なんでも言葉で表そうとするなど馬鹿げている

 教室で席に着いている私は小説を開いていた。

最近流行りの映画化された恋愛小説を開いて懸命に読んだふりをする。

小説を読むことは出来るけれど教室内はあまりにも賑やかで雑音がうるさくて集中出来ていなかった。

ただ集中することをやめて本を閉じてもまた何か他のことをしているふりをしなければいけないから、それが面倒で全く頭に入らない文字の羅列をとりあえず目で追う、ページをめくる。そうすれば読書をしているふりが出来る。

「ねえ、昨日の”禁断の二人”観た?」

私の席のすぐ目と鼻の先で直輝たちがさとみの席を囲んで談笑している。

由美の言葉に智也以外のメンバーが、見た見たー!と騒いだ。

「めっちゃいいところで終わったよね⁉︎目の前に旦那がいるのにまさあきがゆうかの手を握ってさ〜‼︎」

スマホをいじるのを中断した愛花が興奮した声で熱弁する。

「あれって旦那気づいているのかな⁉︎」

「気づいてないでしょー‼︎」

「え〜⁉︎でもでも‼︎昨日も途中で怪しんでるような目してたじゃん‼︎」

「えー?嘘⁉︎そんなシーンあったっけ⁇」

このグループの女子たちは今話題の不倫ドラマに夢中のようだった。

盛り上がる女子たちの横で智也が首を傾げて話を聞いている。

「俺そのドラマ見たことないんだけど、そんなに面白いの?」

不倫ドラマに夢中になる女子たちが理解できないといった様子で疑問を投げかける。

「面白い‼︎絶対、面白いから観て‼︎」

すかさず由美が智也に勢いよく答えた。

「そういえばさ、この間ゆき子とこのドラマの話してたらゆき子が急に、不倫と浮気の違いって何だろうとか言い出して私、全然わかんなくて答えられなかった〜!」

交友関係の広い望美が他クラスの友人との会話を想起させた。

さとみを囲む望美以外のメンバーが親しくないゆき子の何気ない疑問にぶつかって真剣に不倫と浮気の違いについて考え始める。

「う〜ん、よく分かんないけど不倫は結婚していて、浮気は結婚していないってことじゃない⁉︎」

由美が見解を明らかにした。

彼女にとってこの差異は既婚者か未婚者かにわかれるようだ。

「それはそうでしょ!違いってそういうかたちのことじゃないんじゃない⁇」

ゆき子の言った違いの疑問は婚姻届の有無に関するような形式的なものではなく、相手がいるにもかかわらず別の人間に行う行為や心情を指しているのではないかと雅也は返した。

「てか、そもそも浮気の線引きってどこよ?キス?手を繋ぐところ⁇」

由美が新たな疑問を生み出す。

「キスは絶対、浮気!」

「三組のユリヤは彼氏が女と話したら浮気だって言ってたよ。」

「えー?何それ⁉︎めっちゃ束縛するじゃん‼︎」

話が加速するごとに逸れていくのは彼女たちの定番だ。私はそんな彼らの話を本を見つめながら聞き入る。

「直輝は浮気されたら自分は悪くないのに謝って泣きつきそう‼︎」

突然、望美が直輝の話をした。

望美の目の前にいる直輝は彼女を見て、

「そんな経験したことないから分かんないな。」と笑う。

「直輝って絶対浮気されるタイプだよねー!」

「そうそう!それで何回でも許しちゃうタイプ‼︎」

「そんで最終的に浮気され過ぎて悲しくて自分から別れを告げたくせに泣くの‼︎」

「分かる〜‼︎」

言われたい放題の直輝はその話を笑って聞いていた。その姿はまるで自分のことではなく他人のことを聞いているようだった。

そんな彼女たちの話を智也が鼻で笑って聞いていた。

「じゃあさ、付き合ってなければ浮気じゃないよな!」

自信ありげな智也の言葉に全員食いつく。

「そりゃ、付き合ってなければ誰と会おうが自由だよ!」

「えー⁉︎でもさ!キスとかしてたら、それはもう付き合ってるってことでしょ⁉︎」

浮気と不倫の違いから浮気の線引きへと逸れた話は、付き合う定義へと移り変わっていた。

「キスしたって付き合ってるとは限らないでしょう‼︎」

智也は自信満々な様子だ。

その言葉を黙って聞いているさとみの表情は彼女の後ろにいる私には全く見えなかった。

「じゃあ、智也にとって付き合う定義ってなんなの⁉︎」

愛花が声を上げる。

智也はそんな愛花の言葉を聞いて笑った。

そしてさとみを見ずに愛花を見つめて言い放つ。

「付き合うとかダルいから定義とかどうでもいいや〜‼︎」

教室内に智也の声が轟いた。



 放課後、今日も退屈な一日を凌ぎ切った私は掃除を終えると廊下を抜けて昇降口へと向かう。

スターターピストルが鳴って走り出す人間たちは夜眠りに就ける瞬間までその日一日の止まれの合図が来ない。ゴールなんてない。死ぬ瞬間までゴールする時は来ない。走る、走り続ける。その間に色々な思いを隠して、隠されて、走り続ける。

