噂好きのそばにいる上の空なあの子

 木製のイーゼルに立てかけられた一枚の絵を見つめる。

白い教会が青い空をバックに神々しく建っている。しかし教会全体の雰囲気はオレンジがかっていて温かい雰囲気に包まれていた。

「私、陸人の絵が好き。」

裸の上にタオルを掛けて陸人の描いた絵から目を離さない。

マグカップに入った温かい紅茶を二つ、テーブルの上に並べて陸人は笑う。

「こんなの模写に過ぎない。」

振り返って陸人を見ると上半身裸でスウェットを履いた彼は紅茶を飲んでいた。

「誰の模写?」

陸人の側に近寄って私も紅茶を口に入れる。生温かくて甘さのない紅茶が喉を通る。

「シスレー。好きなんだ。」

シスレー、スキナンダ。

陸人の言っていることが理解できなくて小首を傾げた。陸人はフッと笑うとマグカップをテーブルに置いて、ごめん。と短く謝る。

「俺が好きな昔の画家の名前。模写したけれど全然、上手くいかなかった。オリジナルはもっとすごいんだ。」

陸人の説明でようやく私は言葉の意味を理解した。

「私は陸人の絵が好きだよ。」

陸人の真似をするようにマグカップをテーブル上に置いた。茶色い陸人のマグカップに近づけるように置いたけれど近づきすぎないように微妙な距離にした。私のマグカップは赤。このマグカップを使っていたのはあの人なのだろうか。

「俺に話しかけてきた時は俺の描いている絵なんて見向きもしなかったくせに。」

陸人が楽し気に笑うから私も真似して笑ってみせる。口角を上げて口を少し開く。これで私も今の陸人のようにちゃんと心の底から笑えているように見えるだろうか。陸人が模写した絵のようにちゃんと陸人と一つになれているだろうか。陸人の反応を探るように上目遣いで覗くと陸人は何の不自然もないといった感じの顔で私と目を合わせたから安心してまた紅茶を口に含んだ。それから周りを見回すと床に置かれたスケッチブックを見つけて手に取った。

「ああ、それは大学でたまに使っているんだけど…」

スケッチブックを開いてパラパラとめくると真面目に描かれた鉛筆の線とは対照的なふざけた絵がところどころに散りばめられている。一番新しいページは毛を逆立てた猫とネズミのイラストだった。上手なのだろうけど遊び心が強すぎて独特なタッチ。真面目でお手本通りの絵を描く陸人の絵ではないことは明白だった。

「友達がふざけて描いたんだ。」

困ったように笑う陸人の顔を見て、私はまた知らない陸人の一面を知る。私が知っている彼はほんの一部に過ぎない。私の全てを知ることが不可能なように陸人の全てを知ることは不可能だ。友達といるときの顔、先輩といるときの顔、目上の人といるときの顔、家族といるときの顔、知らない人と話すときの顔……すべてを知ることは不可能でそれはもどかしい。何がこんなにもどかしいのか自分でも分からない。分かって欲しいなんてエゴの塊じゃないか。でも私は今までエゴイズムを中心にして生きてきたから今更こんな自分を止めることが出来ない。自分自身の止め方が分からない。陸人はある種のストッパーだけど陸人も人間だから時には私の思った通りのストッパーの役割をしてくれない。

スケッチブックを閉じて元の位置に正確に戻すと、甘えた猫のような声で陸人の名前を呼んで抱き着いた。

陸人は私の背中に手をまわして片手で私の頭を撫でる。そのままベッドに流れ込んで陸人が下、私が上の状態で何度もキスをした。陸人はいつもと変わらない表情で私をじっと見つめている。

嗚呼、この瞬間。この瞬間は私のものだ。この瞬間の陸人をどれほどの人間が知っているだろうか。過去に何人か見ていたとしても、今のこの陸人を知っているのは私だけだ。そう考えると苛立ちを少しだけ抑えることが出来る。なんでもごっこ遊びは楽しい。たとえ大人になっても大人は子供と一緒で遊んでいるときが一番楽しいのだ。遊びのかたちが変わっただけで無駄に見える時間が一番、自らの心を生かすことが出来る。

