あなたは私の穴を埋める一過性の存在に過ぎない
私が学校で使っているペンケースは薄いピンク色だ。
ここ一年、そのペンケースのみを使い続けている。
一年間、どこにいるときも一緒だ。学校では体育の時以外、常にそばにいるし当然それを家に持ち帰るから家の中でも常に近くにいる。薄いピンクのペンケースは私にとって鍵やスマホと何ら変わりないほど四六時中、私の近くにいる。それは私だけに限った話ではない。人間は人間同士よりも人間と物の方が長く一緒にいる気がする。家族よりも恋人よりも友達よりもそれ以外の人よりも長い時間を一緒に過ごす。人間は感情があるけれど物には感情がない。大人しく側にいるだけだから都合がいいし便利だ。
私が愛用しているこのペンケースは一年使っているため端の方が黒ずんで薄ピンクではなくなってしまった。このペンケースはもう捨て時なのだ。見誤ってはいけない。陸人の部屋に転がった使い古された絵の具のチューブみたいに捨て時を見誤ってはいけない。彼らはもう用済みで私たちとの関係に終わりを望んでいるのだから片方がいつまでも大丈夫とばかりにしがみつくのはみっともない。
土曜日の午後、授業を終えた私は一人で駅前の雑貨屋さんへ向かった。
新しいペンケースを探しに店内を見渡す。ペンケースのコーナーは二種類あって一か所は小学生が買いそうな子供向きの筆箱が並べられている。もう一か所は高校生や大学生が使いそうなペンケースが並んでいてどれも子供用のペンケースに比べてシンプルで無駄なデザインが少ない。
子供のころは余計な付属品が付いているものをやたら好んでいたけれど成長していくにつれて付属品は邪魔でいらないものとなった。これは成長の証だろうか。私も大人になっていく。そうすれば呪縛から解放されるだろうか。でも私の呪縛は成長して小さくなるどころか年々、大きくなっている。
ペンケースコーナーを眺めてどれにしようか悩んだ。
ペンケースなんてただのペンを入れるだけの道具に過ぎないのに沢山並んでいると考えてしまう。選択肢が多いと人間は悩む生き物だ。
少しの間、悩んで水色のペンケースにすることにした。水色のペンケースはチャックの部分が青のデザインになっている。前回のペンケースと同様にスリムで無駄なものは入らないデザインだ。
ペンケースを持ってレジに並ぶ。雑貨屋の入り口付近では私と同じ制服を着た学生たちが商品を眺めながらお喋りしている。私の知らない子だった。
新しいペンケースを下げて久々の駅前をうろついた。特に欲しいものがあるわけではないけれど駅からバス停まで歩きだと決して近いとは言えない距離。普段は行くのが億劫で中々ここまで来ない。学校帰りの若者が賑わう駅前を新しいペンケースと一緒に歩く。
本屋さんにでも寄ろうかと向かっていると斜め向かいの道路で七人ほどの若者たちが歩いていた。若者たちという言い方は高校生の私には不自然だけど私よりも年上で私服姿だけど大学生とは断定できないから若者たちと言った。だけど私はその集団をもう一度見て大学生だと確信した。
私の斜め向かい、反対側を歩く男女の集団。その中に陸人がいた。
歩いている彼らは誰もこちらを見ずに楽し気にお喋りしている。当たり前のことだけど誰も私を見ることはない。ただ、その中に陸人がいる。
陸人は自身と同じくらい若くて陸人よりも醜くて奇抜な恰好をした女の子と喋っている。私といるときよりも特別、楽しそうな表情ではないけれど私といるときよりも苦しい顔をしていない。歩き進める男女に対して私の足は止まったまま彼らを見つめる。じっと見つめる私の視線に彼らは気が付かない。
そのまま彼らは通過して私の視界から消えた。陸人も彼らと一緒に私に気付かないまま視線を醜くて奇抜な恰好をした女の子に向けたまま消えた。
