愛や感情は種類が多過ぎて判別がつかない

 あ〜!と声を上げて椅子に座っている純一郎が背中を反らす。

両手で顔を覆って、まるでサッカー選手がゴールを決めて天を仰ぐ瞬間のようだった。

大袈裟な仕草で絶望を表現する純一郎の隣で私はスマホを片手にテレビを見るという二刀流をこなしながら純一郎を一度横目に見て、無視をする。

純一郎がそのままフリーズした。かまってほしいのだろうか。私はため息を漏らす。

「どうしたの?」

お愛想で聞いてあげると純一郎はポーズを変えずに、

「タバコ…」と、短く呟いた。

ああ、タバコね。心の中で納得する。

純一郎のタバコが底を尽きていることに気付いた。

禁煙する。は純一郎の常套句だ。この言葉を何年も前から聞いている。当然それで本当に宣言通りになっていたら今ごろ純一郎はタバコを切らしてこんな大袈裟なポーズを取っていないだろう。

「買いに行くの?こんな遅くに?わざわざタバコのためだけに?」

私の言い方に純一郎はだんまりだった。

禁煙宣言がことごとく失敗している喫煙者純一郎は私の前でタバコを吸うことに引け目を感じている。そのため私の前ではなるべくタバコを吸わないようにしているが、それでも我慢ならなくて吸ってしまうところを見るたびにニコチンの高い依存性を思わせる。

ニコチン、高い依存性。

「買わない。禁煙する。」

また始まった。

純一郎の口から何回も聞いた宣言。

この誓いはあっけないものであることを私は知っている。浮気している男と永遠の愛を誓うくらい信用ならない誓いだ。

「その言葉、何回も聞いた。」

私の嫌味に純一郎が凛々しい表情で、

「何回だって言うさ!」と胸を張る。

格好つけているが内容はまるで格好良くない。

私は急に馬鹿馬鹿しくなって吹き出した。

すると純一郎が椅子にもたれたまま私を見た。私も見つめ返して彼の目を見る。

彼の顔を眺めると随分と歳をとったことが分かる。以前に比べて肌にハリがなくなって重力に負けてしまっている。肌がくすんでたるみ、吊り目でも垂れ目でもなかったのに今は目尻が下がっている。前よりも太ったし唇が荒れていた。

「可愛い娘よ。俺の顔を眺めて老けたと思っているだろ。」

純一郎に指摘されて私は純一郎から視線を外すとそっぽうを向いた。純一郎は私の考えをいつも的確に判断する。私は毎回その的確さに安堵し、怯える。

「そういえば…」

純一郎が思い出したように呟く。彼の視線はテレビへと移る。テレビは芸能人が田舎暮らしを体験する企画で、今流行の女優が畑仕事をしている映像だった。

獲れた!すっごい大きい!

綺麗な顔立ちの女優が化粧を崩すことなく華奢な腕に土をつけてサツマイモを見せる。土の色と彼女の唇に塗られた赤く派手なリップが不釣り合いだ。

「サナも来年の春には高校三年生か…」

感心するように呟く純一郎に警戒する。純一郎はそのまま話し続けた。

「三年生なったら進路だな…」

純一郎の言葉が徐々に核心へと近づいていく。私はそれを止めたくて目を閉じた。嗚呼、イライラする。

「サナは進路どうするんだ?」

私の顔色を窺うように純一郎が尋ねる。私はそのまま黙り込みたかったが流石にそれは出来そうになかったので口を開く。

「ベ、別に。」

最初のベで喉が詰まって上手く言えなかったので言い直した。こういった時、私はいつも思い通りの声が出ない。学校で廊下から教室内の自分の話が聞こえたときと同じだ。自分の理想通りの動きが出来ない。冷静さを欠く。

私の言葉と態度に純一郎は怒らない。

優しい目で私を眺めるだけ。

純一郎はいつもそうだ。彼は私を怒らない、絶対に。

「そうか。でも進学するにしても就職するにしてもここら辺じゃ無理だろう。住宅地だからこの辺には大学も企業もない。会社に行くには車が必要だな。俺だって現状では車がないと通勤出来てない訳だし、車の免許を取るにしてもこの家には車が一台しか置けないな。」

私は純一郎の言いたいことを理解している。

こんな回りくどく言うのは純一郎の優しだ。私はそれを分かっているから、それでもそれを言いたい純一郎の言葉を聞きたくない。

聞きたくない、聞きたくない。これ以上、私を追い詰めないで!