夢中になってしまうと息苦しくなってしまう。そうならないかたちが一番、人間に安らぎを与える。



 バスタオルを置きに脱衣所へ向かうと風呂場からシャワーの音とともに純一郎の鼻歌が聴こえた。

随分と上機嫌な声に会社で誰かに褒められたのかなとぼんやりと考えながらバスタオルを置くとそのままリビングに戻った。

テレビを点けて、今、話題のあの人にどっきり大作戦!と書かれたサイドテロップを見て何となくそのチャンネルにする。

ぼんやりと椅子に座ってテレビを眺めているとお風呂から上がって部屋着姿の純一郎が私の斜め後ろの椅子に座る。

「え、これ見るの?」

机に頬杖をついて切なげな表情の純一郎。私は小さくため息を吐いて純一郎にリモコンを渡す。

「サナが見たいのならこれでいい。」と言いながらもリモコンで回す気満々なのが見て取れる。

「たまたま点けたらやっていただけ。この番組じゃなくても別にいい。」

純一郎を見て言うと彼は、よし来た!とばかりに素早くチャンネルを替え始める。

お笑いコント番組、刑事ドラマ、リフォーム番組……と次から次へとチャンネルを替える。

純一郎が、うーん……と納得のいかない声を上げた。切り替わるテレビ番組たちを無表情で見つめる私。

最終的に動物番組を見つけて純一郎がこれだ!とばかりに、お!おお!!と声を上げた。画面越しには小型犬が男性アイドルと戯れている。

「可愛いな……」

甘えた声で画面越しの小型犬を愛おし気に見つめる純一郎。

「今、この子、人気だもんね。」

「いや、そっちじゃなくて、犬。」

白を切って返すとすぐに純一郎が突っ込んだ。

「パピヨンか……俺はマルチーズがいいなぁ……」

物欲しげに画面を見つめる純一郎を見て私は思わず眉間にしわを寄せた。

「言っておくけど、飼わないよ。」

私の言葉に純一郎は無言だ。

「犬の世話なんて出来ないでしょ?仕事もあるのに誰が餌あげて散歩すると思ってんの。動物は可愛さだけでは育てられないんだから。」

呆れたように言うと純一郎はシュンとした声で、そうだよな…と短く応じた。ただそのあとにチワワが映るとそれでも粘り強く、「チワワも可愛いなぁ……」と飼っている姿を妄想しているのか嬉しそうに呟いた。私は純一郎の言葉をシャットアウトするみたいにまるで無視した。

「今日もビール飲まないの?」

食事とお風呂を終えると純一郎はよく缶ビールを一缶飲むのが習慣だったが最近はその習慣を自ら禁止している。職場の若い子に以前に比べて太ったと指摘されたのを気にしているらしい。

「俺ももう、おっさんと呼ばれる歳になったからな……俳優みたいに渋くて格好いいおじさんを目指したいし、サナもビール腹のおじさんよりもダンディな方がいつか友達に自慢できるだろ?」

ちょっと前に純一郎がかっこつけた表情で私に向かって言った。

自慢する友達なんて一人もいないし今どき自分の父親を自慢する娘なんてそうそういないのに…という言葉を口にするのが阿保らしくて、「あ、そう。」と返してそっぽを向いた数週間前の私。あれから本当に純一郎はビールを口にしていない。

どうせすぐに心折れると思っていたのに意外と強固な禁酒態勢に少し驚いている。

「飲まないに決まっているだろう?」

頑なな純一郎を見ていると誘惑したくなった。

「冷蔵庫にキンキンに冷えているよ?純一郎が飲まないとそのままだよ?」

なんて酷な人間か。私の底意地の悪さが際立つ。警戒する牛の前で赤いマントを振る闘牛士のような気分。

「くっ……。いや……飲まない!」

つばを飲み込み、堪えた声で返した純一郎に私はいかにも興味のない声で、「あ、そう。」とこの前と同じ返事をして同じようにそっぽを向いた。純一郎は冷蔵庫を開けるとこれ見よがしに置かれた缶ビールを何故か野菜室の奥に仕舞って自分自身に見えないように隠すとビールの代わりに麦茶をコップに注いで一気に飲み干した。

「俺はビールがなくても大丈夫!」

自らに言い聞かせるように声を上げる純一郎が痛々しくてキッチンの端にいる彼にリビングから冷たい視線を送る。

「さて、明日も仕事が早いからもう寝るぞ!」

ビールの誘惑に勝った自らの喜びとビールを飲めない自らの悔しさで空元気な純一郎がやたら足音を響かせて二階の寝室へと上がっていった。

私もそろそろ部屋に戻ろうか…

流れるテレビは動物番組が終わってドキュメンタリー番組に変わっていた。

密着取材を受ける人気実力派俳優が、俺は役に生かされているから…演じていると自然にスイッチが入っちゃうんですよねぇ。と敢えてカメラから目線を外して話している。

ぼんやりと画面を見つめながら、たとえ勘違いであったとしても生かされている理由が自らの幸福のガソリンになっているなんて羨ましいと感じた。だって世の中には生かされている理由が幸福になる種とは限らないものがたくさんあるし、そもそもそんな理由自体が端からないことがほとんどだから。



「ねえ、文化祭終わったから授業ばっかでつまんない!」

 愛花が声を上げて机を叩く。

「そんなこと言ってる間に、あっという間にテストだしな!」

雅也の言葉に由美が悲鳴を上げる。

「テスト!勉強嫌だ!!」

愛花と由美は勉強が苦手で、はっきり言うとこの学校ではそこそこ馬鹿な立ち位置になる。雅也も同じく。

智也と直輝、さとみは平均的。私も三人と成績はさほど変わらないだろう。望美はこのクラスでは頭がいい方だ。うるさい奴が決してみんな馬鹿なわけではないのだ。うるさくても教師に対して舐め腐った態度でもクラスで自分の立ち位置に何の疑問も感じずに好きなものを好きと言って嫌いなものを嫌いと言って相手を躊躇いなく傷つけても勉強はできるから誰にも馬鹿にされない。むしろ勉強が出来たところであか抜けていなかったり、オドオドしている人間の方が自分の立ち位置を脅かされる。そういった人間はどこに行っても食らいつかれる。それに引き換え、堂々として一定数の仲間を囲んでいる者は強い。たとえ中身がスカスカの強さであっても虚勢を張ることが出来る。