私は彼らを振り返ってまで見ることはなく、そのまま一人まっすぐバス停に向かった。
バスに揺られている時の私は虚無だった。発車してすぐに見える湖を車窓から眺めながら陸人を見つけた時とは真逆の方向へ進む。行きつく先は私の家。家に着くとすぐに新しいペンケースを開けて古いペンケースをごみ箱に捨てた。
ボンっと鈍い音を立てて薄いピンク色のペンケースがごみ箱へ。黒ずんだ薄いピンクは他のごみにまみれていった。
「あ、ペンケース替えたんだ。」
一限目を終えた十分の休憩時間。
机の隅に新しく買ったペンケースを置いていると横切った直輝が足を止めて呟いた。
下を向いていた顔を上げる。私の席の前に立つ直輝と目が合った。
「前はピンクだったよね。」
私が、そう。と答えると直輝が笑って、
「青になったんだ。」と言った。
私は新しいペンケースを水色と呼んでいるけど直輝にとってこのペンケースは青色と呼ぶらしい。どう見ても水色なのにチャックの部分が青いからだろうか。考えていると直輝がまるで私の考えていることを遮るように、
「こっちの色の方が佐伯さんに似合っていると思うな。」と呟いた。
「それってどういう意味?」
聞き返すと直輝は困ったような眉を下げて笑みを浮かべる。
「ごめん、特に深い意味はないんだ。ただ、こっちの色の方が佐伯さんのイメージに合っているなと思っただけだから。」
直輝の水色が混ざったような白い肌の頬が薄いピンク色になっていた。
「私のイメージってどんなの?」
ペンケースを一瞥して尋ねてみた。
直輝は少しの間、視線を外して考えているような表情をして、「透明。」と答えた。
透明。直輝の言葉を心の中でなぞる。
「水って色がないし、透明じゃん。だから透明。」
直輝が優しく笑う。
「私って水なの?」
躊躇いがちに尋ねると直輝は私の目を真っ直ぐ見て、そうだよ。と返す。
透明な水。どういう意味なのか理解できなかった。
私は透明じゃない。どちらかといえば汚れた水だ。みんなと同じように細菌が入った汚れた水なのに直輝は私のことを何もわかっていない。何も知らないくせに。また意味もなく苛ついた。
「俺のイメージだから人それぞれ違うよね。佐伯さんの満足する答えじゃなかったらごめんね。」
直輝が私のペンケースを見つめる。その時、初めて彼のまつ毛が思っていたよりも長いことに気付いた。
「それなら……」
「直輝!自販でジュース買ってきて!」
私が言葉を言いかけている最中に数メートル先で直輝を呼ぶ声がした。直輝の視線は私のペンケースから声のする方へ移る。私も一緒に視線を辿ると望美がこちらを見ていた。彼女の側には他の生徒の席に座ってスマホをいじる由美もいる。
「なんで俺が買いに行くんだよ。」
突っ込むように言って直輝が私の席から離れた。それから自分に近づく直輝を満足げな笑みで迎え入れる望美が目に映った。
「のどが渇いたの!たまには奢ってよ。」
冗談だと分かるように甘えた声で言う望美。
「嫌だよ。はい、お金。」
奢ることは否定しながらも望美のために本当に自動販売機に向かうらしい。お金を徴収するため手を出す直輝に望美が嬉しそうに財布を開いて、「ファ○タグレープ!」と声を上げた。
望美の手に握られた小銭が直輝の手元へ。その瞬間、汚いなと思った。汚される瞬間の目撃。
さっきまで私を透明だと見当違いなことを言った彼がこの教室の床ぐらい汚い彼女が触れたものに何も気づかずに触れている。汚れはあちらこちらにあるのに同じように汚れない人間がたまにいるのは何故だろう。どうやったら汚れずに済むのだろうか。
「え、なになに!?直輝、自販行くの?じゃあ、俺もサ○ダー!」
