それはふとした瞬間に降ってきて私を汚す
このクラスの、主に直輝周辺のありふれた男女関係について話そう。
直輝は簡潔に言うと私に好意を寄せている。それは気付かないふりをしているだけで私も分っているし直輝と一緒にいる六人も理解している。直輝たちのグループのメンバーはみんな二年になって初めて私と同じクラスになった。それぞれ一年の時から仲の良かった子同士や知り合いが集まって二年に上がった初期からこのグループは形成されていた。このクラスでは最も人数が多くて賑やかで目立つ。
直輝がいつから私を気にかけていたのかは不明だ。私が気が付いたのは夏休み前。退屈な教室で一人視線を泳がすと目が合って、その時の反応でずっと私を見ていたことに気付いた。それから視線を泳がすたびに目が合うし私もそれに気づいてから目が合うか確認するようにわざと視線を泳がして直輝を見るようになっていた。直輝の素直な反応を楽しむように他の六人がわざと冷やかしている時がある。直輝が冷やかされたり、私を見つめていると望美は決まって不機嫌になる。直輝の肩を叩いたりして視線を自らに移させる。望美が直輝を気にかけていることを私は前から知っていた。直輝はそれに気付いていないようだ。望美はバスケ部、直輝は帰宅部で彼は高校のすぐ隣にあるコンビニでアルバイトしている。
愛花はこのクラスで一番、喋り声が大きくて笑い声もうるさい。とにかく声そのものが私にとっては雑音だ。彼女は男性アイドルのファンでファミレスでバイトしたお金をほとんどヲタク活動に費やす。隣のクラスのサッカー部、杉山浩太と交際中だ。
平岡由美と関根雅也は授業中によく喋る生徒の代表と言ってよいだろう。由美は生理痛が重いときだけは大人しくなる。だるそうにしている由美を他のメンバーがよく心配している。彼らは奇妙なかたちの仲間だ。雅也と愛花と望美が最もこのクラスで態度が大きく、特に自分よりも格下だと判断した者への態度の大きさは中々すごいものがある。物怖じという言葉を知らないようだ。由美は陸上部の幽霊部員、雅也は帰宅部で電車で三十分掛かる地元のコンビニでアルバイトしている。由美は私たちと同じクラスでグループ違いの戸部純喜と交際している。軽音部の純喜は物静かだが顔が悪くないため、まあまあ目立つ。二人は行動するメンバーが違うためクラスではそんなに話さない。ただ放課後、一緒に帰っていくところを何度か目撃したことがあった。
「さとみ、このまま帰るの?私たち、これから愛花のバイトしてるファミレス行くけど…」
望美がさとみに尋ねる。
「うーん…お金ないし今日は行けないかも。」
「さとみもバイトしたら?親のお小遣いだけでやりくりとか無理でしょ。部活もやっていないんだしさ。」
愛花の言葉にさとみは曖昧に、確かにね。と返して、お先にとばかりにメンバーに手を振る。他の女子メンバーが手を振り返して男子メンバーがそれを見つめる。
「俺も今日はバイトだから先行くわ!」
智也の言葉に、え~!?と愛花が声を上げる。
「せっかく望美の部活が休みでみんな揃えると思ったのに!」
智也はおどけた様子で笑いながら、ごめん!と言ってそのまま教室を飛び出していった。
智也の地元は把握していないが、学校の最寄り駅と地元の最寄り駅の中間地点にある本屋でアルバイトしていることを聞いたことがあった。
「バイトじゃなかったりして~」
愛花がふざけたように言って笑う。
「本当、あの二人って謎。付き合っているの?」
「さあ、分からない。さとみってはっきりしないところがあるから曖昧にしているんじゃないの?」
「はっきりしないのは池田じゃなくて智也だろ?」
雅也の言葉に愛花たちが、そうなの?と返す。
「まあ、どっちにしろ、あの二人がどうなるのか知りたいわ。」
愛花がニヤリと笑う。他のメンバーも好奇心の溢れた目をしていた。
仲間と言われるあの二人でさえ面白いものを与えてくれる道具に過ぎない。学校という箱は常にいろいろな情報が行き交っている。その豊富さは芸能ニュースをも凌ぐ勢いだ。
「これは何ていう名前の絵?」
放課後、陸人の家のベッドの上で画集を開きながら尋ねる。
「そこに書いてあるじゃん、マルリーの水飼い場って。」
陸人に言われるまで小さな黒文字なんて見ていなかったから、本当だね。って返すと陸人はちょっと嬉しそうに笑う。
絵のタイトルなんて知識のない私には関心がないし言われてもすぐに忘れてしまうし、小さな黒文字だって本当は頭の片隅で気付いていたのだろうけど私は気付かないふりをして陸人に尋ねるのだった。そうすると陸人が喜ぶから。陸人が喜べば私も気分がいい。気付いているのに気付いていないふりをするのは何にでも都合がいい。
