誰かの頭の中を覗くなんて誰にも出来ない
私と陸人が出会ったのは今年の八月だった。
夏休みなのに私は毎日、文化祭の準備で学校に通う羽目になっていて昼過ぎになるとバスで向かっていく日々だった。
バスに乗っても窓際に座れば太陽はしつこく私たちを追いかけまわして焼けるような熱さが顔に集中する。車窓を眺めるには熱くていつもの私なら外の様子など見なかっただろう。
それなのにあの時の私はどうかしていた。眩しい太陽の光で目を細めながら車窓の景色を眺めたのだ。
流れる景色の中で見慣れた湖が広がって一面が青くなる。その手前で小さく人の姿が見えた。
白いシャツにカーキ色のパンツ姿の黒髪の男。細身だけど骨格で男だと分かった。
いつもバスから見える湖の側の様子は犬の散歩をしているおばさんとか虫取り網を持った少年たちや、水面に触れようとする子連れの親子とかだったから興味を引いた。自分よりも少し年上くらいの若い異性がいたら気になるのは自然なことだ。
小さく見える男のそばには白いキャンパスが置かれていてすぐにこの人はここで絵を描いているんだなと分かった。男の姿は一瞬で流れる景色とともに消えたが私の頭には離れなかった。
この季節に外で絵を描くなんて暑くないのかな。
バスが停留所に到着する。人々が順番に外へ流れ出る。私もその流れに乗って外に出た。エアコンの効いたバス内とかけ離れた暑さがむわっと肌という肌を覆いつくした。
この暑さの中であれを描く必要があるのか私には理解し難かった。
それからいつも通り学校へ向かおうとしたら私の前に同じ制服を着たクラスメイト達が何人か歩いていた。誰も振り返らないし振り返って私を見ても認識するだけですぐに視線を外すだろう。毎日、みんなが同じ反応を何回も見せることを知っている。関心があるのに無関心。私は急に進んでいた方角を変えてさっきまで歩いていた道のりに戻った。
紐の先を辿るように目的とは違うところへ足を進める。だけどそれは私の新しい目的が出来た証だ。
強い日差しに目を細めて額に手を当てながら前に進むと、そのたびに汗がじわじわと出て制服を濡らした。歩き続けて湖の前に立つと、太陽の下で汗をぬぐいながら黙々と絵を描く陸人の横顔が目に映った。
「なんの絵を描いているの?」
私の言葉で横を向いていた陸人がこっちを見る。陸人が私を初めて認識した瞬間だった。
「別に。」
初めて私に発した陸人の言葉は素っ気なく、すぐに私から視線を外してキャンパスに向かいなおした。
私はそれでも辛抱強く陸人の隣に居座ってしゃべり続けた。
「あんたってすぐそこにある高校の子だろ。学校に用があるなら俺と話してる時間ないんじゃない?」
ずっとキャンパスを見つめて私に興味なさげな様子だった陸人も時間が経つと時折、横目で私をチラチラと見るようになり、次第に私の話に応答するようになり、自分から話を振ってくるようになった。
「明日もここに来る?」
作業を終えて帰り支度をする陸人に尋ねた。
「大まかな絵が完成するまでは来るけど。」
汗で白いシャツが濡れた陸人が私を見つめる。
分かった。私も来るから。
返事をして私は文化祭の準備などそっちのけで陸人に会いに行く夏休みを送った。
夏休みが明けて登校した時のクラスメイトの視線がどんなに冷たくても、どんなに嫌味を言われても気にならなかった。文化祭なんて私には楽しくない行事。そんな行事の準備をすることよりも絵を描いている陸人を見つめながら彼と喋っている方が楽しい。みんなが文化祭のことで頭がいっぱいになっていた九月、私は陸人と送り合うメッセージのやり取りを見つめて微笑んでいたのだった。
「もう帰るの?」
セーラー服に着替えて長い髪を整える私にベッドからうつ伏せの陸人が私を見つめて寂し気に尋ねる。ベッドから彼の片腕が外にこぼれてだらりとだらしなく垂れ下がっている。
「スーパー行かないとだから。」
返事の代わりに理由を述べると陸人は力なく、そうだね…と返した。
部屋を出るためにタンスに立てかけていたスクールバッグを持ち上げると視線の先に写真立てに入った陸人の家族写真が目に入った。陸人の高校入学の記念写真だ。入学式と書かれた看板の前で今より少しだけ顔立ちが幼い陸人が無表情でカメラを見つめている。その隣で同じような表情を見せる陸人の父。笑顔の母と姉。陸人の目は父にそっくりでそれ以外は母親似だ。陸人の姉はその真逆。目元は母親似で体型、輪郭、鼻、唇は父親似だ。同じなのに真逆な二人が横に並んでその周りを同じなのに違う二人の男女が取り囲んでいる。そうやって見ると家族写真とはいびつで奇妙なものだ。