靴箱で上履きから靴に履き替えて昇降口を出ようとした瞬間、直輝の声が聞こえた。

「あ、あのさ!」

その声が私に向けられている気がして振り返った。

直輝が私のことを見ていた。やはり私に向けられた声だった。

私から数十センチ先にいる直輝が私を見つめる。私も彼の顔を見返した。

「良かったら一緒に帰らない?」

遠慮がちに尋ねる直輝。

何故、私と直輝が一緒に帰る必要があるのか。

疑問しか湧かないはずなのに気づいた時には無意識に頷いて承諾していた。

直輝は緊張の糸が切れたみたいに微笑んで、

「良かった、ありがとう。」と無垢な瞳を私に向けた。

私はその瞳が恐くて少しだじろいだ。

生徒たちが行き交う昇降口で私達が立ち尽くしているとすぐそこの距離でクラスメイトの笑い声が聞こえた。間もなくこの玄関でクラスメイトと私達二人が鉢合わせることを見越すと私は動揺した。

呑気に上履きから靴に履き替えている直輝に慌てた様子で、早く!と急き立てた。

「ああ、ごめん。」

慌てる私に状況を理解していない直輝が疑問符を浮かべた表情で謝る。

靴に履き替えて玄関を出ると直輝と私が横並びで歩いている姿に違和感を覚えて何となく距離を空けた。

校門を出て学校が遠のくと、ようやく心が落ち着いて直輝の体の方へ距離を縮めることが出来た。

「いつもバスに乗って帰っているの?」

直輝から話を振ってきた。

私は彼を見ずに、そう。とだけ返した。

「このまま真っ直ぐ帰るの?」

「帰らない。…用事があるから。」

そう言ったけれど用事という言葉がしっくり来なくて、「人に会うの。」と言い直した。

「ああ、そうか。」

何かを思い出したかのような声で苦笑する直輝の言葉は私に向けられたものなのか単なる独り言なのか、私には分からなかった。

「俺はさ、このあとバイトなんだ。」

気を取り直すように明るく直輝が言う。

直輝のバイト先のコンビニは高校のすぐ隣だけど私のバス停とは真逆の道だ。

「時間、大丈夫なの?」

「大丈夫。いつも五時からだから空き時間、暇なんだよ。」

直輝が笑う。

例え暇だとしても直輝には相手をしてもらえる存在がいくらでもいるような気がした。私と話すことを選択しなくても直輝は私のように一人で何かをやっているふりをしなくても誰かと話すことが出来る。

私は直輝が自分を選択する理由が理解できなかった。

「いつもスマホで何を見ているの?」

直輝に質問されて彼の顔を見た。

彼が私を知りたいと思っていることが感じられた。

「大したものじゃないよ。ネットニュースとか小説とか漫画とか、そのくらい。」

「SNSはやってないの?」

SNS。そんなものに本音をぶつける者がいる。本音を偽る者もいる。私の心はそれにぶつけたところで何も解決しない。気が晴れることはない。

「やってないよ。」

「そうなんだ。俺も興味なかったんだけど、みんなにやれって急かされて…始めてみたけど面倒くさくてあんまり開かない。」

直輝が目を三日月にして笑う。

私は直輝に向かって微笑むことも出来ない。

無表情に彼を見つめている。

直輝はこんな私に何故そんな笑顔を向けられるのか理解できなかった。

彼にSNSをやるように急かしたのはライングループの六人の誰かに違いない。直輝のSNSは始めたと同時に彼らと繋がる。フォロワーに脆くて強固な六人が繋がる。

一方の私は繋がる人間がいない。かと言って顔も知らない人間と繋がる気など起きない。私と繋がって気持ちを共有する人間がSNS上に存在しているとは思えなかった。私と同じ人間ならば気持ちを偽っているから人様に晒すヘマはしない。