私は時折、私自身を騙す。自分の心に自分自身が気付いていないふりをする。そうした方が自分にとって都合がいいし、現実を見ないで楽しめるから。別になんてことない。私だけじゃなく、みんなやっていることだ。みんながやっていて私だけ不都合なんてことはないだろう。その方が生きやすい。
でも私はみんなに比べて生きることが下手だなと思う。みんなの方がずっと上手く生きているように見える。みんなの方がずっと上手く気付かないふりをしているなと感じる。直輝とか見ていると、泳ぐのが上手だなと思う。他の金魚と一緒に並んで上手に泳いでいる。私は泳げるけれど他の金魚に比べて泳ぐのが下手だ。決して泳げないわけではない。泳げない金魚は水槽から出ようとして床に落ちて死ぬか、水槽の底で泥まみれになりながら隠れているけれど私はちゃんと泳げている。ただ泳ぐのが下手なだけだ。
「ねえ、陸人は誰かの噂話とかする?」
画集を閉じて棚に戻しながら彼に聞く。
「噂話…たまに友達から聞いたりはするかな。」
「例えば誰の?」
「うーん…友達の友達とか、高校の時の同級生の話とか、芸能人とか?」
答えのはずなのに疑問形で返す陸人。
「そういうの気になる?」
ベッドの上に並ぶ二足の足。私も陸人も裸にうつ伏せで薄い毛布を掛けて互いの顔を眺めている。
「あんまり気にならないかな。他人の話なんて興味が湧かない。」
その話自体に興味がないといった様子で陸人が私の髪を撫でてキスをした。
本当は興味のある側の人間なのに興味のないふりをして、そうよね…と返すと陸人のキスに応える。キスを終えるとしばしの間、互いを見つめ合った。
「次はどんな絵を描くの?」
私の言葉に陸人は無言のまま。何を描くのか決まっていないようだった。
「またどこかの風景?」
「そうだね。」
「いつも風景だね。」
「そうだね。」
「風景しか描かないの?」
「そうだね。」
「私のこと好き?」
「…好きだよ。」
一瞬の間があった。
「それは愛しているって意味の?」
陸人は無言になる。無言のまま真剣な眼差しで私を見つめる。
分かっている。分かったうえで聞いているのだ。私はやはり底意地が悪い女だ。
「好きは簡単に言えるのに愛しているって簡単には言えない言葉だよね。意味が違うから難しいのかな。」
私の言葉に陸人がまた短く、そうだね。と答える。
「私も陸人が好きだよ。」
陸人は躊躇いがちに、分かっている。と返した。それから顔を歪めてもう一度、分かっている。同じ言葉を繰り返した。
「ねえ。今度、私のことを描いて。」
陸人の首筋を撫でながら優しく言ってみた。
陸人は私がふざけた時や陸人にとって変なことを言った時に見せる照れたようなフッという笑い方をして、ヌード?と聞き返した。
「ヌードでもいいよ。私を描いてくれるのなら。」
自らの手と手を合わせて枕元に、おやすみポーズで陸人を見つめる。外が暗くなってきているからもう少しでお別れなのに。
「何を言っているんだよ…」
陸人は眉をひそめて、やがて悲しい目をする。そうすると眉毛も自然に下がった。
「家族写真みたいで嫌だ?」
少し意地悪な言い方をしてしまった。陸人がまた眉をひそめる。
「俺は誰かを描いたりなんてしない。景色しか描かないんだよ。」
分かってくれというように、そんなこと言わないでくれと懇願するように陸人が弱々しい目で私を見つめる。
「じゃあ、私を描くときは私を愛したときね。」
ふざけて言うと陸人も笑って、そうしとこう。と答えた。
陸人の腕に抱かれて残り少ない僅かな時間を目を閉じて感じた。
家の中は何もしなくても埃は溜まるし、生きているだけでごみは出る。
日曜日。休日出勤の純一郎に代わって家の中の掃除をする。
一階から二階、順番に掃除機をかけてカーペットのごみを粘着テープで取ったり、埃が乗った棚や埃をかぶった置物をハンディワイパーや雑巾で拭いた。
ただ生きているだけなのに人間とは実に面倒くさい生き物だ。何もしていなくてもしなければならないことが常にあるのだから。飲み物を常に飲まないと死んでしまうし、寝ないといけない。休んで、食事して、体や頭を洗って、歯を磨かなければならない。それからおまけが多い。人間は感情があるから笑わないといけない。笑わないと体に異常をきたすみたいだ。それと同じくらい泣くことが大切だと言って泣くことはストレス発散になるという。泣きたいときは泣いていいよ、という言葉に人間は弱いのかこの言葉をたびたび耳にする。私はこの言葉を聞いて本当に泣いたことは一度もない。人に涙を見せる瞬間って、その人が泣く原因なら分かるけど泣く原因でもないのに何故、泣く必要があるというのか。
