黒き雪白

水綺はく

誰かに心を開くなど私には考えられない

バスの中はゆりかごみたいで揺られているとあくびが出る。

瞼が重くなるのを懸命に持ち上げながら前方の様子を眺める。

座って本を読んでいるスーツ姿のサラリーマンの背中、吊革につかまって立っている女性は私よりも年が十は離れているように見える。薄ピンクのレザーでできたショルダーバッグを肩にかけて綺麗に描かれた眉毛に赤いリップが映える。服装も身綺麗にしているが通勤が好きじゃないのかどこか気だるげでやる気ない表情でスマホを見つめる横顔が見えた。

この人も私と同じくらいこの道のりに退屈しているのかな。

バスに乗る人々の中で毎日を心の底から充実させて生きている意味を分かっている者はどれほどいるのだろうか。

私もあたなたちも同じじゃないか。違うふりをしているだけ。

後方で楽し気な甲高い笑い声が聞こえた。

ああ、きっと一年生だ。春から同じバスに乗る同じセーラー服の女子が二人いた。名前は知らない。一人はショートカットでスポーティな感じ。もう一人は髪が長くていつも一つに結っている小太りの子。いつも楽し気に笑っている。何がそんなに楽しいのか分からないくらいに。一度、何がそんなに楽しいのか近くの席に座って盗み聞きをしたことがある。会話の内容はどれも陳腐でショートカットの子が時折入れるギャグセンスもクオリティが低くて何でそんなに笑いが生まれるのか分からないまま合いの手のごとく頻繁に流れる二人の甲高い笑い声が私のBGMとなった。そのBGMが嫌いだから最近の私のバス内でのマイブームはイヤホンで音楽を聴くこととなった。そんなBGM、どうせまたすぐに聴くことになる。バスの中でまで聴くほどのものではない。静かなバス内で彼女たちの笑い声だけが響いても気にせず笑っていられるのは彼女たちが女子高生というブランドを自負しているからだろうか。いや、それだったら私も同じはずだ。それじゃきっとこれだ、一人じゃない。

人間は一人じゃない瞬間を目一杯、楽しもうとする。一人じゃないと分かると途端に強気になる。でも一人ぼっちになると急にしおらしくなる。その差は歴然だ。悲しい人間の性。一人になることを怯えて死ぬまでずっと誰かと一緒にいようとするなんて、一瞬たりとも。

車窓から流れる景色に目を向けると道路の向こう側に広がる大きな湖が丁度、目に入った。

緩やかにそこだけ時が止まっているかのような湖。その先で密生する緑樹たちはまるでこの湖が逃げ出さないように閉じ込めて何かから隠している孤独な集団に見えた。

ここで出会ったことを思い出すとしぼんでいた花が再び開くように心が浮つく。

毎日繰り返される強制的な当たり前の日々。途中放棄することだって出来るけど私の理念にそれはない。だから毎日繰り返す。毎日毎日毎日毎日毎日、同じように繰り返す。だからたまに刺激を与える、自分自身に。毎日は強制的だからその中でたまに刺激を与えないと退屈して死んじゃう。でもみんなだってそうじゃん。同じくせに違うふりをしているけれど見え透いている。

他人のふりをしたって、違う人間を見ているふりをしたって同じ。私たちはみんな同じ。

湖の景色が見えれば目的地はすぐそこを意味している。バスに揺られること二十五分。楽しいことならあっという間の時間だが退屈な時間にしては長くて苦痛だ。これを平日、朝と夕方、乱れることなく繰り返す。

終着地の停留所に着くと密集していた人々は列を作って順番に放たれる。この瞬間は外から眺めると面白い。車窓から同じ方角を向いて隙間なく並ぶ人々の頭が見えて、それがどんどんと前へ前へ、やがて跡形もなく消える。頭たちは小さなドアを抜けるとそれぞれが別々の方向へと歩いて行ってさっきまで同じ道を進んでいた一つの集団はあっさりとバラバラに。私たちの必死に隠している性が勝手に暴かれる瞬間。誰に隠しているか?それは私たち。私たちが私たちに隠している秘密。みんな全部気付いているけれど気付いていないふりをしている。私はそれが出来ないだけ。でもあからさまには許されないからじっと耐えているだけ、愚かだから。

バス停から歩いて十分。何百回も見ている景色は肌に馴染んでうんざりするほど。私と同じ制服の子たちが同じ方角を目指して歩く。そしてセーラー服と同じくらいの割合の学ラン。白、紺、黒の三色でできた景色。十月はすぐに終わってもうすぐ十一月。私は夏に買い物をしたことに満足している。お金は使っていない。時間という買い物をした。行動する時間を掛けたことで退屈な毎日がいくらか楽になった。彼に出会って良かった。