視線を外して陸人に目を向ける。私の前で気の緩んだ姿の陸人は写真に写ったすまし顔の彼よりも魅力的だ。
「じゃあね。」
ベッドから離れない陸人に近寄って頬を撫でながら伝えると彼が上目遣いで私を見た。
「俺、お前が何を考えているのか分からない。」
彼の黒い瞳が不安を覗かせる。私は跪いて陸人の額にキスをした。
そんなの愚鈍じゃないか。陸人の目を見つめて優しく微笑む。
「私も陸人の考えていることが分からない。でもそんなことどうだっていいじゃない。」
そっと陸人から離れて部屋のドアを開ける前にひらひらと手を振った。陸人の瞳が揺れる私の手のひらを見つめていた。脱力した彼の姿を眺めるとそのまま家を出た。
バスに乗る前に高校とバス停の間にあるスーパーで買い物を済ませた。
家の近くは何もないから買い物をするにはいつもバスに乗って停留所から歩いて5分のスーパーを利用している。
駅前の方が店はいっぱいあるけど駅まで辿り着くのに最寄りのバス停から徒歩20分ほど掛かるため車に乗せてもらう時以外はほとんど利用しない。通っている高校とバス停の丁度あいだにあるスーパーはそれなりに大きくて品ぞろえも良く、学校帰りに買い物できるから、中学の時に比べてあの人の負担は減っただろう。私も好きなものを買えるから今の生活の方がいい。
お買得品になっていた鮭の切り身と野菜を手に取り、ついでに味噌がもう少しでなくなりそうだったのを思い出してそれも買った。セーラー服にスーパーの袋を下げてバスに乗る。膝の上に通学バッグを乗せてスーパー袋は足元に。間からネギの頭が顔を出して私の膝に寄りかかっている。ここから二十五分、また退屈な時間を過ごす。往復五十分の道のりは私には手持ち無沙汰だ。だからいつも音楽を聴いてみたり、車窓の景色を眺めてみたり、昔のことを思い出してみたり、ぼんやりと考え事をしてみる。
ただ考え事は考えても考えてもゴールが見えないからなるべく避けるし、考えて考えて行き詰ったら考えることを止める。救いなんてないのに、自分を救うのは自分だけなのに私はまだ自分の救い方を知らなくて溺れている。苛々しながらもう一人の私に、早く助けてよ。っていつも同じ言葉を言っているしもう一人の私は溺れている私を見ながら、助けるってどうやればいいの?って聞いている。だからいつまでも会話が成立しなくて、もう一人の私は怒り狂い、もう一人の私はオロオロしながら泣いている。自分の助け方を学んでこなかったから私の精神は子供のままいびつな形に成長して昔と変わらない。むしろ昔の方がマシだった。マシというよりは無邪気すぎて自分に嫌気がささなかった。今は自分自身に嫌気がさす。
大きくなると幼いころに受け入れていた自分自身に疑問を感じ始める。それがどんどんと肥大化していって嫌気に変わった。大人と子供の中間のせいだからかな。大人になればこの肥大化した嫌気とお別れが出来るのだろうか。
でも大人になればなるほど人は自分や他人について深く考え始めるから私がこの嫌気とお別れするには嫌気の元となる感情を消すしかない。でもそんなことが出来たら今ごろこんなに苦しんでいない。
原因とか単純な解決方法は誰にでも分かることだけどそれが本当に出来たら世の中の人間の悩みはだいぶ消えるかもしれないね。みんな頭では理解していても感情は頭の中の理想の状態にしてくれないから人間の感情をもっと単純化してくれればいいのに複雑なせいで問題が起きる。私みたいな問題児が生まれる。
バスが止まる。エンジン音が落ち着くと私以外にも何人か一緒に降りた。
みんな互いの顔を知らないけれど、ここに降りるということは住宅地であるこの土地の住人に違いない。
陸人の家を出る前は夕焼けが見えていたのにバスを降りる頃には暗くなっていた。
バスを降りれば家まではすぐそこの距離。歩いて我が家の車一台が入る駐車スペースを覗く。
ところどころに枯れ葉が落ちたがらんどうの駐車スペースを見て純一郎はまだ帰っていないことを知る。
そのまま家中に入ると暗い家内の電気を点けてテレビのスイッチを入れた。いつも通りのルーティンでそのままキッチンに向かう。買い物袋に入った味噌を冷蔵庫にしまうと、二階の自分の部屋に入ってセーラー服を脱ぐ。着古した黒のトップスにグレーの緩いズボンを履くと家に帰ってきたという安堵感に救われる。
