さあ早く!その風邪を私に移すんだ!あ、もちろん熱烈なチッスでね!
カチカチと時計が時を刻む音が部屋に満ちる。針が指し示す時刻は9時。
普段ならば何らかの生活音が響いてるはずの時間だというのに時計以外の音が一切ない。
家に誰もいないのか?
ーー否、家主の女性がいる。
彼女は時計をチラチラと見る。その顔には待ち人来ず、戸惑いと悲しみの表情が浮かんでいた。
さらに時が進み15分後、ようやくインターホンが鳴る。
彼女は飼い主の帰りを待っていた犬のように、尻尾があれば間違いなく千切れるほど振っているだろう、喜色満面といった表情をしている。
玄関へと素早く行き鍵を開けドアも開ける。
「おはようございます」
挨拶は大事、古事記にもそう書いてある。いつもならすぐ挨拶が返ってくるだろう。しかし挨拶が帰ってこない。
目の前にいるあの子の表情は、前髪で顔が隠れているため見ることができない。いつもならすぐ返ってくるのに、挨拶を返されないことが少し悲しい、いや結構悲しい彼女であった。
私は…何か失礼なことをしてしまったのだろうか… 原因は自分なのではないかと思う。思い返せば……
ーーセクハラしかしてねぇわ。
言うまでもなくギルティ。これである。
社会的な死よりもこの子に嫌われるのは恐ろしい。土下座をするためにしゃがみこむ。
その時ようやく気づいた。家政婦さんの様子がおかしいと。
ため息のような憂や呆れを含んだものではなく、発情した猫が鳴き続ける時のような熱のこもった艶のある息を吐き続けている。
「はぁ…はぁ…」
覗き込んだ顔は赤い。それどころか耳まで真っ赤だ。視線はあっちこっちと向いており定まらない。目尻には涙を溜めている。
「もう…だめぇ…」
そう言い家政婦さんは私を押し倒そうと倒れ込んでくる。
身長と体重の差は最も分かりやすい力の差だ。身長体重共に勝っている私が倒されるわけもなく、家政婦さんが私に抱きつくような形になって終わった。
とうとう私の魅力にやられてしまったのね!ふふ仕方ない子ね。
というわけで据え膳食わぬは変態の恥、それでは…
「いただき…」
「けほっ… けほけほっ…」
ふむ、ははーん… なるほどなるほど。これは…
風邪ですな。
<悲報> 発情期ではなく風邪でした。
ーーーーー
ーーー
ー
家政婦さんを部屋のベッドに運び込む。原因はこの前の雨だろうか?かなりの土砂降りだったし…
それにしてもすごい熱だったなぁ。大丈夫だろうか、心配だ。
とりあえず今の私に出来ることは飲み水の用意と冷却シートぐらいだろう。お洒落なタンブラーなんか家にはないし…
ペットボトルに水を入れておくとしよう。女子力が低い?うるせぇ!そんなもん水筒やペットボトルでいいんだよ!
冷却シートは冷蔵庫に入れてたはず。うん、ちゃんとあるね。
ほら見ろ!女子力だぞ!冷蔵庫から瞬時に冷却シートが出るんだぞ!
それにこんな美人が甲斐甲斐しく世話するんだぞ!嬉しいだろぉ!
看病装備一式を持って自室へと向かう。先ほどの二つに加えタオルと風呂桶も用意した。
扉をそっと開け奏さんを起こさないようゆっくりとベットに近づく。
奏さんはかなり辛そうだ。明らかに息が荒くなっている。シートを袋から出し奏さんのおでこにピタリと貼り付ける。
しかし冷却シートがすぐにぬるくなりそうなほど熱いな。
「んんっ… ふぇ… 彩音さん?」
「あ、すいません。起こしてしまいましたか?」
「あれ…?僕は…どうしてここに…」
今までの経緯を掻い摘んで説明する。私に倒れ込んできたというのは伏せて。
「うっ… ご迷惑をおかけしました…」
「いえ、普段私の方が迷惑をかけてます」
家事的な意味とセクハラ的な意味で。
いつもお世話になってます。
「それはだって… 僕のお仕事ですし…」
家事だけの意味だと思ってらっしゃる。まあこの言葉の裏の意味に気づかれたら私は死ねる。
「とりあえず今日は休んでください。そうですねぇ… 風邪が治ったらとびっきり美味しいご飯を作ってくださいな」
「!…わかりました。彩音さんが口や目から光が出るようなご飯を作りますよ!」
それはいったいどこの味皇だ。それにしても意外である。奏さんからそんなネタが出てくるとは。
見かけによらずアニメやマンガは見ているのかもしれない。まあ私と同類であったとしても私のこの趣味を明かすことはないだろう。
我ながら歪んだ性癖である。あ、もちろん皆にも内緒だよ。言うわけないじゃない、乙女の秘密を探ったらやーよ。はぁと。
誰が何と言おうと私は乙女です。20超えて男との付き合いが一切ない純真無垢な乙女です。な?そうだろ?な?乙女だろ?