「望美ー!!昨日のライン、マジで何なの!?意味不明でウケるんだけど!」

教室に入ると大久保愛花のしゃべり声が一番初めに耳に入った。

またこいつか。最近、教室に入って一番最初に聞こえる声第一位。よくしゃべるし声が大きいから確率が高い。

「ノリで送った♪」

赤塚望美が返す。相変わらず気の強そうな声。一体何をノリで送ったら意味不明でウケることになるのか。

「本当、お前ウケる。あとで七人のグループラインに画像送るから!マジ、絶対ウケるからみんなにも見せるから!」

七人のグループラインに何の画像が送られるのか私には分からなくても七人のグループラインのメンバーが誰なのか私には分かる。勿論、私はそのメンバーではない。

「おい、智也!この間、〇〇の新刊買った?買ったら次、俺にも貸して!」

七人のグループラインの一員で愛花と同じくらいよくしゃべる関根雅也の登場。ちなみに彼は賑やかなのを嫌う教師の授業の時だけ静かになる。眠っているためだ。

彼の前で頷く宇賀智也は制服のボタン開けすぎ。インナーシャツ見えますけどって思わず言いたくなる。私はそんな彼と一度も喋ったことはない。

「あー!マジ生理痛重ーい!!」

大きな声でがさつにドアを開けて教室内に入る平岡由美。これでのちに意味不明でウケる画像が送られるグループラインの五人が揃った。

それから数十秒後、由美が開け放ったままのドアから静かに入ったのは沖直輝と池田さとみだった。これで七人揃った。お馴染みのメンバー。彼らは怯えることを知らない。七人だから、男女だから、賑やかだから。理由はいくつもあるだろう。だけどきっと誰一人としてそんな理由を端から考えていない。考える必要がないから。

私は考えてしまう。そして醜く見えてしまう。醜いものは見たくない。その反面、眺めていたい。眺めている分には楽しめる。でも彼らが私に関わってしまうと、それは途端に嫌になる。醜いから、関わりなくい。私の存在に気付かないように私に見せてくれればいいだけ。


「ねえ、佐伯さんてさ、本当に静かだよね。友達もいないし、あれで彼氏とどんな話しているんだろ?」

数日前の放課後、教室掃除で私にごみ捨て当番を押し付けた由美がさとみと話している声が戻ってきた私の耳に入った。私は咄嗟に隠れて二人の会話を盗み聞きする。

「なんか、あの子って何考えてるんだか分からないよね~。話しかけても全然、自分のこと言わないし。いつも一人で変な子だよね。」

喋り続ける由美にさとみが私のことなど興味ないといった様子で、「今日、暇?一緒にファミレス行かない?」と返す。

「行く行く~!」嬉々とした声を上げる由美とさとみの甲高い笑い声が聞こえて私は逃げる必要などないのに咄嗟にトイレへ駈け込んだ。トイレで数分、鏡を見ているふりをしてから廊下の様子を窺う。丁度、教室から出る二人の背中が見えた。遠のいていく二つの背中は私と同じセーラー服で同じ背中だ。

何も知らないといった様子の二人の背中を眺めながら思わず静かに笑った。

「今日の一限目、現国かよー!超眠いじゃん!!」

雅也が声を上げる。現国は寝ていると起こしてくるお堅い先生だ。雅也にとっては安眠妨害な存在だろう。

教室内は生徒の声ではじける。ねじを巻いたぜんまい仕掛けのおもちゃみたいにみんな忙しなく喋る、動く。私はその中に取り残されてひとりでに浮く。同じ制服を着ているのに私だけぜんまいが壊れているみたいに。

椅子に座って机に頬杖をついたまま視線を泳がすと直輝と目が合った。彼が驚いた様子で目を見開くのを見たと同時に視線を外す。別にこれが初めてじゃない。もう何十回と目が合っている。それなのにいつも彼の反応は新鮮で単純だ。視線を泳がすとその視線をどこに戻せばいいのか分からなくなって結局、自分の一番近くに戻した。頬杖をついている机。ここに戻すのが無難だ。そのままスマホを開けば何もおかしくない。

浮いているけれど上手く浮くことが出来る。浮くうえで、無関心な中で、嫌われる中で、一番ベストな浮き方を時折、模索している。別に誰のためでもなく、私のために。

チャイムが鳴ると担任の岩崎嘉男が現れた。

「あれ、よっしー髪切った?」

昨日よりもさっぱりとした雰囲気になった岩崎の髪型を見て雅也が言った。

「えー!前の方が良かった~!」

由美が声を上げると岩崎が、「お前らはいつもいつも、よく喋るな……ほら、ホームルーム始めるぞ!」と出席名簿を持って教卓に立つ。出席名簿は私たちの名前という文字が羅列されたもの。教室とは机と椅子が並んで二種類の制服が交互にいくつも羅列されたもの。

学校が始まる。これが一日の始まりの合図だといっても過言ではない。それは退屈な毎日のスターターピストルの音が響く瞬間だ。音が鳴ったら最後、みんな訳も分からず走り出す。