純一郎が口を開いたタイミングで私は立ち上がって逃げるように二階へ上がった。

「サナ!」

背後から聞こえた純一郎の言葉を無視して走る。

そのまま部屋の扉を閉めて純一郎の言葉を跳ね返す。純一郎の言葉たちは私のドアに阻まれて部屋に入れないまま廊下で浮遊しているに違いない。

逃げる。私は逃げる。

純一郎の言葉からいつも逃げる。

私はもっと足が速くなる必要があった。



 学校帰りに私はまた高校の隣にあるコンビニでみかんゼリーを買った。

みかんゼリーとお茶を持ってレジに向かう。

レジには私を待ちわびていたかのように直輝が出迎えた。直輝は初めて私にレジをしたこの間よりも柔らかい表情で商品をバーコードリーダーにスキャンしながら優しく、ありがとうございます。と呟いた。

私はそれを眺めなら直輝の顔を見つめた。

直輝の白くてきめ細かな肌は綺麗だ。唇は真っ赤というよりはピンクみがかった赤色。瞳の色は茶色。染めていないはずなのに髪の毛の色も瞳と同じくらい茶色だ。

以前、その色素の薄い髪色のせいで頭髪検査に引っかかっていたことがあった。教師の前で頭を掻きながら自毛であることを説明する直輝を笑いながら見ている雅也たちを思い出した。

直輝、かわいそう〜!

あの中の誰かが言っていた。誰だっただろうか。

雅也か、智也か、望美か、由美か…いや、きっとそんなことを言うのは愛花に違いない。愛花はそう言ってその状況をいつも楽しんでいるのだから。いや、それともさとみだっただろうか…

自分のことで手一杯でぼんやりとしているさとみが直輝の様子を眺めて呟く様子は私にしっくりときた。

「また明日、学校で。」

みかんゼリーとお茶の入った袋を直輝が私に差し出す。私はそれを受け取って直輝の目を見るとその言葉に応えるように小さく頷いてコンビニを後にした。


 翌日の学校で席に座る私はスマホを見つめていた。

スマホは誰からも相手にされない人間が上手くやり過ごす最良の道具だけど、トークする友達も投稿する写真もツイートする言葉も持ち合わせていない私は興味のないネットニュースを関心のあるふりをして読み漁るか、何度も聴きすぎてもはや高揚しない音楽を聴くことぐらいしかすることはない。生憎、今日はイヤホンを忘れた日。イヤホンは多くの雑音を掻き消す理に適った道具。それを忘れるなんて不覚な自分を責めた。

「マックのポテト食いてぇ〜‼︎」

雅也の言葉に由美が、今⁉︎と聞き返す。

「なんか急に食いたくなったんだもん。」

雅也が発した言葉から話題が誕生して他のメンバーも喋りだす。彼の言葉が七人を繋ぐ。そうやって言葉の連鎖が生まれて人が集まって固まって、ついでにSNSも繋がっていく。

彼らは今日も賑やかだ。

私は何も知らない彼らを他所に今日も彼らの存在を確認する。私が学校を欠席しても彼らは気に留めないだろう。並んで椅子に座る生徒の黒い頭の羅列が一つなくてもどうってことない。取るに足らない。

でも七人の誰かが欠席したら、彼らは話題にするだろう。そこにメンバーがいなくてもメンバーの話をしてグループラインで生存確認をするだろう。

同じ教室なのに、同じ箱なのに、この箱の人間たちは同じじゃない。共通の箱に入っているというだけのこと。共通の箱なのに七人、五人、三人、二人、一人とわかれる。わかれたら、みんなわかれた者同士でさらに密集する。ただでさえ狭い箱なのにそこからさらに区分をつくり、決めた者同士で小さく固まる。

決め方は私には分からない。みんながどういう基準で固まるメンバーを決めているのか、上手く固まれず単独の私には分からない。ただ、彼らには彼らなりの固まる基準があって、それに当て嵌まった者同士が固まるようになっている。

小さな箱にさらに小さな塊が五つ、六つ、と生まれる。そこからたまに塊ではなく一つの個体が浮き出たかたちで当てもなく浮遊している。私はそれに過ぎない。

「みかんゼリー好きなの?」

頭上から声が響いて私は顔を上げる。

視線の先に直輝がいた。

黙ってじっと見つめる私に直輝はたじろいだ様子で頭を掻いて、あ…と呟いた。

「いや、ほら、昨日もこの間も買っていたから…」

理由を説明する直輝。

「好きだよ。」と彼の目を見て答えると、頭に置かれた彼の手がするりと静かに下へ落ちた。

サナね、みかんゼリー、大好き!

幼い私が笑ってみせる。

笑いかけている相手は私じゃない。

「美味しいよね。俺も好き。」

直輝が私に優しく笑いかける。

人は自分の好きなものを肯定されると喜ぶ生き物だから直輝はそれを心得ているようだ。

彼は賢い。私よりもずっと英明だ。

上手く泳ぐ彼は誰にでも優しいふりをする。

その優しさは凄惨で鋭い牙のようだ。私はその優しさに喰われてこれ以上、自分が愚かにならないように自分で自分を守らなければならない。

この世で一番恐ろしいものは優しさだから。

優しさは気づかないうちに私の体、心、全てを蝕み、私を不幸にする。私を愚かにする。

そうなる前に私は彼らの優しさと同じくらい残酷にならなければならない。自分で自分を守るために。



 私を描いている時の陸人はいつもよりも緊張な面持ちでそれはそれで新鮮で面白い。

面白いというのは普段と違う初めての一面を見たから出た感想に過ぎない。スケッチブックを片手に鉛筆を持った陸人がベッドの上でゴロゴロする私の顔を視線の少し先で描いている。