私みたいに誰とも交流せずに単独行動する人間を彼女らは特に嫌う。嫌味を言っても、わざと聞こえるように悪口を言っても、後で馬鹿にするネタ作りのために話しかけられても素知らぬ顔でやり過ごす。そうすると彼女たちは自分の思い通りにならないことに苛立ってさらにヒートアップする。何とか私の崩れる瞬間を見たいと必死になる。その姿は実に滑稽で彼女たちも私と同じくらい不幸な人間なのだと思い知る。

何もないくせに私と同じくらい堕ちているなんてそれが人間の性なのだろうか。

「ねえ、私見ちゃったの!」

夏休みが明けてすぐのことだった。望美が教室内で嬉々とした声を上げる。

私はトイレに行っていて教室に戻ろうと半開きになった扉の前に立つ。

「佐伯サナが男とチューしてた!」

私の名前が教室内に轟く。

「えー!マジで!?」「うそー!相手、誰?まさか援交!?」

騒ぎ立てるのは愛花と由美だった。得意気に私と陸人の目撃情報を話す望美。

「若い男だったけどウチらより年上っぽかった!大学生くらい的な!?」

望美にとって私は天敵のような存在だから彼女が一番この学校の中で私の崩れる瞬間を望んでいる者だろう。

「マジかよ!佐伯さんって男いるんだー!まあ確かに大人しいけど顔は悪くないもんね。俺も佐伯さんならイケるよ!?」

雅也が話に便乗する。

「おい、そんなこと言うなよ!直輝が可哀想だろ!」

智也の言葉に女子たちが甲高い笑い声を上げる。

「本当だー!直輝、落ち込まないで!!失恋しちゃったね、可哀想!!」

愛花の子馬鹿にした慰めが教室内に響き渡る。直輝は苦笑するだけで何も喋らない。望美がそれを満足げに見つめている。

「まあ、でも佐伯さんと直輝じゃ話すこと何もないでしょ!?共通の話題なんてなさそうだしさ!」

愛花の言葉に直輝以外が納得するように頷く。私は教室に入るタイミングを失って立ち尽くしていた。

背後から人の気配を感じて横を見ると愛花の彼氏で隣のクラスの杉山浩太が私の肩にぶつかったことなど気にしていない様子で教室の扉を開ける。私は咄嗟に廊下の方へと逃げて行き場を失ったままもう一度女子トイレの順路を辿った。振り返ると遠のいた教室の扉付近で愛花と浩太が楽し気に喋っている。嬉しそうな顔で浩太を見つめながら彼の腕や肩に触れる愛花。そこへ望美も加わって三人が教室の扉を占拠する。私はそれを遠巻きに見つめがら前の扉から入ろうか、それともチャイムが鳴ってこの三人が散るまで待とうか考える。

彼らにとって私は楽しい遊び道具に過ぎない。直輝も彼らに踊らされている。そして彼らも私や直輝と同じくらい踊らされているのだ。

結局、私はチャイムが鳴るまで待ってから前の扉を開けて席に戻った。

「さとみ!またボーっとしているよ!」

由美の言葉で池田さとみが短く、ごめん。と返す。

「なんか最近ずっとボーっとしているよね!?」

望美の言葉に愛花が、恋か!?とニヤニヤして黒目を目の前の左右に動かす。愛花の目の前にいるのは雅也と智也と直輝の三人だ。

由美が気まずそうに愛花の背中を叩く。愛花は必死に笑いを堪えながら、うそ!ふざけて言っただけ!!と笑った。

「そういえば明日ってライブ?」

さとみが愛花に話を変えるように話題を振った。

愛花は嬉々とした声で、そうなの~!と返すとそのまま好きな男性アイドルのライブについて語り始めた。

「チケット取るの超大変だったんだから!ツイッター見たら結構落選しててさ~マジで奇跡の一枚!明日、ツイッターの相互フォロー同士で会場行くんだ!超楽しみ!!」

スマホを片手に好きなアイドルのライブ情報を語る愛花はいつも通り堂々として喋っていた。何かを情熱的に追ったことがない私には異世界の言葉に聞こえる。

私はさとみの顔を盗み見た。さとみは楽し気に語る愛花の隣でやはり上の空だった。

さとみが何故こんなにも心ここにあらずなのか、さとみと一緒にいる三人の女子も私も分っている。

私は彼らの仲間でもないのに彼らのことを網羅している。

彼らの観察日記は見ていて面白い。唯一気にくわないのは時折そこに私が加わることくらい。

それもこれも直輝のせいだ。直輝がこんなにも分かりやすい性格でなければ、あるいは私になんて興味を示さなければ私の観察ライフは順調なはずだった。あるいは順調じゃなくてもいいからもっと私に向かって感情で動いてくれれば、もどかしさなんて湧かないのに。

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