 チャイムが鳴る。教師が話すのを止める。

「はい、じゃあ、ここまで。」

教師の言葉で糸が切れたように生徒たちの姿勢が崩れる、賑やかになる。

誰かが立ち上がって教室という小さな箱の扉を開けるとみんな一斉にバラバラになる。

各班ごとに担当された掃除を終えるとようやく学校という教室に比べて大きめの箱から出ることが出来る。

学校という箱は放課後になると扉が開け放たれていて自由に出入りできるようになっている。私は扉を出てようやく息が出来るようになる。生徒や教師といった学校関連のものが視界から消えると歩きながら深呼吸した。

空気が美味しい。

不味い空気の中で息苦しく密閉されていた苦痛の時間から解き放たれる瞬間は開放的で嬉しくて、ちょっと寂しい。湖の景色を眺めながら歩いていると目的地に永遠と辿り着けない錯覚に陥る。それはいつものことだけど歩き進めればちゃんと辿り着くことを理解している。

歩き続けること十分。さっきまで小さく見えていたマンションが大きくそびえ立つ。

私は住人でもないのに住人かのようにその中に入る。

シックでスタイリッシュなエントランスは我が家の古びた一軒家と違って機械的で心の余裕を感じさせる。でも私は別に余裕なんてなくてもいい。たとえ簡素でも質素でもいいから…

「入って。」

インターホンを鳴らすと陸人の声が聞こえた。エントランスを抜けて歩きなれた経路で進む。

私の青春時代は不毛だ。きっとこれからも。

成果なんて求めちゃいけない。彼に心を開くなどありえない。許されるはずなどないのだから。

ガチャッ

ドアが開くと陸人が私を見つめる。

「こっち。」

陸人に言われて中に入った。もうこの家の景色も見慣れている。でもまだ大丈夫。

相変わらず生活感のないキッチンと、いつ見てもしわが寄っていない黒い革製ソファーと鍵しか置かれていないガラステーブルのあるリビングを抜けて陸人の部屋に入る。陸人の部屋は無機質だけどまだ生活感がある。無機質というよりは極端に近い。生活感を感じさせるのはベッド。ちゃんとしわが寄っていて布団の整え方が雑だ。それから使い古された絵の具のチューブが何個かケースから抜け出して床に転がっている。

出し切っているはずなのにまだ使えるといった感じでしわが寄って不格好に反りあがった絵の具のチューブが床に落ちていると可哀そうで拾って捨ててあげたくなる。もうあなたの出番はないんだよ、いらないからね。そう言って埃や雑紙の入ったゴミ箱に葬ってあげたくなる。

「絵、完成したんだね?」

視線を絵の具からキャンパスに移して言うと陸人が、うん。と返す。

「昨日、色を塗り終えたんだ。」

思っていた通りだ。私がバスで散々見慣れたあの湖は私の思っていた通りの色彩で陸人によって描かれた。

湖だから青のはずなのに暗くて底なし沼のようだ。奥に広がる森林は全く青々としていなくて重苦しい雰囲気で湖を取り囲んでいる。

陸人の描いた絵だから、私と同じ。

「やっぱり絵、上手なんだね。」

キャンパスを見つめたまま褒めると陸人のフッという微笑が聞こえた。

「こんなの俺の大学では描ける人なんていくらでもいるから。」

「いいえ、描けない。誰もこんな風には描けないはず。」

キャンパスに手を伸ばす。あと少しで触れそうなところで陸人が私の後ろから両手をまわす。

「その絵、気に入った?」

私のお腹に手を置きながら耳元で尋ねる。陸人の体の熱が私の背中に伝わった。

「私と捉え方が一緒で気に入った。」

微笑んで陸人の目を見ると陸人も嬉しそうに微笑んだ。

「捉え方が一緒ってなんだよ、それ。」

彼は楽し気に耳元で囁く。

私は体を向きなおして陸人と向かい合うとキスをした。長いキス。舌を絡めながら生温かいヌメヌメとした唾液を感じる。そのまま制服を脱ぎ捨てる。

セーラー服。さっきまで学校という箱の中でみんなが着ていた服。私も私じゃない人も背中を向ければ見分けがつかないくらい同じかたちのもの。陸人はそこから私を見分けられるのだろうか。

私は放課後になるとようやくそこから抜け出してあなたに会いに行く。何も知らないあなたに。

陸人に会えばその制服を脱ぎ捨てることが出来る。

裸になって陸人と交わる私は唯一、学生ではなくなることが出来る。

高校生、そんな区別はつかなくなる。だって今、陸人の前にいる私は息を荒げる一人の女だから。

一人の女、紛れもなく女、欲望に溺れる女。

抱かれる瞬間は私の焦燥感を唯一、消し去る。

でもその瞬間が終わると私はまた焦燥感に駆られて孤独になる。

だから永遠に抱かれていたい。誰でもいいわけではない。同じ人じゃないと。

私と同じ人じゃないと駄目。そうじゃないと苛立つから。

陸人の体の熱を感じて荒い息遣いと漏れ出る声を聞きながら私も同じように返す。

その方が興奮するから。

誰が?もちろん、私たちが。

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