「順調?」

陸人に向かって投げかけると陸人が静かに頷いた。

最初に私を描いてとお願いしたのは私自身だが、いざ描かれるとその時間は私にとってあまりにも退屈だった。描かれて五分もしないうちに黙り込んで真剣に絵を描く陸人を邪魔したくなる。

「まーだー?」

私を描き始めて七分経っただろうか。ベッドから起き上がって陸人の側に向かった。

私は集中力がない。絵を描く陸人を邪魔するように彼の髪をくしゃくしゃにして遊び始めた。陸人は笑い出して絵を描くのをやめる。それからハグをしてキスをした。

床の上で互いの体に触れてまとわりつく男女。彼の瞳はさっきまでの一意で真剣な眼差しが想像もつかないほど淫に熱く揺れている。私はセックスをするときの陸人の淫な視線が好きだから何かを考えて真剣な陸人よりもこっちの陸人の方がいい。

私に道徳的な気持ちを向けず、私の物欲しさに同じ欲望で応える陸人が好きだ。そんな彼を求めていた。

彼の舌が私の首を這う時、私は視線を泳がした。

今日の陸人は元気がない。陸人はいつも落ち着いているから元気という表現は語弊があるかもしれない。いつも大人しいけれど、今日は気分が沈んでいるように見えた。

「あれは何?」

彼の肩に手を置きながら質問した。向かい合って私の首を舐める彼が舌を離して私を見る。

テーブルに置かれたご当地キャラクターの袋詰めクッキーはどう見ても陸人の買い物とは思えなかった。

「クッキー。」

陸人が弱々しく答える。

「誰が買ってきたの?」

尋ねると陸人は下を向いた。その反応で私は答えを知る。

嗚呼、そうだ。やっぱり私達は同じだ。

それが嬉しくて私は陸人にキスをして続きを促すように私も彼の服をめくって肌に触れた。

彼の温かい肌が私の手に伝わった。

それでいい。陸人はそれでいい。

私の手に握られることなく擦り抜けて、触れ合うだけ。それでいいのだ。

私達はそのままベッドへ移動して体をかさねる。

同じ欲望に塗れた吐息を漏らして互いの体に触れる、舐める、濡らす。その瞬間は刹那。

楽しい時間は嫌なことも悲しみも全て忘れさせてくれるのにどうしてあっという間なのだろう。

その時間を終えると現実に引き戻される。

現実は煩わしくて悲しくて苛立って私達は生きるのが下手だから、こうやって器用に生きるのだ。器用なふりをして。

ベッドの上でだらしなくうつ伏せに並ぶ私達の腕。

セックスを終えた後の匂いは季節によって異なる。

匂いはまだ秋。だけどもう冬の匂いが混ざっていた。

「お姉さんはこういうのが好きなんだね。」

テーブルに置かれたクッキーに貼られたご当地キャラクターのシールが笑顔で私を見る。

何も知らないような無垢な目だった。いや、そんなはずがない。ご当地キャラクターなんて役所や地方自治体が考えた欲望の塊なのだから。でも私は欲望によってつくり出されたこの無垢な目が嫌いじゃない。むしろ分かりやすくて好感が持てる。

私は陸人のお姉さんを実際に見たことがない。見たことがあるのはこの家の棚に飾られた家族写真の中だけだ。

「久々にお姉さんに会えて嬉しかった?」

陸人に向かって笑いかける。彼は私の目を見ず、笑わなかった。

「わからない。」

答えた陸人は少し苦しそうでその顔は私に心地よさを与える。

家族写真に写ったお姉さんの顔は陸人に似ていて、それなのに似ていない。アンバランスな類似は不自然であり、自然なことだった。

家族なんて言葉、私達にはおかしい。

「子供の頃、姉の顔を何度も描いたんだ。姉ちゃんは俺が姉ちゃんの絵を描くと喜ぶし、褒めてくれるから。」

上手だね!

そう言って陸人の頭を撫でる七歳年上の優しいお姉さんが頭に浮かんだ。

「俺はもう姉ちゃんを描けない。これからもずっと…描こうなんて無理だ。姉ちゃんは、またいつか描いてねなんて言うけれど描くなんて簡単に出来るはずない。」

そうだ。人間は感情の塊だから。

愛する人を前に冷静でいられるはずがない。

だから冷静なふりをする。

まるで訓練されたように冷静なふりをして感情を殺す。殺して内に秘める。

爆発したってどうしようもないじゃないか。

家族なんて名前をつけたから!

それが私達を苦しめるのだ。

「陸人、私達は一緒なんだよ。言葉の表し方が下手なの。理解するのが苦手だから、お姉さんに対する感情が分からない。でも理解したふりも出来ないから、それを受け止め過ぎて苦しいの。」

私の言葉に陸人は無言だった。

私の目を見て、すぐに視線を外して前を向く。

陸人は自分の気持ちを理解していない。

私は理解している。自分の気持ちを理解している。

でも理解していても、していなくても、同じ。

そこに答えはない。

何の答えも出ないまま私達の気持ちだけ浮き上がって、やがて行き場をなくして永遠に浮遊する。

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