろうか。

でも努力っていつから?どうやって?

誰も明確な答えを示してくれなかった。

それとも誰も答えを知らなかったのだろうか。

「私は性悪説を信じてる。」

私の言葉に陸人が興味なさげに、ふーん。と返した。

「人は弱いから悪になるの。でも努力したら善になれるんだって。弱いって良くない言葉なんだね。」

弱いから私は私を苦しめる。

弱いから私は同じくらい弱い人間と争う。

私と望美の冷戦は醜い。

私と望美は醜い。

何にも苦しんでいないくせに私と対等なんて生意気だ。同じくらい醜いなんて悪質だ。

「人が生まれながらに備わっているものが善だろうと悪だろうと結局、努力しないといけないんだ?」

陸人がフッと笑う。

「そうみたい。」

私は静かに答えた。

セーラー服に着替え終わって陸人の家族写真をボーッと見つめる。

「努力は嫌い。そんなことしたことないから。」

私の言葉に陸人は無言で何も返さない。

どこまですれば努力と呼ばれるのか。ちゃんと答えてくれないと分からない。

世の中は何でも、言わなくても分かるでしょう?と言って成り立っているから私は誰かに何かを伝えることが出来ない。

何を伝えたいのか、それを誰に言うべきか、どのように言葉にすべきか、誰も教えてくれない。

そしてそれを誰かに上手く伝えられた時、何が解決するのか、どのような結果が生まれるのか、それも誰も教えてくれない。

何事も経験と言うけれど、経験で犯罪を犯したら捕まるし、ろくでなしと付き合うと同じようにろくでなしへと染まっていく。

誰かを殺したら、誰かが傷つく。

愛する人を傷つけたら、必ず天からの報復が訪れる。致し方ない節理だ。

そうならないように答えが欲しかった。

でもそんな答え、私はきっと突っ撥ねる。

やり直したところで突っ撥ねてまた繰り返す。

私は望美と同じくらい欲深いから。

突っ撥ねないと別の不幸が待っている。

それを携えて生活するなんて私には苦しくて出来ない。

居たら私は苦しめるから。煩わしくて苛立つ。

嗚呼、そうか。だから教室で今の私が存在する。

煩わしさはどこにでも存在する。それが教室に変わっただけのことだ。

「お前って本当に何考えているんだか分からない。」

陸人の言葉に振り返る。

ベッドでだらしなく横たわる陸人に近づいて額にキスをした。

陸人が上目遣いで私を見つめる。

「絵、色塗り終わったらまた見せてね。」

私は陸人の本当の完成品を見たい。

陸人にとっての本当の私。

それが完成すれば私は楽になれるだろうか。

期待していない。でも少しだけ期待している。

私は陸人に愛着がある。直輝よりもずっと強い愛着心だ。

「しばらくは塗れないけど絶対、塗るよ。」

ベッドに横になったままの陸人が柔らかく笑いかける。

「待ってて。期待していて。」

陸人の腕がのびて私の頬を優しくなぞった。



 陸人の家を出るとスーパーに寄った。

最近は楽だから炒め物や焼き物に走りがちだったけれどたまには豚の角煮とカボチャの煮付けでも作ろうかと材料を手に取る。ついでにブリの刺身と小松菜が安かったから買った。

買い物袋を下げてバス停に向かうとタイミングよくバスが停まっていて列に並んで乗車した。

車窓から流れる景色を眺める。

豚の角煮は純一郎が好きな料理。カボチャの煮付けは初めて私が作った時、純一郎が驚嘆して褒めてくれた料理。

私はそれを用意して今日もあの人の帰りを待つ。

その瞬間は決して醜くない。

料理をして待っている間、私は醜い感情を捨てることが出来る。雑念が湧かない。私はただ、穏やかで、いつも私の心を掻き乱すような人々は誰一人として浮かばず、ただ安心して一人を待つだけだ。

待っている間は一人なのに一人じゃない。

それでいて私の前には誰もいないから、私は心穏やかに、欲望に呑まれて顔を歪める必要がない。そしてそれを隠して見ないふりもしなくていい。

待っているのだから、帰ってくる人を。

その間、退屈して爪を噛む必要もない。

私には役割りがあるから、私は必要とされている。

私はその役割りをこなしてあの人の帰りを待つ。

これが私の大切な役割りだから。

純一郎は料理が出来ない。母がいなくなってから私が料理を始めるまでに純一郎が料理に挑戦したことが何度かあった。だけど料理をする純一郎は普段、私の知らないことを何でも教えてくれたり代わりにやってくれる姿が想像もつかないほどつたなかった。

私が十一歳の時に純一郎の作ったカレーの味を今でも覚えている。

具材とルーを入れて煮込めば完成するカレーを何故か焦がして鍋底が真っ黒になっていた。無駄に時間だけ掛かって完成されたそのカレーは工事現場の茶色いセメントを思い出させた。

私より先にそれを口に入れた純一郎が絶句する。

「サナ、これは食べ物じゃないからご飯から引き離そう。」

純一郎に言われて私はせっせと白米から食べ物じゃないカレーを引き離して納豆をかけて食べた。

そんな純一郎はご飯の上にそれを覆うように大胆にかけてしまっていたため、皿に入ったそれをゴミ箱にダイブさせた。それからお茶碗に白米をよそってパックに入った市販の昆布の佃煮を開けて食べていた。