「私はミルクティー!」
お金を受け取る直輝を目撃していた愛花や雅也が声を上げる。
「はいはい、じゃあお金!」
「後払いで良くね?」
「ダメダメ、先払い。」
財布を開くのを面倒くさがる二人に手を差し出して請求する直輝。
「直輝ってそういうところ細かいよね?男らしくないぞ!」
愛花の声が教室中に響き渡る。ガサツで品のない声。騒音。
愛花の言葉に黙って見ていた他のメンバーが笑う。この言葉に笑っているのはライングループの七人だけ。教室内にいる他の生徒たちは誰一人として笑っていない。それもそのはず、愛花が発した言葉はたいして面白くもないから。この言葉を直輝と愛花の二人だけにして残りの五人をなくした状態で発したら誰一人として笑わないだろう。静寂の中で愛花の言葉だけがひとりでに浮くはずだ。
けれど彼らはそんなこと気にしないし考えもしないから笑う。五人の笑い声を聞いて愛花は嬉しそうな表情になる。自分の発した言葉に満足している表情。それが滑稽でようやく私にもウケる。
それ以上は見ていてもつまらないし誰かと目が合うのも嫌だから視線を彼らから外した。
窓の外の景色を眺める。雲が隙間なく埋まった白い空。
そろそろクローゼットからセーラー服の上に着るダッフルコートを出さなければならない。でもまだ大丈夫。必要な時までまだ余裕があるから焦らず、ぼんやりとそんなことを思える。
「ねえ、見て。」
通学バッグからわざわざそれを取り出して陸人に見せる。
「新しいペンケースを買ったの。」
直輝が青色と言った水色のペンケース。私は案外、それを気に入っているようだ。
陸人は私のペンケースにさほど興味がないみたいでペンケースを一瞥するとすぐに視線を外して短く、ふーん。と返事した。
陸人の興味ない話をしても楽しくないからそれ以上、このペンケースについて話すのをやめた。それでも陸人がこのペンケースを青と言うのか水色と言うのか少しだけ気になっている。でももう話さない。この話はここで終わりだ。
「ねえ、また画集見せて。」
陸人の好きな画家の画集を見たいとおねだりする。陸人は本棚から画集を取り出して私に渡した。
陸人が好きなものを熱心に見ていれば彼は満足するだろう。私はこの画集を陸人のために見ているのだ。彼のためにこの絵を好きだと言ってみる。みんなと同じように好きな人のために好きなふりをする。
ベッドの上に座って眺めていると陸人も隣に座って一緒に画集を見る。
綺麗だね。とか、上手だね。とか、こんなところに私も行ってみたいな。とか、上辺だけのスカスカな中身のない感想を述べる。陸人は無表情で私の感想を聞くけれど満足しているのが分かる。その時間は少しだけ退屈だけど陸人と出会う前の私の生活よりかは退屈じゃないから我慢できる。まだ大丈夫。
「ねえ、前に陸人は風景しか描かないって言っていたでしょ。」
私の言葉に陸人は、うん。と相槌を打つ。
「じゃあ、陸人は風景を描くことが好きなんだね。そうでしょ?」
そうだよ。と陸人が返す。
「でも本当はどっちなのか知りたい。風景を描くのが好きなのか、人間を描くのが嫌いなのか。」
私の肩を撫でていた陸人の手が離れる。ベッドのシーツでも眺めているのだろうか。下を向いて答えを考えているようだ。
「どっちも。」
顔を上げた陸人が私の目を見て答えた。
「風景は季節によって景色が変わるから同じ場所でも違う絵が描ける。描いていて楽しい。でも人間は変わりすぎる。ころころ変わりすぎる。景色は違う。人間と違う変わり方をする。景色はただ、季節によって色彩を変えるだけ。においも変わるけれどにおいは絵には関係ない。色彩が変わるのは絵の具を使うときに楽しく感じる。季節や天候で色々な景色を見せてくれる。」