それから人はよく怒る。怒ることも一種のストレス発散だと思う。怒っている人間はとても人間らしい。それは泣いている時や笑っている時よりも人間味がある。怒っていることを決して褒めているわけではない。怒っていることが悪いとは思わない。でも怒っている人を見て、羨ましいと思う人間は少ないだろう。
私は怒っている顔が嫌いだ。怒っている人の顔は眉にしわが寄る。あの顔が嫌い。あの顔を見るくらいなら関わるのは御免だ。
あの人はよく怒る人だった。見方によっては叱るの方が正しいのかもしれない。でも子供の私からすれば叱るというよりは怒るの方が正解に近い。
何故、あの人と結婚したのか私には分からない。私の前にいる時と違って怒らなかったのだろうか。
でも私は別にあの人が嫌いなわけではない。あの人自体が嫌いなのではなくて、あの人と同じなのが許せないだけ。あの人が同じだから、同じはずなのに私だけ仲間外れだから。いや、仲間外れが寂しいわけではない。正直に言うならば立場を変えてほしかった。同じなのに立場が違うなんて納得がいかない。
また私は考え事をしている。考えて考えて行き場のない状態になっている。
ハンディワイパーを持って仏間に向かった。
小さな仏間で埃が溜まっているところを念入りに掃除する。
仏壇の後ろ側の埃が気になって手を伸ばした。立ち上がったまま片足でバランスをとるようにして手を伸ばす。そのまま後ろ側の埃がとれるようにハンディワイパーを左右に動かした。一瞬だけ離してハンディワイパーの裏側を覗くと埃でグレーになっていた。思わずくしゃみが出そうになる。辛抱強く仏壇の裏側を片足立ちで掃除していたがそろそろ体力の限界を感じて体を引き戻す。
戻した際、ガタっという音がした。
埃まみれのハンディワイパーを片手に音のする方へ顔を向ける。床を見ると母の遺影が裏返しになって落ちていた。私はそれを拾い上げる。満面の笑みを浮かべる母の遺影。それは怒っている時の顔とは似ても似つかない顔だ。この写真がいつ撮ったものなのか私には分からない。撮ったのはきっと純一郎だろう。
母の瞳が母ではないから、この人が本当に私の母親なのか分からなくなる。
誰が撮ったかで人間はこんなにも違うのだろうか。誰が撮ったか、誰と一緒にいるか、それだけで人の顔はいくつも違う姿を見せて別人になる。同じなのに別人になる。
母の遺影を元の場所に戻しながら陸人の家族写真を思い出した。同じなのに違う四つの人間の顔。端に二人。中に二人。中の二人が一番奇妙だ。端同士は全く別人なのに中の二人は端の二人の要素が入っていてそれなのに似ていない。二人とも端の二人の見た目を吸収しているのに二人ともバランスよく、アンバランスに吸収して似ているはずなのに似ていない二人が出来上がっている。
人は同じものに惹かれるという。反対に同じものを嫌悪するという。
私と陸人は同じようで違うのだ。私は何故、こんなにも同じという言葉に固執するのか。
一部だけ同じなんて駄目だ。全部、一緒じゃないと、やっぱり違うってなってしまう。
でも完璧に一致する人間などこの世には存在しない。みんなどこかしら違う要素がある。違うかたちになってしまう。
分かっているのに悲しくて私はそれでも同じが良かったと思っている。同じが良かった。いいえ、取り換えてほしかった。私と取り換えて。それが無理なら同じなのだから同じにして。
「サナ!」
母の叫び声が聞こえる。
嗚呼、これはあの日の叫び声だ。
思い出したように言っているけれど本当はずっと覚えている。
必死に走る私の姿。幼くて小さな無邪気という凶器を持った子供。
私が罪を背負った日。
真っ白な黒い感情。汚れなく汚れた心。
純白の積雪に黒い塊が落ちる。
ぼたっぼたっと音を立てて黒い塊が落ちる。それが雨なのか墨なのか分からない。兎に角、真っ黒だ。
純白の積雪はそれが落ちるたびに汚れる。
そこは私の心の中。純白の上に重なる黒を私は静かに眺めている。
こんなものでしょとばかりに見つめている。
なんてことない。ただ汚れている。純白が黒くなると平気だけど純白だったころに比べて黒いのが少し気になるようになる。何故、気になるかというと黒は白に比べて視界に入るから。真っ白だったら気にならないのに真っ黒な塊が落ちたせいで気になってしまう。見えないふりをしても見えてしまう。
白い感情に比べて黒い感情はずっと見えやすいところにまとわりつくから不便だ。
雪白よりも黒き雪白の方が私に見えやすく存在している。
嫌がらせみたいにずっと私の視界に入る。だから私は願う。どうかこの黒き雪白が気付かないふりをして何食わぬ顔で生活をしている人達にも見えますように、と。
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