フッと笑いが込み上げる。

気がつけば車窓の風景など見ていなかった。目に見える景色よりも頭の中の光景の方が鮮明でそちらを見ていた。

目は今現在見えるものを見るものなのに記憶を思い出すと目の前の光景が過去に染まるのは何故だろうか。

瞳と頭は繋がっているのだろうか。

私は時折、過去に戻る。

ふとした瞬間に昔を思い出す。その間、私の心は過去に存在している。

バスが家の近くの停留所に止まる。

買い物袋を下げた私は知らない人々と一緒に列をつくって小さな動く箱から抜けた。それから列をつくったみんなと同じように、みんなと違う家に帰る。

家に着くと純一郎の車が置いてあって珍しく純一郎が先に帰っていることが分かった。

扉を開けると帰宅時、いつもは暗いリビングにあかりが灯っている。

純一郎と目が合うのを想像して廊下を進んだ。

古い建物の床は歩くたびに音が軋む。私の重力で鳴く床は一定のリズムを刻んでいた。歩進めてリビングに入ると純一郎の姿はなかった。

「あ。」

思わず声が漏れる。残念な、寂しい声。

その瞬間、リンを鳴らす音が響く。

横を向くと純一郎の背中が見えた。

純一郎は私に背中を向けて仏壇に手を当てている。

そのすぐ傍で嬉しそうに笑う母が居た。

母の写真は純一郎を見つめていて、まるで私の存在に気づいていないようだった。

純一郎が静かに立ち上がる。そのまま振り返ると黙って立ち尽くす私と目が合った。

「おかえり。」

純一郎がそう言って小さな仏間の電気を消す。

その瞬間、写真の母と目が合ったような気がしてハッとした。

私は慌てて写真から目を離すと買い物袋に入った食材を冷蔵庫に押し込む。

「今日は刺身と味噌汁だから。」

買い込んだ食材を冷蔵庫の奥に仕舞った。

純一郎が上機嫌に、刺身!と声を上げた。

豚の角煮もカボチャの煮付けも今は作る気分にはなれなかった。

喜ぶ純一郎を見つめて頷く私は冷や汗をかきながら苛立っていた。



 直輝と帰らなくなって十日以上が経過した。

放課後の昇降口で一人、上履きを脱ぐ私はふと教室に忘れ物をしたことを思い出す。

月曜日までに提出しなければいけない生物のプリント。今日は金曜日だ。このまま忘れて未提出だと内申に響きかねない。

戻るのが面倒な気持ちもあったが靴を下駄箱に仕舞ってもう一度上履きを履いた。

そのまま廊下を渡る。放課後の廊下は休み時間に比べて生徒が少なく穏やかだ。学校に居残ってふざける僅かな生徒たちの笑い声が時折、耳に入る。

上履きで歩くたびに廊下がペタペタと鳴った。

扉の閉まった教室の横開き扉をゆっくりと開ける。下を向いて教室と廊下の境目を表す銀色の線を見つめていた私の視線は正面へと移る。

顔を上げたと同時に私の目の前の席に親しげな男女が映った。

その男女を黙って見つめる。

椅子に座った男。その男の前に存在する女が机に体を乗り上げて男の顔を覗きんこんでいた。

直輝と望美だった。

私はそれを見つめて沈黙。

扉の開く音に反応した二人の目線が互いから私へと移る。私を見たその瞬間、望美の目の色が変わった。

勝ち誇ったような優越感に満ちた瞳。望美の口元が僅かに緩んだ。

一方の直輝は私を見た瞬間、動揺して目を見開いた。

それから、あ。と僅かに声を上げて慌てたように椅子を引いて望美から距離をとった。

そのまま視線を泳がす直輝。

私は彼らから視線を外すと自分の席へと向かった。机の中に入ったプリントを出して畳むと鞄の中にそれを押し込む。

押し込む、無理矢理。

綺麗に畳まれたプリントに皺が寄る。

私はそこだけに集中して彼らが存在していないかのように振る舞う。

皺を寄せながら半ば強引に鞄の中に滑らせたプリント。鞄のチャックを閉めて彼らを見ずに早歩きで教室を出た。

直輝の表情も望美の顔もそれ以上一切見なかった。二人の視線が私に集中していたことは空気で分かった。

銀色の線を踏みつけて廊下に出ると教室の扉を静かに閉める。その間も私は彼らを一度たりとも見なかった。

扉を閉める際、私は往生際悪く扉を完全に閉めなかった。僅かな隙間を残して立ち去る。

立ち去ったふりをする。

私は足音を立てないように静かに戻った。

それから扉から見えないように壁際にゆっくりともたれる。

私は思いの外、執念深いみたいだ。

「何するんだよ〜‼︎」

口惜しい直輝の声が聞こえた。

「だって、目が赤かったから近くで見ようかなって思ったんだもん‼︎」

望美が甘えた声で反論する。

「別にいいじゃん。直輝、あの子に振られたんでしょう?向こうは今頃、なんとも思ってないよ。」

説き伏せるような望美の囁き。

その後に直輝の落胆するため息が聞こえた。

直輝のため息を耳に入れたままその場を離れた。

私は往生際が悪い。

直輝を追い詰めたのは私なのに。

こうなることは予想がついたはずなのに。

アレに直輝の視線を許すのは想像以上に堪え難いことだった。

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