「人間とどう違うの?」
陸人に近づいて上目遣いで顔を眺める。
「人間が変わるのは色彩じゃない。感情だから、目には見えないから困る。俺はそれをどうやって描けばいいのか分からない。それに、感情に埋もれると描けなくなってしまうから。」
陸人の目は困惑していた。こんな些細な質問でも人は本心を見せる。
感情に埋もれると描けなくなってしまう。
「感情は厄介だ。」
私の心の声が漏れた。
陸人が、その通り。と返す。
私を見ずにシーツを指でなぞっていた。
人間は感情に埋もれると描かせてくれない。描く側も感情に埋もれてしまうと描けなくなってしまう。
感情を上手く芸術に昇華させる人もいるけれど陸人は私と同じだからそこまで上手く自分をコントロールできない。感情を爆発させることができないから抑える。抑えて、堪えて、気付かないふりをして、それでも気付いていて、だからもっと抑える。昇華させるには昇華させる才能がいる。私も陸人もそういった才能を持ち合わせていない。だから淡々とやり過ごす。退屈な毎日は自ら進んで退屈にしているのだ。
そう考えると私たちは上手に生きているのかもしれない。直輝のように上手く人と向き合えないだけで上手くやり過ごしている。
「感情を爆発させたような絵は好きじゃない。」
陸人の言葉に私も同意する。
「怒っている絵が嫌い。」
私の言葉に陸人はこっちを向いて力なく笑う。
「俺は泣いている絵。」
「私もそれ嫌い。」
「泣くなんて長いことしていない。」
私も長らく泣いていない。最後に泣いたのはいつだったっけ?嗚呼、あのときか……
黒くなって汚れた雪の塊。濁った空。一面、雲。真っ白な雲ではなく、黒が混ざった灰色の汚い空。
「私も泣いていない。」
あの日以来、泣いていない。
陸人の頬に触れた。熱を帯びた瞳だっただろう。彼を見つめる。
陸人も私を見つめる。彼は私が彼の頬に触れることをいつも拒まず許してくれる。私たちは決して恋人同士ではないのに。
私には穴がある。人間だから、女だから、穴がある。
「陸人は私の穴を埋めてくれるね。」
頬に左手を置いたまま呟いて、彼の唇に自らの唇を当てる。柔らかい感触が私の唇に伝わった。陸人がそれに応えるように唇を押し付ける。彼の生温かい舌が唇の割れ目に割り込んで中へと入っていく。浄化作業だ。彼の唾液が私の口の中へと入って体内に行けば私の心は浄化されるはず。彼の汗、体液、熱を感じれば私は浄化されるはずなのに、何故、私の気持ちは浄化されない?
何度も何度も繰り返しているのに私の心は黒いまま。積雪の上に黒が落ちたまま。
何故、こんなにも諦めが悪いのか。
何故、こんなにも上手く泳げないのか。
何故、こんなにも自分で自分を欺かなければいけないのか。
何故、私はもっと上手く自分を欺けられないの?
何でもごっこ遊びは楽しい。楽しいはずなのに遊び終わった子供と同じ。遊び終わった瞬間に虚しくなる、寂しくなる。そして遊びは楽しいようで楽しくないことに気が付いてしまう。でも気付かないふりをしておきたい。気付いたところで何にもならないから。虚しさだけ残して、痛みだけ疼いて、やがて壊れしまう前に自分で自分を保つ方法を考えなければならない。実行しなければならない。壊れてしまう前に絶対に壊してはいけない。何故なら、壊れたら永遠にごっこ遊びを終えた瞬間の子供のままになってしまうから。
寺尾陸人。
好きだよ。大好き。私の穴を埋めてくれる大切な遊び仲間。
直輝のいるラインの七人グループよりも有意義な時間を与えてくれる。
彼らより深く繋がっている。
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