その格好で下のキッチンに戻ると水を入れた鍋に火をかけて今日の夕飯作りを開始する。
初めて料理をしたのは十四歳の時だった。正式には小学生の時の家庭科の調理実習になるが、それを含めないで人のために食事を作ったのはその時が初めてだった。それからたまにやるようになって高校受験が終わると自然に私の役割になった。
役割をこなすことは嫌いじゃない。自分の存在価値を見出せるから。二人分の食事を作ることは私にとって必要な作業だから近所の人が言うほど苦じゃないし、可哀想でもない。教室掃除のごみ捨て係を押し付けられるのとは違う。苛々もしないし、存在価値がある。押し付けはただ利用されただけに過ぎない。私じゃなくても出来る。弱くて孤独で愚かな者なら誰にでも任される役割だ。
味噌汁が沸騰したため火を弱めると玄関のドアが開く音が聞こえた。そのままキッチンへ近づく足音が聞こえる。焼いた鮭をお皿に置いて、すり下ろした大根を乗せようとしていると視線を感じて顔を上げた。
「今日は魚か~。」
魚の気分じゃないのか心成し残念そうに聞こえる。
肉が良かった?と聞くと純一郎は、いいや、別に。と背を向けたまま返事してネクタイを緩めた。
そのまま純一郎のルーティンが始まる。ネクタイを外すとソファーの上に投げてキッチンとリビングの奥へ。小さな仏間からリンを鳴らす音が聴こえる。リビングの先にある小さな仏間には母が眠っている。笑顔の母の写真とともに置かれたリンを朝晩鳴らすことは純一郎のルーティンになっている。
私はそのリンを鳴らさなくなってどれほど経っただろうか。食事を作るルーティンよりもずっと前に止めた。子供はやめても父はそれをやり続けている。
少し先にある純一郎の背中を眺めながら冷凍ご飯を電子レンジで温める。卓上に焼き鮭と味噌汁とサラダを先に置くと純一郎が近づいて鮭を切なげな表情で見つめた。
ああ、鮭の気分じゃないんだろうなと察しながら素知らぬ顔でお茶碗に盛ったご飯を置いた。
それでも切なげな顔が変わらないので見かねて、「冷凍ハンバーグあるけど?」と尋ねると椅子に座った純一郎が、「いや、いいよ。」と言って箸で鮭をほぐし始める。私も純一郎の前に座って食事を始めた。
テレビは丁度グルメ番組がやっていて人気洋食店のハンバーグを取り上げていた。ハンバーグを口に入れたタレントが体を上下させて、肉汁がすごい!噛んだ瞬間にジュワッて!と声を上げている。
私たちはそれを見ながら黙々と焼き鮭を口に入れて、塩気を感じながら白米を運ぶ。
「ハンバーグか……。」
純一郎がテレビを見つめながら物欲しげに呟いたため私は立ち上がって冷凍庫から冷凍ハンバーグを出して温めた。
賑わう昼休みの廊下で飲み物を買いに自動販売機へ向かった。
生徒たちのはしゃぐ声があちらこちらで聞こえて、顔を知っている生徒も知らない生徒も私の横を通過する。ミニ財布を持って自動販売機にたどり着くと販売機の前に直輝が立っていた。
直輝の横顔を黙って眺めているとそれに気づいた直輝がこちらを向いて目が合った。
あ。という声が心の中で漏れているのが表情で分かった。
「先にどうぞ。」
まだ何も買っていない様子の直輝が遠慮がちに譲った。
私は黙って近づくと先に既に買おうと決めていたオレンジジュースのボタンを押して販売機に小銭を入れようとした。
「あ、待って!」
直輝に言われて小銭を入れる手を止める。彼を見ると彼はポケットから小銭を出して私の代わりにお金を入れた。
ガコンッという鈍い音とともにペットボトル容器のオレンジジュースが落ちる。
「ありがとう。」
オレンジジュースを手に取って礼を言うと直輝はぎこちなく笑った。
「でも、なんで?」
友達でも何でもないただのクラスメイトである私にジュースを奢ってくれる理由は明白だったが何も分かっていないような顔で尋ねた。いつもなら目が合っただけで動揺するような直輝が力なく笑う。
「気まぐれかな…」
珍しく直輝の方から視線を外して自動販売機に小銭を入れた。
サイダーのボタンを押して取り出す。ペットボトルからクリアな液体が見えた。
「じゃあ。」
短くそう言って背を向ける直輝の背中を見つめながらオレンジジュースを握りしめた。
同じ制服の生徒たちの波に直輝の背中が紛れて分からなくなった。
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