「お水ここに置いときますね。何かあったら携帯か何かで呼んでください。私はお昼ご飯作ってきますから、奏さんはしっかり寝ててくださいね!」
「はーい……」
奏さんが布団を被るのを見届けた後キッチンに移動する。
風邪か… 私が風邪の時はよく母が卵粥を作ってくれたな。奏さんの為に作るとするかな。
ついでに私もお粥にするとしよう。その方が楽だし。
昨日の残りのご飯を冷蔵庫から出しお粥を作る。出来たお粥に白だしと卵を入れ塩をかけて完成だ。万能ネギを上に添えておこう。
………お粥だけって寂しいなぁ。冷蔵庫を漁って見ればパックに包まれたゼリーが出てくる。
ヤクブーツキメたねという薬を飲みやすくするためのゼリーだ。些か、いやかなり名称に問題がある名前だろう。
確か忙しい時にゼリーを買おうしたら間違えてこれを買ったんだよね。パッケージをまともに見なかった私がアホだったよ… 今思えば店員さんが怪訝な表情してたしね。
ゼリーを皿に移す。薬は種類を一応たくさん持っていくとしよう。市販とは言え自分が使っている薬を他人に使わせるのはあまり良くないが、薬無しですぐに良くならないだろうし少しでも症状を和らげてほしいのだ。
さてと、それじゃあまた行きますかね。
ーーーーー
ーーー
ー
「奏さん、お粥と薬持ってきました。食べられそうですか?」
「はい、ありがとうございます」
奏さんはなんとか身体を起こしこちらを見る。
「いい匂いですね… 」
「お粥にダシを入れましたからね。ただのお粥だと味気ないですし卵粥にしました」
くきゅるる〜と気の抜けた音がする。奏さんのお腹の音だ。
「う… あは、はは。僕、病気の時もしっかり食べる人間なんですよね。だからいい匂いを嗅ぐとお腹が…」
熱のせいで赤い顔をより赤くしてそう言う奏さん。
なるほど、食いしん坊男の娘、ありだな。
「ふふふ、そうなんですね。それじゃあしっかり食べてください」
スプーンでお粥を掬い息を吹きかけ冷ます。病人にやるべき事はただ一つ、あーんに決まってるだろぉ!!
「はい、あーん」
スプーンを奏さんの方に持っていくと奏さんは目をまん丸にしてから慌てだした。
「あ、あのですね、僕は確かに体調が悪いですけど…」
「あーん」
「スプーンも持たないほど弱ってるわけでは…」
「あーん」
「じ、自分で食べれますよぉ…」
「あーん」
「うぅ… ふぁい」
「ふふ、はいあーん」
奏さんは押しに弱い。多分必死に頼み込めばやらせてくれる。嘘です、押しには弱いけど線引きなんかはしっかりしてるので頼んでも無駄です。
残念、誠に残念である。
お粥を目を細めながら美味しそうに食べてくれる奏さん。
しかしなんというか…こう、小鳥に餌を与える親鳥の気持ちというか、うん、すんごいかわいい。
「ふふ、懐かしい味です。僕の母はよく病気の時に卵粥を作ってくれました」
「おや、そうなんですか?私の母もそうなんですよ」
奏さんのお母さんはよく卵粥を作ってくれたらしい。
私が奏さんのお母さんだ!(唐突)
いやーそれにしても共通点があるって嬉しいよね。
気がつけばお粥は綺麗になくなっていた。
「あっ…」
お粥のなくなったお茶碗を見て残念そうな声を出す奏さん。控えめに言ってかわいい。ふふ、けど大丈夫!まだゼリーがあるのだ。
「おぉ…!」
ゼリーを出せば沈んでいた表情が一気に明るくなる。かわいい。
「奏さん、この中で使ってる薬はありますか?」
「あ、僕はこの会社の薬をよく買いますね」
奏さんが選んだのはヴェレーノ社の風邪薬である。私も体調崩した時はこの会社の薬をよく使う。何というかすごいよく効く薬なのだ。不思議なくらいね。
ふふ、また共通点を見つけてしまった。意外と私達は似ているのかもしれない。
「それじゃあこの薬を飲んでまた寝てくださいね」
「はい、絶対にすぐに治して美味しいご飯を作ります!」
私はまた奏さんが布団を被るのを確認してからリビングに戻っていった。寝ている奏さんにキス?そんなことはしない。そんなやつは淑女の風上にもおけない。
ーーーーー
ーーー
ー
気がつけば街は夕焼けに染まっている。今日の奏さんはしおらしいというか、感情が制御出来ていないというか、借りてきた猫のような感じがとても可愛かった。
カナデニウムの補充は済んだな!これであと1週間は戦える!
翌日、奏さんは完治し私に料理を振舞ってくれた。
その日、光を発しながら町内を走る人影がいたと噂されたことから私に何があったかはいう必要はないだろう。
この主人公普通にきめぇな… 感想や評価、リクエストお待ちしてます。
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