私はSNSで誰とも繋がれない事実に安堵する。その一方で教室で誰とも交流出来ない事実に苛立つ。

「音楽は聴く?」

直輝が再び私に質問する。

「聴くよ。」

「よくイヤホンしているよね。何を聴いているの?」

「洋楽。ランダムで流れるラジオのアプリで聴いてる。」

「へえ。洋楽なら俺もたまに聴くよ。詳しくはないけど。」

「私も全然詳しくない。ただ好きだから聴いているだけ。」

「それっていいと思う。知識とか無しに楽しんで聴ければそれでいいよね。」

私と直輝の間でこんなに会話のキャッチボールが出来るとは玄関で声を掛けられるまで想像出来なかった。

直輝と話していると彼が人の懐に入るのが上手なのだと分かった。

私は彼の優しさに怯える。彼のそんな人の心に違和感なく入る強かさが恐くて震える。その一方でそんな彼に居心地の良さを覚えていた。

そしてまた居心地がいいから余計に恐くなる。

「じゃあ、ここで。」

バス停付近に近づくと私は直輝に一緒にいるのはここまでであることを示した。

「今日はコンビニ寄らないんだね。」

名残惜しそうに直輝が微笑む。

「寄らない。」

私も少しだけこの時間が終わるのが寂しかった。

誰かが私に関心を示してそれを直接、言葉に出されることなんてほとんどなかったから。

自分の穴が少しだけ満たされたような気分だ。全ての穴を完全に埋めることは不可能だけど、全ての穴が開きっぱなしなことより少しだけでも穴が塞がっている方が楽だ。

完璧に塞がった穴を目指すことは出来ないから僅かにでも塞ぐことが出来るものを探す。

特殊なことのように思えるけど世の中の人間もみんな同じはずだ。誰も同じだと認めないけれど同じ。

「みかんゼリー、また買いに来る?」

直輝が屈託なく笑った。

その無邪気さは幼い頃の私を思わせる。

けれど私はその無邪気さが成長した自分自身を深く傷つけることをよく理解しているから同じように笑い返せなかった。

「買いに来るかもね。」

曖昧に返して直輝に手を振る。

彼も同じように手を振って、その手が遠のいていく。

彼は中々、背中を見せないで私を見たまま手を振り続けてバックする。

私はその姿が馬鹿馬鹿しくて笑った。

馬鹿馬鹿しい。陸人よりもずっと浅はかな恋愛ごっこ。

けれど私はどちらも嫌いじゃない。

だから二つとも有れば今よりも理想的な穴埋めが出来るかもしれない。



 直輝と別れた私はそのまま陸人の家へ直行した。

「なんか今日は機嫌がいいね。」

陸人が私を描きながら言った。

私は陸人の言葉に、別に。と返しながらもベッドの上で笑みが溢れていた。

その一方で陸人の表情は浮かなかった。

私に時折送る視線が不安げに揺れていた。

「どうしたの?」

ベッドから離れて陸人に近づこうとすると彼はそれを制止した。

「次会う時までに完成させたいから。」

陸人に言われて体をベッドの上に引き戻して座り込んだ。

次会う時に完成…

陸人の言葉を噛み締める。

私は絵なんてずっと未完成でいいと思っている。

自分の姿を描いてとねだったけれど私の姿なんて本当はいらない。描かれた自分の姿を見たいと思うほど自らに陶酔しているわけではない。

ただ描いてくれればその瞬間が永遠に続いてくれるような気がして、その反面、終わらせられるような気がしてねだった。

正反対のどちらも欲しくてねだった。

けれど私がこの二つを手に入れることは出来ない。どちらかを手に入れるなら、どちらかを手放さなければならない。

世の中は矛盾だらけなのにこういった矛盾は通らない。誰が通さないのか。それはもちろん私達だ。

私は陸人を少しずつ邪魔に感じている。

それは陸人の気持ちの変化に気づいているから。

陸人の感情に同じ気持ちで応える気はない。

私達は歪な想いを背負った気晴らし仲間に過ぎない。

だから陸人は永遠に想っていてほしい。

私と同じようにお姉さんを想っていてほしい。

お姉さんを見つけたら私なんて見向きもしないでお姉さんだけを見つめて愛して。

それが私達の完璧な関係だ。

「出来た。」

スケッチブックを眺める陸人が、絵が完成したことを私に伝える。私は嬉しくて悲しくて、ベッドから離れて絵を覗こうとした。それを陸人が制止する。

「待って。これは次の時に見せるから。」

陸人に言われて、そう。と返すと再びベッドに座る。

ベッドは私のかたちに慣れたように私の体を深くまで沈めた。

まだ次があることに安堵している自分がいた。

「あのさ。」

このままセックスに流れるかと思ったのに陸人は私に近づかずに躊躇いがちに声を出す。

「何?」

彼の表情が私の望まない言葉を引き出すのを容易に想像させた。陸人は私が描かれたスケッチブックを閉じて床に置いた。それは私にかつて、捨て時を見誤って床に置かれたまま不恰好に反り上がった絵の具のチューブを思い起こさせた。

「俺たちってどんな関係なんだろう。」

陸人が私の目を見る。

私はその瞬間に出そうになった言葉を喉の奥へと仕舞った。

それを今そのまま答えたら私達は壊れてしまう。

壊してはいけない。まだ大丈夫。

私達は男女だから、いつまでも同じかたちにはなれない。

永遠にこんな関係が続くはずなどない。

それでもまだ大丈夫。

私は呪文のようにその言葉を心の中で呟く。

だって事実だから。

私達は最初から終わりの見える関係だ。

みんなと同じように終わりを見越して始まった関係に過ぎない。

でもまだ終わるはずがない。まだ大丈夫。まだ大丈夫。

「名前をつける必要があるの?陸人、まさか彼女が欲しいの?私と付き合いたい?そんなはずないよね。だって陸人には…」

陸人が、言うな!と声を上げた。

私は肩を窄めた。

私達は直面している真実を包み隠さず言葉として出されることに怯えている。それは私達が最も恐れていることだ。

「ねえ!陸人も同じでしょう?」

私はまるで懇願するように言った。

陸人はそんな私を見て冷たく返した。

「何も言わないくせに同じだなんて伝えられても訳が分からないよ。」

私は陸人と現実逃避するように体を重ねることばかり優先して自分の気持ちを話したことがなかった。

そう思わせるほど私は彼を愛していないのが真実だった。

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